「オレサマちゃんさー、なんでオレサマちゃんて呼ばれたがんの」
 それは唐突な問いだった。昼下がり、無様な吸血の後、そいつは親指に絆創膏を貼り付けながら言った。
 肩が震える。それは、聞かれたくない話だった。彼とそいつの約束。
――彼のことを呼ぶときは『オレサマ』と呼ぶ――
 その後ろに透ける忌避を、感じ取られたのかもしれない。
「ちゃんつけてんのはそっちだろ」
 話を逸らそうと思った。痛みの根元に触れられたくないと。逃げ出したいと思った。そいつは何時だって彼の暗がりに隠しておく想いまで照らし出してしまうから。眩しくて、熱い。太陽のような、光。
「そこはそれよー。名前があんじゃん?」
 だめだった。逃がしてくれない。余すことなく照らし出そうと踏み込んでくる。
 それが彼の痛みだと知っても、一人で抱え込むことを許さない。いっそ傲慢なほどの真っすぐさで隣に肩を並べに来る。傍にいるぞと、伝えてくる。
 突き放したくて、その方法が分からなくて、見つめてくる瞳の強さに負けて、彼は口を開いた。声が震える。
「あれは俺の名前じゃない。
 人間の俺はあの日死んだ。あの名前は、人間のための名前だ。……化け物が人間の名前名乗ったら、ダメだろ」
 吐露してしまえば楽になるかと思ったのに、罪悪感が余計に彼をさいなんだ。そうだ、今の俺は化物なのだと、自分の声で再確認させられる。今しがた味わったばかりの血の味が、その甘さが、彼に教えてくる。
 この変わり果ててしまった身体で、あの日の名前を名乗ることが、どうしても許せなかった。それは自身のものではないと、強く、強く、拒否する心の声。それはお前のものではない。そう彼自身を責め立てる声。そう、すべて、手放してしまいたかった。名前も、この声も、思考も、身体も。すべて。
 けれどそれは許されないことだった。偶然、使命、恩。何より目の前のこいつが許してくれなかった。だから今もここに居る。こいつのせいで、生きている。こいつのお陰で、生きている。
「ほん?」
 彼の忌避感を理解しがたいのだろう。聞き返した言葉は曖昧な吐息交じりだった。そいつは暫し考え込むと、笑顔を見せた。
「えーじゃーオレちゃんが名前つける! 今のお前の名前!」
 何が「じゃあ」なのか分からなかった。思わず聞き返す。
「なんだよそれ」
 無意識なのだろう。吸血された跡、自身で貼り付けた絆創膏を剥がして貼り直しながら、そいつは笑う。傷口が開くぞと、そんな深く切ってはいない筈だが言いたくなる。傷口が開けば、また血の香りがするのに。
 彼の心中を図ろうとも思っていない顔で、そいつは続ける。
 
「名無しの権兵衛じゃ分かりにくいだろー? でも昔の名前使うの辛そーじゃん。じゃー新しい名前つければ良くね?」
 それは思いもよらない提案だった。そいつは満面の笑みを浮かべている。なんだか抵抗するのも馬鹿らしい気がして、彼はわずかに首を引いた。
「好きにすれば」
「任せとけって!」
 そいつは自身の胸を叩いて言った。
「オレサマちゃんにとっときの名前、つけてやんよ」
 その瞬間だけ真面目な顔をしたような。数秒後にはいつも通りのにかりとした表情で、意気揚々とそいつは出ていった。
―――***
 数日後。彼の部屋を訪れたそいつは、開口一番「決めた!」と大声を出した。
 おはようもまだ言っていない。意外と挨拶関係にはまめなそいつらしくない。と、顔を上げた彼に、「決めたよ」と再度繰り返す。
「何を」
 短く問い返してみる。思い当たる節の全くなかった彼にとって、決めた決めたと叫ぶそいつの姿は不思議以外の何物でもない。
「オレサマちゃんの名前!」
 世紀の大発見をしたとしても、これほど輝いた顔はしないだろう。それくらいとびきりの笑顔でもって、そいつは言った。
 彼は驚いていた。名前を考えるだのなんだの。そんなこと、もう彼自身の方では忘れ果ててしまうくらいどうでもよいことだったので。
 けれどそいつは数日間、ずっと真面目に考えていたのだろう、彼の相方はそういう男だと、知っている。
 「『羽風』ってどーよ」
 せいいっぱい辞書でも引いたのだろうか。耳馴染みのない単語を出されて、彼は目を瞬かせる。
 人の名前らしくもない。と首を傾げれば、そいつは言葉を継ぐ。
「蚊とかの虫の羽が起こす風って意味で、」
 名前の由来を聞いたわけではなかった。し、存外にその由来は良いものであるように思えた。吸血鬼なんて、蚊のようなものだ。その余波として生まれた彼に、それはふさわしく思えた。
「好きに呼べば」
 もとより、人間だった時の自分と接続しさえしなければ何でも良いのだ。何と呼ばれようと、それこそ『馬鹿』とつけられようと、どうでもよかった。
「約束は変えねェけど」
『羽風』が気に入らなかったわけではない。あの日の名前を厭うなら、代わりの名があることは便利だろう。また、たしかな事実として、微細なものとして名付けられたことは彼の気を楽にしていた。
 
 それでも、約束を新たにしなかったのは、彼とそいつがはじめて交わした言葉だったから。
 それを、失くしたくないと、思ったから。
 なんて、伝えてやるつもりはないけれど。
『羽風』は、そっと笑った。
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初公開日: 2021年08月14日
最終更新日: 2021年08月14日
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