「へぇ。すごいですね」
吸血鬼の鋭敏な聴覚がとらえたのは、聞き間違えるはずのない相方の声で。つい足を止めてしまう。
薄い笑声のようなトーンはあまり自分に向けられることのないものだ。怒らせていることの方が、多い。なぜ怒られているのか、わかってやるつもりはあまりないのだけれど。
そのくせ聞き耳を立ててしまうのだから、自分でもズルいやつだと思う。卑怯で、臆病で、真摯でない態度。
だって、彼女の声は、言葉は、存在は、あまりにまぶしく輝かしくて、灼けてしまうと思う。まっすぐに、ひたむきに、自分のことが好きだと、てらいのない言葉で伝えてくる。自分みたいな死にぞこないには、まぶしすぎる。
SIDの食堂はそれなりに広さがある。それでも、一度気付けば自販機の前に立つ二人を見つけるのは容易だった。一人は自分の相方で、もう一人は知り合い未満の男だ。職員ではあるものの、特別監査官でない、裏方の人間。やけにごつい時計がひょろりとした腕に不釣り合いな、”一般人側の”人間。
何かしゃべっている。これでもサッカーをしていてエースだったのだと、学生時代の思い出のような物語を、ぺらぺらと、滔々と、とくとくと、立て板に水と、水を得た魚のように、とにかく楽し気に、話しかけている。
「さすがです」
「その通りですね」
先だっての「すごいですね」と合わせて三単語をループさせているだけなのは、そのうちに気付いた。薄い笑声のようなトーンも、つくりものだと分かる。
そうしてよく見てみれば、何度か指先を触れ合わせて、あれは何をしているのだろう。小さな苛立ちにまぎれた仕草を何度も繰り返している。
彼女が不快を現しているそれに小さく安堵して、安堵した自分に落胆した。自分の小心を目の当たりにして嫌になる。
「オハヨーゴザイマス」
飲み物を買いに来たふりをして近づく。挨拶は軽く見えるように。自分の焦燥も何もかも、飲み下したような態度で。
自分の長身が威圧になることを知っている。彼女の隣に立ってみれば、いつものようにつむじが小さく見えた。
「あ、あぁ、おはようございます」
とたんにへどもどした態度を取り出す男を見下せば、もごもごと口の中で何かを言って去っていった。
後ろ姿をなんとなく見送っていると、小さく袖を引かれる。
小動物のような仕草はいとけなくて愛おしくて、だからこの気持ちは仕舞っておかなくてはならないものだ。いつか、握りつぶしてしまいそうで、食い散らかしてしまいそうで、恐ろしくなる。
「助かりました。もう十五分も自慢話に付き合わされていたもので」
事務方の有望な若手らしいので無下にするわけにもいかず、と嘆息する彼女に、「たいへんだねぇ」と返事をする。
先ほど紛れていた笑声のかけらはもうどこにもなくて、平坦なトーンは慣れ親しんだものだ。
「菫さんて、意外と営業もこなせそうだね」
戦闘も、事務も、有能なことは知っている。それ以上のものがあることを知った、と伝えてみる。
「嫌ですよ。愛想笑いってとっっっっても疲れるんですよ」
たっぷりと溜めて拒否された提案にあははと笑って、今きちんと冗談になっているかどうか、笑えているかどうか、自信はないけれど。
軽薄な笑いは自分を守るためのものだ、人から自分を遠ざけるためのものだ。なのに、彼女はそれを超えてこようとする。あんまりにもまっすぐに。
ミルクティーを買って手渡す。甘い甘いそれは、彼女が居なければ一生手に取ることはなかっただろう。
何度おごることになったかなんて些細なことは忘れてしまったけれど、もう手になじんだその動きをオツカレサマの言葉と共に差し出せば、両手で受け取って、少し笑う。
ほんの少しの表情筋のはたらきは、見逃してしまうことも多いけれど。
今その左手に光っているムーンストーンの指輪が、先だって触れていたものだと気付いたから。
やっぱり安堵して、安堵した自分に落胆して、小心を自嘲する。
「ねぇ、困ったときは俺を呼んでいいからね」
「だったら、いつでもそばに居て見守ってくださいよ。なんて、冗談です。乙女にも秘密があった方がいいですしね」
どこまでが冗談か分からないまま、ミルクティーの缶を上機嫌で開ける彼女。真顔で言われる言葉たちに、振り回されっぱなしだ。
いつか、いつの日か、その言葉たちに陥落してしまう日が来るのだろうか。
いつか――なんだかそれはそう遠くないような気がして、無糖の缶コーヒーをあおる。苦味は舌に優しくなくて、だから、優しい。