朝、起きる。サッシの窓から零れる陽光に、急かされるようにして。
顔を洗いに廊下に出ると、襖が突然開いたのにびっくりしたらしいブチ猫がたっと駆けて行った。
追いかけようか一瞬だけ悩んだけれど、今日はそのまま見逃しておく。どうせこのあと顔を洗うんだから気にせず吸ってもよかっただろうけれど、生憎とこれからハルと出かけることになっている。
ハルは私と違う価値観で物事を捉えている。もし猫のにおいが残って拗ねられたら面倒だった。
ハルにとっては関係をラベリングするのではなく、総合順位で捉えているものだから、ウチの猫までライバル心を抱いている。むくれたハルも可愛らしいとは思うけれど、折角のデートなんだからそういうのはなしにしたい。
共用の洗面台の前に立つ。顔を洗い、メイクボックスを出しながら考える。
そう、デートなのだ。
初めて実った恋。
一番最初のそれは、今から思えば入れ違いになったのだろう。あの人が私を好きになって――それ自体がどういうものだったのかはさておいて――私が好きになった頃には多分、あの人はその恋から醒めてしまっていた。
どうにもそういう理解は負け惜しみ染みているという自覚はあるけれど、半分以上は事実だと思っている。当時はそれから目を逸らしていただけで。
鏡を見る。まだ少し寝惚けてる眼。少し短くなった髪。薄く開いた唇。
肌にニキビや肌荒れ、むくみの様子はない。寝惚け眼と、あとは湿気で少しぼさぼさになってる髪を整えないと。
スキンケアをしながら鏡に映る自分の姿を確認していく。
久し振りに自分の顔をこんなにまじまじと見ている気がする。高校の時は、学校のある日にいつもこうしておかしいところがないか見ていたのを思い出す。そうしなくなったのは大学入ってからのこの一年間か。
ふ、と苦笑が漏れる。なんて分かりやすい。自分が恋してるかどうか、それだけでも分かってしまう。
自意識過剰なのかもしれないけれど、こんなに緩んだ姿はあんまり人に見られたくない。周りを確認すると、やはり誰もおらず安堵の息を吐く。
日焼け止めを塗り、下地を施しながら、私は再び潜心する。
私はこれまで恋する度に、自ら相手の望む自分で在ろうと努力した。
ある意味それは性だった。自らを高めるという。そうすることで結果を得ようと。
そうやって真剣に相手に向き合い、あるいは引き留めようとした。
相手からの「好き」を、得ようとした。
けれど、今度はどうすればいいのか分からない。
ハルが私にどんなことを望んでいるのか。そして――私はそれに、どうするべきか。
私は――今度は自分を大事にしたい気持ちもある。
無理していた自覚はあるのだ。過去の二度とも。自らを他者の色で塗り潰そうとしたのも、他者に合わせ続けたのも。
そこから残ったものは、決して悪いものとは限らない。それは自己を形成する一部に違いはなく、また今のように反省として活かすことができる。
これまでは自らを変えてまで努力してきたけれど、結局は実らなかった。
じゃあ、そんな消極的な理由で努力を怠るのか? それは違う。すべきことはすべきだ。それ自体は間違いではない。
しかしハルは自称するように飽きっぽい。なら飽きられる度に引き留めようと変え続けるのか? それも違うと思う。
無理にならない程度に、自己否定に陥らない程度に。そうしていくのがいいんだろう。
でもそうすると当然、私とハルとの齟齬が生まれる。それが価値観の違いで済んでる内はまだいいけど、決定的な溝になってはいけない。
結局、あの子が私になにを求めているのか、訊ねないことには分からないのだけれど。
それでも私は徒労に終わるかもしれない思考を止めることはない。それが私だった。
……あの子は、私の顔が好きと言った。
その感性については非常に共感できる。私だって顔がいい人が好きなのだ。念頭にあるのは主に二人だけだけど。
だから、整形とかしない限り変えようがないことではある。もちろんそれは、ハルが飽きなければ、の話で、それに伴って老いとか事故とか、外的要因もあるのだけれど。
ただ、……。
そこまで考えて、くすっと息が零れた。
よくよく考えれば分かることなのに、これまで全く気付けなかった。それはきっと、ずっと私が追いかける側だったからなのだろう。
私はお世辞にも性格がいいとは言えない。親しい人ならいざ知らず、初対面の人に対しては冷たく映ってもおかしくはない。
出会い方があんなだったからとはいえ、特別取り繕いもしていなかった頃から、あの子は私のことを好きだと言ってくれたのだ。
それ以上のことが、あるだろうか。
ある意味で、初めてなのかもしれない。ありのままの自分……というには大袈裟過ぎるけれども、それに対して好意を寄せられるのは。
だから私も――彼女のことが好きになったのだろう。
とはいえ、別れるようなことがないに越したことはない。そんなことになりたくない。互いの意見の擦り合わせは必要だろう。
そうは言っても彼女はそんな無理を言うほど悪い後輩ではないし、遠慮とかするにしても嘘が下手だ。多分、大丈夫だろう。
ただ一つ、私が自らに課すとすれば……彼女にとっての一番でありたい。そう、在りたい。
差し当たって、今は。
下準備を終えた、ファンデーションを取り出す。
鏡を見れば、まだ頬紅も施してもいないのに、頬が赤く染まっている。
……飽きっぽい彼女のために、少しの刺激をプレゼントしよう。
普段と違うメイクで変身した私を――彼女は好きだと言ってくれるだろうか?
それが、楽しみだった。