くにちょぎ現パロ
墨の香りがつんと鼻腔をくすぐった。
とうろりと目蓋を開けた先には、文机に向かい合う恋人の背中。あれほど明るかった窓外は暗い。しとしとと雨の降る音が聞こえてくる。部屋の隅で扇風機が回っていた。
さり、さり、と墨を磨る音。
この家ではずいぶんと慣れ親しんだものだ。けして広くはない六畳間。長義が横たわる布団と、恋人が向かい合う文机の距離はたいそう近く。長義は手を伸ばして、恋人の着物の裾を軽く引いた。
さり、と音がとまる。
墨を置いて、ゆっくりと国広が振り返る。
緑翠のひとみが長義の顔を映してやわらかく細まる。
「起きたのか」
「ん……」
思いのほか声が出ず、あどけない返答になる。
国広は笑い、膝を揃えて長義に向かい合った。
傍らに置いてあった水差しに手を伸ばし、国広はグラスに水を注いだ。はらりと落ちた前髪が、目元に影を落とす。
「そら」
受け取ったそれを、素直に喉奥へ滑らせる。
ほうと息を吐き、改めて恋人のすがたを見る。国広は藍色の涼しげな浴衣を着ていた。雨のような縦線の模様が入ったそれは、国広のお気に入りらしい。
「夕飯は食うか?」
尋ねられた声に、長義の目線が文机へと向けられた。
「お前は?」
食べたの、と。
国広はあんのじょう首を振った。
「いいや。これを終わらせてからにしようと思ってな」
言い指したのは手習い帖だ。
自宅で書道教室を開いているのだ。そのための手習い帖の見本を書いているのだろう。
この無骨な男のどこに、と思うほど、柔らかで情感のある書をしたためるのだ。
「じゃあ、俺も終わるのを待ってるよ」
グラスを盆に返しながら、長義が言う。
国広は薄く笑い、それならばと
最初は書道教室の先生と生徒。それだけの関係だったのに、いつしか彼の褥で朝を迎えるようになっていた。
恋を仕掛けたのは同時だった。
雨に閉ざされた部屋の中、絡みあった視線に、どちらともなく顔を寄せて唇を重ねた。
ぞんがい肉厚の湿った唇の感触。
思い出して、長義は己の唇に指を這わせた。
ふふ、と喉が鳴る。
それ以上のまぐあいをこの褥で行っているというのに、いちばん最初のキスが忘れられないなどまるで生娘であった。
素足のあしが、なまめかしく、そして無邪気に綿のシーツを蹴る。
寝返りを打った先に、ふと、軒下の風鈴が目にとまる。
(めずらしい)
切子硝子の風鈴だった。
夏にぴったりの黄色をしたそれは、肌寒い空気が流れこむ今日にはいささか時季外れな気がした。
国広は無骨な男であったが、こういった季節ごとの装いには驚くほど細やかな感性を持っていた。
自宅の一角を教室として常にひとを迎えているためか。彼の着物にはじまり、床の間に飾る花。季節ごとの装い。そういったものには常に気を掛けている彼が硝子の風鈴をいつまでも飾ったままにしていることには違和を感じた。
まるで長義の思考を読んだかのように、硝子戸の隙間から入りこんだ風がぴゅうと、剥き出しの肩を粟立たせた。薄掛けに包まり、ほうと息を吐く。
「風鈴」
「ん……、なんだ?」
「めずらしいね。お前がそのままにしておくの」
それに、国広の手がとまる。
奇妙な間に、なにかおかしなことを言っただろうかと、長義が目を瞬かせる。
「くにひろ、」
「お前が」
覆いかぶさるように、国広が口早にそう言った。
「お前があれを気に入っていたから」
長義があんぐりと口を開いた。よもや、自分に要因の一端があるとは思いもしなかったのだ。
確かに、鮮やかな黄色が目の前の男を連想させ、涼やかな音ともあいまって、長義はそれを気に入っていた。言葉は多いほうなので、直接国広にもそう伝えたかもしれない。よくは覚えていないのだ。それほどまでに些細なやりとりだった。
ぽっかりと暗闇が覗く窓硝子に、自らのすがたが映りこむ。
煌々とした電灯のあかりが、いっそ不釣り合いなほどの明るさでひなびた和室の一室を照らしていた。
明るすぎるなと思った。
すこしばかり目くらなほうが恋は盛り上がるものだ。詰まるところ、これはもう恋としては熟れすぎているのかもしれない。
「先生」
懐かしい呼び名を使う。
国広は振り向く代わりに窓硝子越しに熱い視線を長義に寄越した。見られているのを知って、長義はゆっくりと上掛けを剥いだ。妖しく交差したふくらはぎが電灯のあかりに白く縁取られる。
ぷっくりと膨らんだ乳輪。引き締まった薄い腹。惜しげもなく晒して、長義は目を細めた。うっすらと開いた唇は彼を誘うため。
ガタンと机が鳴る。
膝を打ったのかもしれない。墨の香りが立ちのぼる。噛み付くような口付け。ためらうことなく伸ばされる手。さざめくような笑いをこぼし、長義が身をよじる。硝子窓に映ったふたりの姿がもつれあうように重なりあう。水滴が伝い落ちた。