「おや、坊。珍しいな、ひとりかね」
ゴムボールを持ってとたとたと歩いている僕に声を掛けてきたのはトレパンおじいちゃんだった。
落ち始めた陽を浴びて、体も着ている服も皆尻尾と同じようなオレンジ色にしながらおじいちゃんは鳥居の向こうで笑っている。
「うん、ひとりだよ。クリフ兄ちゃんはご用事があるんだって」
そう言えば、おじいちゃんはすうっと笑みを浮かべる。
「そうか、そうか。それなら、この爺と一緒に一時遊ばんかね」
「おじいちゃんと?」
「おう。こんな老体でも、お前さんを楽しませてやれると思うのだが。どうだね?」
そう言いながらおじいちゃんはぎゅっと手を握り、それからふわりと開く。
すると大きな彼岸花が、ぱさりと音を立てておじいちゃんの掌に落ちてきた。
「えっ……!」
「ふふ、これだけではないぞ。何せ俺はここらで一番の化かし上手。お前さんが望むものは何でも見せてやれる」
辺りに小さな小鳥が生まれ、虹色の花が生まれ、魚が跳ね、それらが皆空気に溶けて消えていく。
「まあもうじきに日が沈む。幼子が遅くまで遊んでおるのは感心できんからな……だから誘いは一度しか掛けん──」
──さあ、坊。おいで。
その声に引っ張られるように、僕はボールを手にしたままおじいちゃんの下へと走り出し、鳥居をくぐる。
おじいちゃんはそんな僕を軽々抱き上げると、鳥居に向かってすうっと手を横に振った。
するとその手の動きをなぞるかのように、鳥居の内側に真っ赤な彼岸花が噴き出すように咲き始めた。
(彼岸花が通せんぼしてるみたい……)
僅かな風にそよそよと花を揺らすその彼岸花を見ながら、僕はぼんやりそんなことを思っていた。
「…………む」
不意に顔を上げたシャッターに、ドロップキックは視線を注ぐ。
だがシャッターは彼の視線に応えることはなく、そのまま軽く目を閉ざし、それからふ、と息を吐いた。
「坊の気配がなくなった」
「坊の?」
途端にドロップキックの顔が微かに険しくなる。
かの少年の体には、この集落にいる限りは何時何時何処であろうと居場所が知れるようにシャッターが印をつけている。
仮にも山の主として君臨する彼女の印は、そんじょそこらのあやかしやもののけに誤魔化されるようなものではない。
それが辿れなくなったということは、彼女に比肩する、あるいは凌駕するような存在が少年に接触したことを意味していた。
「何となく心当たりはあるが……それから外れていたら一大事だからな……」
シャッターはぶつぶつとそう呟きながら、部屋の隅に置いてあった金属製の大きな水盤を引きずり出し、その水盤にドロキから受け取った瓶子から水を注ぐ。
そして水面にふっ、と軽く息を吹きかけると──。
「……あぁ、やはり御老公の社か」
──そこに映っていたのは部屋の天井ではなく、北の社への入り口である鳥居。
そしてその奥に乱れ咲く、血のように赤い彼岸花だった。
「気配を辿れなくなるわけだ、あの御仁はこと化かし、騙し、誤魔化す幻術に於いては超一級。そんな御仁が自らの領域に坊を引き入れ、目隠しの彼岸花まで置いていたら私ではとても辿りきれん」
「いいのか。お前が言うなら俺が坊を連れてくるが。中で何してるか、分かったもんじゃねえ」
「止めろ、老公とは揉めたくない。それに向こうは西の貴人達と違って坊をどうこうするつもりはないからな。放っておいても害はない」
そういうもんか、と引き下がるドロップキック。
シャッターは彼にそういうものさ、と返すと、水盤を片付けるよう言いつけてそれまで読んでいた本の続きを手に取った。
「【てんてんてんまり てんてまり】……」
階に腰を下ろしたおじいちゃんがそうお歌を口ずさみながら時折手を打てば、何もない空中から鮮やかな毬がぽんぽんと落ちてくる。
「わぁ……!」
「【てんてんてまりの 手がそれて】」
もう一つ手を打てば、まるで毬が生き物のようにあちこちを跳ね回る。
「【どこからどこまで とんでった】」
次に手を打てば、毬は鮮やかな色そのままに長い耳とふわふわの尻尾を持つ兎へ変わった。
兎は人懐こそうにふすふすと鼻を鳴らし、僕の方へと寄ってくる。
「すごいすごい!おじいちゃん、僕犬も好きなんだけど出せる?」
「【垣根を越えて 屋根超えて】……ああ、もちろんだとも」
またおじいちゃんが手を打つ。
すると兎達は一斉にぽんっと飛び上がり、空中でくるりと体を丸めるところころとした小さな柴犬に変わった。
くぅくぅと甘えた声を出して飛びついてくる柴犬に顔と言わず手と言わず舐められながら、僕は思わずはしゃいだ声を上げた。
おじいちゃんはそんな僕を見ながら、優しい笑みを浮かべている。
「【おもての通りへと 飛んでった 飛んでった】」
また手を打つ音。
今度は僕が立っていたところに赤い絨毯が敷かれ、提灯が現れ、美味しそうなお菓子がおせちを入れるような箱にたくさん詰まって現れた。
「お菓子だ!」
「砂糖を固めた落雁さ。好きなだけ食べるといい」
「……でも、」
僕はふっと空を見上げる。
だいぶ薄暗くなっているということは、ご飯の時間が近づいている。
あんまり食べたらご飯が食べられなくなってしまうな、と僕がお菓子を目の前にして悩んでいると──。
「ふはは、何にも心配はいらんさ。今見えている子犬も、敷物も、灯りも、そこの菓子も、全てはまやかし、見せかけの幻覚さ。本当にはありもしない、霞のようなもの。さて坊よ、お前さんはありもしないものを食べて腹が膨らんでしまうのかね?」
トレパンおじいちゃんがいたずらっぽく笑って片目をぱちんと閉じる。
僕はそれを見て、そっとお菓子を一つつまみ、口の中に放り込んだ。
お砂糖のとろんとした甘さが口いっぱいに広がり、かと思えばお菓子はすぐに溶けてすうっと喉の方へと流れていく。
でも、喉の奥へとお菓子が落ちていってすぐに舌の上に残っていた甘い味はゆっくりと消えていってしまった。
「あれ……」
「ほら、何も残らんだろう?さ、ないものを腹いっぱい食べても咎める者はおらんだろう。たぁんと、召し上がれ」
ぱん、と手を打つ音。
現れたのは、絨毯いっぱいのお菓子の山。
こんぺいとうにきんつば、その他名前も分からないお菓子がぎっしりと並んでいるのを見て、僕は我慢できずに「いただきます!」と言うと、一番近くにあったお菓子に手を伸ばした。
──気がつけば、僕はホイルジャックおじさんのお家の玄関で眠っていた。
「いっぱい遊んで疲れたんやねぇ」と笑うおじさんの背中を見ながら、僕はさっきまで見ていた気がする楽しい夢を思い出していた。
色んな色の毬。
可愛いうさぎさんにわんちゃん。
美味しいお菓子の山。
そして──。
“今日は楽しかった、ありがとうな”
“こんなもので良ければ、いつでも遊んでやるから”
“だから、また遊びに来ておくれ”
──優しい声と、とってもとっても温かい腕の中。