はじめてレッスンに行った日のことをおぼえていた。
夜鷹純の演技は観たことがあった。
それは光だけではなく、きっとほとんどの国民が一度ならず観ている。
彼が五輪で金メダルを獲得した数年前の演技は、YouTubeで8桁に届きそうなほどの再生回数を記録し、いまだにコメント欄が更新されつづけている。いくつもの言語における最高の美辞が与えられ、それを熱意あるだれかが翻訳し、映像は言語は情動は加速的に伝播した。
彼は神話になった。
早すぎる引退が、精髄をきわめた技術が、蠱惑的な踊りが、彼を偶像に結晶させた。
それから10年、彼は表舞台に上がらないまま、年端もいかない少女のコーチをはじめる。謀殺された王が我が子に秘密を伝えるみたいに、彼は光にスケートを伝えている。真夜中にのみ姿を現すことをゆるされる亡霊が、この世に置き忘れてしまった肉体を取りにくるかのように。
「きみは他人を灼くから」
と言われたのだった。
光の瞳はしばたいた。このコーチが彼女のつぶやきにろくな返事をするとも思えなかったのに、それが返ってきたうえに言い回しがややこしいときた。
「やく? 燃やすってこと?」
反射的に返した言葉に、からだの芯が冷えていったのに、光は無邪気にも気づかない。そういう意味で、彼女はただしく夜鷹純に見初められた、孤独にうつくしい獣だった。
あおい火がまぶたの裏にゆらめいて、足下の氷が溶ける。ぬかるみのような闇だ。足をとられてしまえば、二度と抜け出せないかもしれない。彼女はそういう魔を飼っている。というよりも、巣食われている。獣とはそういうものだ。おのれの魔性を飼いならせなければ、それは死にいたる欠損として、そのいのちを奪うだろう。
そのようにして朽ち果てつつある死にぞこないは、いつもレッスンを終えると外で煙草をしゃぶり、烽火のように呼吸する。光は怒らない。それは彼女が煙を吸いこまないように配慮されていたし、なにより、そうでもしなければここにいることさえつらいひとなのだと、直感が告げていた。
「そんな話をしたのがだれかは知らないが」
「理凰です」
外から見れば分かっているような、分からないような表情を見て、後者だと確信する。この男はひとの名前も顔もそうそうおぼえない。氷の上にいたことがある人間なら、だれもが彼を知っているだろうに。
「彼はきみの才能に灼きつけられるだれかを心配しているというよりも、きみがだれかの死骸を目にしてしまわないかを心配しているんだよ」
「見せてください」
くちびるにのせたことばに気づくのに、彼よりも時間がかかった。衝動が堰を切って、とまらなかった。奇妙なめぐりあわせのうちに生み落とされていたとしても、光はまだ子どもで、そんなことばでしか表現できなかった。無垢なものでなければ、夜鷹は飽きるどころか、目に入れることさえしなかっただろう。
「トリプルアクセル、完成させたいんです。すべてのトリプルジャンプを跳んで、それで、クワドに挑戦できるようになっていなきゃ」
勝てない。
あなたのように。
この銀盤の王にはなれない。
レッスンの終盤で、すでに光への手本として、いくつものコンポーネンツを精巧に見せつけたはずだった。それがめくるめく間にリンクを横切って、最高のスピードに達する。この眩い舞台をつらぬく闇のようなスケーティングよりもうつくしいものを、光はいまだに目にしたことがない。
そうして、彼は跳んだ。
肺をみずからむしばんでいようが、ひとをどれほど残酷に傷つけようが、彼はこのスポーツそれ自体の概念だったから。
「覚えて」
「はい!」
星の子を果てまで連れていくのは自分しかいないと直感していた。ちがう。彼女を連れていくのは自分でないといやだった。
僕はきみをひとりにはしない。僕がひとりにされおかれたみたいにはしない。
でも友だちがほしいな、と光は結束いのりの顔を思い浮かべたけれど、彼の背中を見ているとなぜだかどうしようもなく、言葉は喉につまった。騙しているような気がした。置いていってしまうような気がした。
死の舞踏