後期に入った秋口のことだった。
「沙弥香先輩ー、課題教えてくださいー」
 ハルがそう言って泣きついてきたのは。
「……課題は自分でするものよ?」
「あぅ、いや、それは分かってるんだけど……」
「そもそもなんの講義の?」
 学部学科が違うのだから場合によっては全然役に立てないのだけど。
「哲学」
「あー」
 しかし彼女の口から出た講義は、幸いなのか私も受講してるものだった。
 というか、「沙弥香先輩と一緒の講義受けたい!」と言ったハルが、私の心配を無下にして受け始めたものだ。
 フィーリングで物事を捉えるハルは、その点で言えば私よりもずっと優れているとは確かに思う。ただ、言語化し論理立てていく哲学は向いてないって、あれほど言ったのに。
「あぁも啖呵を切ったのに?」
「このままじゃ基礎教養の単位足りなくなっちゃうよー」
「まだ一回目のレポートでしょう。それにギリギリしか取ってないのが悪いんじゃない?」
「だってその方が沙弥香先輩と一緒にいれる時間取れるし」
 そうぶーたれるハルの言葉は、私にはちょっと刺激が強い。恋人が私を思ってくれてるという実感は、未だ慣れない私の体の内を熱して擽る。
 とはいえ、私からすればハルとの時間はハルとの時間で、講義の時間は講義の時間だ。勉強したくて入った大学と学部なのだから、学習意欲の赴くままに単位を取って講義に出ている。小さい頃から相も変わらず、知識が身に付くことは楽しかった。
 ハルはそこまで勉強したいわけじゃないからと言うけれど、私はハルのそんなところが理解できない。
 ……昔だったら、きっと、そんな半端な人なんて嫌いになってたんでしょうね。
 これは成長なのか、恋がもたらす盲目なのか、分からないけど。
「……分かった。じゃあ、金曜の午後ならどう?」
 ともあれ、私がハルに滅法甘いのには変わらないんだろう。
 私の提案に、ハルはへへーっとひれ伏した。
「ありがとうございます、神様仏様沙弥香先輩様ー」
 沙弥香先輩様とは。
 相変わらずハルの独特な言葉遣いに、でも私は温かいものが込み上げてくるのを感じていた。
 /
 午前中だけ入れてあった講義が終わると、真っ先にハルのアパートへと向かう。そうしていつものようにハルの手料理を味わってから、私たちは哲学の課題へと向き合った。
 哲学の課題、と言ってもそこまで大したことではない。後期も始まったばかりだし、哲学という学問形態のあらましとその走りを聞いただけで、課題のレポートも、哲学者の思想のまとめとかそういうのじゃなくて、普遍的な物事について自分の言葉でまとめよといったものだ。
 別に難しいことでもないんだから、私の助けなんて必要ないと思うのだけれど。
 とはいえ、前期も受講していた私と後期から受け始めたハルとはその聞こえ方や受け入れ方も違ってくるのかもしれない。
「苦手なの、こういうの」
 そういう旨のことを伝えて訊いてみると、渋い顔をしたハルから返ってきたのはそんな答えだった。
「こういうのっていうのは?」
「んー、こう、自分の言葉で書け、みたいな」
 記述問題のことか。
「どうして?」
「わたしはきちんと書いてるつもりなのに、なにを書いてるか分からんって小学校の時よく言われて。それでなんか苦手」
 あぁ、なるほど。なるほどと思ってしまう辺りひどい気もするけど納得してしまう。
 ハルは言葉も考え方も、ちょっと独特だもの。
「そういうことね。なら、今回はハルの考えが先生にも伝わるように私が添削してあげる」
「ほんと?」
「でも自分の言葉を他人に託すことになっちゃうから、あんまりいいことじゃないわよ。次はできるだけ自分でできるようにね」
「あー、そっか、そうだね」
 ちょっといやそうではあるけれど、ハル自身も思うところがあったようで、苦笑して頷いた。
 うん、こういう意識がある辺り、同学年の友人よりは偉い。いい子だ。
 それは、いいのだけど。
「ほんと、なんでこの講義取ったの? 出席点とレポートで成績出すってあったのに」
 見落としてたんじゃないわよね。この子ならあり得そうだけど。
 そう言うと、ハルはしばらく空中を睨み付けて唸ったあと、唐突に立ち上がって教科書を突っ込んでる段ボール箱を漁り始める。
 そうして取り出したのは、シラバスだった。
 ばっさばっさとめくられるそれを一緒に覗く。目的である基礎教養の哲学のページを見つけたハルが声を上げた。
「ほんとだ」
「ハル?」
「あ、いや、それは確かに見落としてたんだけど」
 慌てて手を振ったハルは、成績項目ではなく講義予定の項目を指で指した。
「ほら、これ」
 そこに書いてあったのは――「愛・性・家族について」。
「これを聞いてみたかったの」
「……これ、最後の二回だけだけど」
「え、あっ、えっ」
 まさかと思って突っ込んでみると、ハルは慌てて見つめ直して、えへへと顔を上げた。
「通りで全然そんな話ないなーと思った」
「あなたねぇ……」
 こめかみを押さえて呆れながら、私は内心で苦笑する。
 ……まさか同じ理由だなんて、ね。
「沙弥香先輩と出会って、わたしって色々と物を考えることしてこなかったんだなって思って」
 そう感慨深く思っていると、不意にハルはそんなことを言い出した。
「そう? 思ってたより考えてて私は驚いたけど」
「沙弥香先輩?」
 そもそも会ったばかりの頃、「考えるような頭ないです」とか言ってきたの、あなたでしょ。
「どうぞ続けて?」
「もー。……言葉を探すのって、足踏みしてるみたいな気がしてたんだ」
 ハル独特の言い回し。それでもそれは、するりと私の中へと滑り込んでしまう。
 もうすっかり慣らされてしまったんだろう。それは、いやじゃない。
「わたしの心はどんどん回転していくのに、言葉を探してたら追い付かないから。でも、沙弥香先輩はわたしに言葉、っていうか理由を訊いたりしてきたでしょ?」
 確かに。そもそも私のコミュニケーションの取り方は、そういうのが多いと思う。
 理解できないものを理解したくて。
 ……あぁ。でも、これまで好きになった人に対しては、そういうのがあんまりなかったかもしれなかった。
 知るのが怖くなってしまったから。
「それで、わたしなりに考えてみたりしていく内に、わたしって考え方が独り善がりなんだなーっていうか、そんな感じがしてきたんだ。多分、沙弥香先輩と色んなことを話したからだと思う。わたしと先輩の好きの違いとか、そんなの。わたしとは別の考え方があって、でも好きな人のその考え方はむしろ知りたくなって」
 心に追いつこうと言わんばかりに口早に紡がれていた言葉が、そこで一度途切れる。
「これまでわたしはそういうの考えてこなかった。……だから、振られた」
 ……それは彼女にとっての後悔なんだろう。
 でもその後悔はきっと、あの名前も知らない子と別れずにいられたのにとか、そういうものじゃないというのは、ハルの目を見れば恥ずかしいくらいに伝わってくる。
 だってこの子の目には、私しか映ってないんだから。
「それは別にいいんだけど、そういうの、知りたいなって思い始めたの。そんな感じ、理由」
 言ってて気恥ずかしくなってきたのか、深掘りしまいとしたのか分からないけど、ハルは強引に話を打ち切った。
 おまけに「もちろん、一番は沙弥香先輩と講義一緒に受けたかったからだよ!」となんのフォローなのか分からないことを言い始める。
 それはそれで嬉しく感じてしまう辺り、私は随分と安くなってしまったらしい。
「沙弥香先輩は?」
 話題転換のためか、そう訊ねてきたハルに、私も思い出す。
 私? 私はあの時は、そう。
「私は……知識欲よ」
「えー?」
「だって前期取った時あなたと知り合ってもいなかったもの」
 だから大学生として真っ当に過ごしていただけだというのに、ハルは不満そうにむくれている。
「でも、そうね。……これが私の興味を強く引いたのは、間違いないわ」
 私の原動力は、人を好きになることだから。
 そう言うと、ハルはにんまりと笑った。
「おんなじだね」
「そうね。……さ、雑談終わり。続きやりましょ」
「えー」
「えーじゃないの。さっきまでの殊勝な態度はどこ行ったの」
 なんていうか、それだけでも嬉しいのを見抜かれたくないというのは、先輩というプライドからなのか。
 ……そういえば。
 誰かとこうして一緒に勉強するなんて初めてだな、なんて、そんなことを考えながら、私たちは勉強を再開した。
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