夏休みに入る前、最後の帰りの会にて。担任の先生から天体観測の案内が配られた。近々大規模な流星群があるから、希望者でそれを観測、感想文を提出する。という、至って単純なもので、提出された感想文は自由研究扱いになるという。実質、宿題が一部なくなるようなものだ。
適当な感想文じゃ受け付けないと注意をする先生と、注意そっちのけで宿題が終わる事実に盛り上がるクラスメイトたち。
周は騒がしさに辟易しながら、手元のプリントを上から順次読んでいく。街明かりが多いから迫力はないだろうが、誰かと一緒に好きなものを共有して、見て、話せるのなら。それはなんて贅沢なんだろう。日程の都合がつくのなら、是非に参加したい。
次第に踊る周の心。しかし最後の一文が、トドメを刺して呼吸を止めた。
ご家族の了承を得て参加しましょう。
──なら、行けないなあ。
冷水を浴びたように、高揚していた心地が引いていく。寒々しく凍えた指で鉛筆を握って、プリント下部にある参加可否の欄の“不参加”に丸をつけた。
騒がしい中に先生の注意が飛んで、笑い声が上がって、諸連絡を聞いて。「良い夏休みを!」の言葉で、学校が終わった。
遊ぶ約束をしよう。一緒に宿題をしよう。プールも海も、山にも川にも行きたいね。きみはどこか旅行に行くの? おばあちゃんちに帰るんだ──。──聞こえてくる会話を気に留めないようにして、先生を追いかけようと立ち上がる。
が。
「周君!」
黒板に近い前の席からまっすぐやってきた蜜が、天体観測のプリントを持って「一緒に行こうよ」と進路を塞ぐものだがら、先生はあっという間に教室から出ていってしまった。
「キミのせいだ……」
「え、なにが?」
「……なんでもない。で、なに。どこに行くって? 花壇の水やりには行かないよ」
「私も日直じゃないから行かないよ」手に持ったプリントを振って「天体観測、一緒に行きたいなって」
「ムリ。他の人誘って行っておいで」
周の席に置いてあるプリントに、蜜の視線が落ちた。“不参加”の丸を確認した彼女が、予定があるのかと問う。
予定なんて、ないけれど。けど、──。
言葉に詰まっているあいだに、ひとり、またひとりとクラスメイトが教室を出ていく。夏休みへの期待に満ちた声たちが、波のように引いて、最後には、周と蜜の二人だけが残された。
そばにあった椅子を引いて座った蜜が「じゃあ、予習に付き合って」と笑う。
この日見れる流星群はどんなものなのか。観測時に気をつけるべきことはあるか。流星群以外になにが見えるのか。とりとめもない夜空への疑問が、ことん、ことんと落とされる。
──そんなこと、先生に聞けばいいのに。
今回観測するものは毎年日本で見られる流星群で、特定の星座の方向から流れてくること。暗い星を見つけやすくするために、街明かりから離れて暗さに目を慣らす必要があること。きっと大三角は観測がしやすいだろうから、それを見るのはどうだろうか。
周が答えればまた、蜜が新たな疑問を落としていく。
その応酬が楽しくて、好きなものに興味を持ってくれることが嬉しくて。好きな声の問いかけが心地よくて。ただずっと、話が続けばいいとさえ思った。
「星、好き?」会話の合間に、蜜が問うた。
「もちろん」と、当然のように周はうなずいた。
「じゃあ流星群も見るの?」
「うん。毎年見えるって言っても星雨の量は違うから。同じ星は見られないんだ」
「ならやっぱり、天体観測一緒に行こう? こうやってお話しながら見たら、きっと楽しいよ」
「そう」だねと、素直な声は出なかった。
少し、日が傾いてきている。西日が教室に差し込んで、足元の影が伸びていく。
ランドセルを机上に乗せて、黙って、静かに、教科書とノートを移し替える。周の返事を待つ蜜も、黙ってその様子を見ていた。
「ミ……、……曽根崎は、楽しんでおいで。宿題ラクになるしさ」
これ、提出してくるから。またね。
天体観測の案内を、くしゃりと握り込んで。“不参加”の文字を隠し教室から逃げる。
蜜に呼び止められたのは分かっていた。けれどすべて、無視をした。
結局。
彼女の“一緒に行こう”が振りほどけなくて。なんとなく、本当に意味もなく。周は、その年の流星群は見る気になれなかった。たった一度しか見れない、今年だけの特別な日だと分かっていても、ひとりで見上げる星空が、味気なく思えてしまったから。
──小学校の、いつだったかの話だ。
─◆─◆─◆─
雲の上を走る列車。こどもだけの場所。──そんなもの、夢や物語にしかないと思っていた。
ラウンジのカウンター席に座る蜜は、そのままぼんやりと窓の外を眺めながら、鉄が用意してくれたレモネードに口をつける。シュワッと弾ける炭酸とレモンの甘く酸っぱい風味が、ジメジメ暑い空気を拭ってくれるようだ。
窓の外では空が真っ赤に燃えていて、空を旅する蒸気機関車は力強くエンジンを回しながら、煙突から絶え間なく煙を吐き出し走り続ける。たなびく白い煙が、新たな雲となって背後にすぅーっと伸びて、赤の中に馴染んで消えていった。
この機関車がどこに行くのか、どうして自分が乗っているのかなんて、なにひとつとして分からないけど、それでもここは良いところだ。友人がたくさんいる。箋の耳が聞こえるようになった。車掌である鉄も銀も良くしてくれるし、なにより、──。
唐突に響く汽笛に、はっとする。
直後。車体が大きく揺れて、コップのレモネードが波打ち、少しこぼれた。
幸いにして洋服にはかからなかったけど、カウンターでしゅわしゅわ弾ける様子を見ていると、もったいないことをしたような気分になる。またこぼしてしまわないように、グラスの半分ほどまで一気に飲む。
夕食を終えたラウンジに残っているのは、蜜ひとりだけ。先程、憶が大きな人生ゲームを見つけたからみんなで遊ぼうと声をかけ、年少組を始めとしたほとんどの人が娯楽室へと移動したのだ。蜜はレモネードを飲み終えたら行くと残ったが、娯楽室の窓が空いているのか、時折わっと盛り上がる声が聞こえてくるため、まったくさみしくなかった。
空のフチに夜の姿が見えてきた。薄くうすく、夜の色が広がっていく。
紫紺の時間がにじむようにじわじわと空に馴染んで、夕暮れの赤とおしゃべりをしながら入れ替わる。グラスに残ったレモネードの気泡が、星のようにきらめいて、しゅわりと笑った。
「星、かあ」
小学生最後の夏休みに、天体観測の案内が配られたことがあった。夏休みの宿題を兼ねたイベントだったため、当時もクラスメイトであった周をそれに誘ったことがあったのだ。
星が好きで、夜空が好きで、天文に関する資料を読むのが好きで。そんな彼と一緒に天体観測が出来るのなら、きっと楽しいに違いない。並んで座って話を聞いて、自分が知らない周の“好き”が満ちた空を見上げる。どんな夏にも、どんな時間にも負けない、一番の楽しいが生まれると信じて疑っていなかった。
──本当に、それだけだった、のに。
誘った瞬間の、予定を聞いたときの、観測への参加を促してきた彼の、オトナの顔が忘れられない。傷つき慣れて、痛んでいることにすら気がついていないような、やわらかい声と笑み。
それが、ただ、かなしくて。
結局、自由研究は植物の観察をして終わらせた。観察経過が細やかで素晴らしいと褒めてもらった花丸は、なぜだかまったく喜べなかった。
かろん。グラスの中で氷が踊る。
娯楽室から零守の絶叫が流れてきて、それからたくさんの笑い声。
──そろそろ飲み終わるし、私も混ざりに行こっかな。
ぬるくなり始めたレモネードを持って立ち上がり、ラウンジを出る。
隣の車両である図書室は、異様に暗かった。差し込む西日が車内を赤く燃やしているようで、色濃い影が少々不気味だ。
早く通り抜けちゃおう。
両手でグラスを握り直して、足早に。ころころからから。蜜の歩みに合わせて、可愛く冷たい音がなる。
ふ、と。
燃える車内で、影が動いた気がした。
つ、う、ぅ……と背筋が冷えていく。
みんな、夕食後は娯楽室に集まっているはずで。図書室には誰もいないはずで。雲の上を飛ぶ鳥がいるとも思えないし、今までこの機関車が飛行機とすれ違ったことだってない。
だから、だから蜜以外の影が動くわけがないはずで。
「誰かいるの……?」
返事はない。代わりに、どさ、と、それなりの重さが落ちてきたような音がした。
本棚の中身がこぼれてしまったのだろうか。もしそうなら、もとの場所に戻さないと。本が傷んでしまうかもしれない。
「いるなら返事してくれないかなあ」
本棚のあいだをひとつひとつ確認して。暗がりをそっと覗き込む。
と。
出入り口から見えない棚の影に、真っ白なシャツを着た少年が倒れているのを見つけた。深くかぶったキャップと、真っ黒い髪。余った手足の裾をくるくると巻いている彼は、一冊の本を抱えて動かない。
驚き、蜜の口から小さく声が上がる。
「周君!? どうしたの、しっかりして!」
レモネードを脇に置いて、周の肩を叩く。反応がないから掴んで揺する。何度も名前を呼んで揺すって、いよいよ人を呼ばなければとならないと離れようとしたとき。ようやく、周の意識が戻った。
ぼんやりとさまよう周の視線を捕まえて、もう一度、確かめるように名前を呼ぶ。返ってきたのは蜜に応えるものではなく「くらい……」とつぶやくかすれた声だった。
「大丈夫? ここ、どこだか分かる? 体調悪いなら、くろかしろか呼んでくるよ」
「のどかわいた……」
「……あっ、レモネードあるよ!」
のろのろと起き上がる周を待って、彼が抱えていた手話の教本と交換でグラスを渡す。周のふわつく両手の中にそれがおさまったのを確認してから、もう一度「なにがあったの?」と問いかければ「別に、なにも」と小さく返された。
うそだ。それは流石に、無理がある。
ほとんど暮れてしまった弱い夕日の中でも分かるほどにしっかりと刻まれた目元のクマ。顔は青白く、のどが渇いたと主張した割に飲むのが遅い。──周の様子は、明らかにおかしい。
「本当に、なんにもないの?」
「部屋、暗くない? なんでこんな暗いの」
「ちゃんと聞いて。倒れるなんてよっぽどのことなんだよ」
「寝てただけ。なんもないから」
「……どうしてこんなところで寝てたの?」
「そんなことより、暗いのなんで」
どうにも、会話が噛み合っていない。
周はしきりに周囲を気にして縮こまり、蜜と視線を合わせようとしない。それどころか、見られることを厭うようにキャップを深くかぶり直して、目も、顔も、すべて隠そうとする始末。
どうしてこんなに暗いのと、三度目の問いが投げられる。蜜は「もう夜になるからね」と答え、周の震える手からグラスを回収する。そのうちこぼしてしまいそうで、危うく感じたのだ。
「よる、」
「うん、夜。もうみんな、ご飯食べ終わってるよ」
「よる……」
「うん。雲の上だから、星もきれいに見えるんじゃないかな。周君はもう見た?」
「…………」
ぎゃーっ! とあかねが叫び、それに続いて故の弾むような声が聞こえてきた。娯楽室での人生ゲームは大盛況のようだ。
図書室を満たしていた西日も、すっかり燃え尽きて。
夜空の紫紺が空気に溶け込み染み込んで。
うつむく周は、口を閉じ。尋ねたい蜜も言葉が出ずに。
「くらいの、だめなんだ」
ようやくこぼれた周の声は、流星のしっぽよりも細かった。
「空が赤くなるまでは平気でも、そこから色がなくなるのを見ていると、……だめに、なる」
だから、眠れなくて。
体調が悪いのか。どうしてここで寝ていたのか。本当になにもないのか。──今までの問いに対する答えとするには、充分だった。
強い違和感が、蜜の胸で鳴る。
膝を抱えて、手を握り込んで。体を小さく折りたたむ周が“だめになっている”のは、見ていれば分かる。
だから──。
「楽しいこと、しよう!」
彼の手をとって、握って、引き寄せて。
驚きで目をまんまるくする周にもう一度「楽しいこと、しよう」と告げる。
「今、この瞬間だけの楽しいことをしよう」
「なに。なにするつもり」
「天体観測!」
首をかしげて訝しむように眉をひそめる周に、星の様子は毎回同じじゃないのだと笑う。もちろん、その事実を教えてくれたのは周だ。あの、夏休み直前の教室で、一緒に予習したことを覚えている。
ここには宿題もなければ、参加可否を提出する先もない。家族に許可を求める必要も、もちろんない。
だったら、あの日楽しみにしていたことを、一年越しに叶えたっていいじゃないか。