「ただいま」
「おかえりなさいませ、直哉様」
直哉が帰宅すると彼女はいつものように玄関で直哉を出迎えた。穏やかに笑む彼女の方にはしかし、直哉に眠れない時用にともらった羽織りを羽織っていて、直哉はまた何かあったのかと勘繰った。
「今日は俺の部屋の方がええな」
「かしこまりました」
直哉が歩き出すと彼女は後ろをついていく。前を向いたまま直哉が彼女に問う。
「今日は何があったんや」
「え、特に何も……」
「せやったらなんでそれ着とるん?」
直哉の部屋に着いて、障子戸を開けたところで言う。直哉と彼女はソファに腰をおろす。
「で?」
直哉は改めて彼女の方を向いて強制するように訊いた。彼女は本当になんでもないというふうに答えた。
「雨が苦手で……」
「雨?」
「はい、ここのところ梅雨で雨続きですから……どうにも調子が悪くて、気分も落ち込んでしまって」
「それでそれ着てたん?」
「はい……」
直哉は彼女の手を取ってかるく握ってやった。羽織りも良いが、本人がいるならそちらのほうが良いだろうと手を重ねてやる。
「蒸し暑いとか冷房とかもですが、雨音が苦手なんです。圧し潰されるような感じがしませんか?」
「全然」
「ですよね……」
彼女は眉を八の字にして笑った。直哉に握られている手をきゅっと握り返す。直哉が彼女の滑らかな手の甲をするすると親指で撫でてやる。
「特に寝入る時分に降られると嫌で」
「そらぁオマエっぽいな」
彼女はもともとひどく寝付きが悪い。梅雨の時期は暑さと湿度も相まって寝苦しそうだ。直哉も一緒に眠ると言ってもあまりぴたりとくっついて眠ることは出来ない。
ここ数日、彼女は自分の腹の上にぽんと置かれた直哉の手のひらの熱をじんわりと感じながら目はぱっちりと開きなかなか眠れないでいた。恐らく今日もそうだろう。今日は雨足が強く、一日中ダツダツと雨が屋根を打つ音が響いていて、頭が侵されていくような感覚に彼女はたまらず直哉にもらった羽織りをひっぱり出して羽織った。そして直哉を出迎えたのだった。
その時、ピカッと閃光がまたたいて、数秒後にごろごろという地鳴りのような音が聞こえてきた。彼女はわざととも思えるほど体を跳ね上がらせた。
「なんや雷怖いんか」
「い、いえ……」
明らかに怯えている彼女に直哉が首を傾げていると、また雷がぴかりと光ってごろごろと鳴った。彼女は先ほどと同じような動作を繰り返す。きょろきょろと視線をあちらこちらへやり動揺し始めて、直哉はその様子を見て小動物のようだと思った。
「いや、明らか怖がっとるやん」
「だって……子供っぽくないですか……」
「雨で駄々こねとるやつが何言うとるん」
直哉が二十八度ほどの高めの温度に設定してエアコンのスイッチを入れた。直哉は暑いが、彼女は冷房にも弱いのであまり強く出来ない。もともと部屋からあまりでない彼女は、梅雨も手伝って更に引きこもりがちのようで、夏バテのような状態になっているのだろう。
直哉は彼女を抱き寄せて肩をさすってやった。直哉は、怖がりの彼女も最近は直哉といるお陰で呪霊などに怯える様子は見せなくなっていたので、この状況を少し楽しんでいた。ぴか、ごろごろ、と鳴る度に彼女が体を震わせて直哉の着物を握る。それが愛らしくて直哉はくすくすと笑う。
「やっぱり笑ってらっしゃるじゃないですか」
僅かに頬を膨らませながら言う彼女に直哉は笑みを深めた。
「ふふ、別に馬鹿にしてるわけやないから」
「じゃあなんですか」
「別に? かいらしぃなあ思ただけ」
「っ、そう、ですか……」
彼女は顔を赤くしてふいと視線を逸してしまった。直哉の着物を握るのも離そうとして、その時またピカ、そして間を開けず先程より大きくゴロゴロ! と音が鳴って彼女は直哉の胸に飛び込んだ。
「もうしわけありません……」
「かめへんよ、ええ子ええ子」
直哉は彼女を受け止め子供をあやすように彼女の頭を撫でた。彼女は半分直哉の膝の上に乗るようにして直哉にしがみついていた。
しばらくして雷はおさまったが、大雨は続いていてその晩も彼女はうまく眠ることができなかった。
「ほれ、これやる」
後日、直哉は彼女に雨傘をプレゼントした。半透明の水色と白く丸い縁。描かれているのはミズクラゲだった。
「ありがとうございます。可愛い傘ですね。でも、急にどうされたんですか?」
「オマエ前に水族館行った時、熱心に海月見とったやろ。好きなんやろ思て」
「はい、好きです」
「それで少しでも雨の日も嫌やなくなったらええかな思て」
「直哉様……ありがとうございます」
直哉はネットの広告でたまたまこの傘を見つけて彼女が好きそうだと思い注文していた。金具を押して模様を開いて見せながら言う。
「雨の日は今度これ使うてデートしよ」
「はい……!」
彼女は直哉がデートという言葉を使ってくれたのが嬉しくて涙目になりながら頷いた。
それからまた数日後のこと。雨の強い夜に、彼女は眠れないでいた。隣で寝ている直哉が起きないよう身動ぎ一つしないが、目は虚ろに天井を見つめていた。ダツダツダツダツ、と雨樋か何かに雨粒が当たってしまう音が、彼女の部屋では特段響いてしまうようだった。
天井を見つめていた彼女は、それが圧し迫って来るような幻影を見たような気になってぎゅ、と目を瞑った。すると今度は目を瞑っているのにぐるぐると目が回って酔いそうに頭が気持ち悪くなる。たまらずもう一度目を開けると天井は元に戻っていて──そもそも何も起こっていないのだが──ほっと息をついた。
彼女はふー、と深呼吸を繰り返した。再び目を閉じ、体の力を極力抜いて眠れるよう心がけるも、なかなかすぐに効果は得られない。そして眠れないことに不安になっていく、という悪循環に陥る。自分でもわかっていたが、こうなると止められない。
「また寝られないんか」
ここで唐突に声をかけられて彼女はびっくりした。何もしていない筈なのに直哉が起きて言った。彼女は焦って直哉の方を向く。
「申し訳ありません、何かで起こしてしまいましたか」
「いや、なんとなく」
直哉は体を起こし、次いで彼女の体も起こしてやった。
「まず一回トイレでも行き。ついてったろか?」
「い、いえ! 一人で行けます」
「そうか、そんなら行ってき」
「はい……」
直哉は彼女が厠へ行くのを見届けて立ち上がった。彼女が向かったのとは別の方向、冷蔵庫のある台所の方へ歩き出した。
彼女がトイレから戻ると直哉が先に戻っていた。彼女は直哉がこの場を立ったことを知らなかったが、布団に戻った時に氷枕が新しいものに取り替えられていることに気づき、そしてそれを為したのは直哉しかいないので恐縮した。夜の間中エアコンをつけっぱなしでは彼女が体調を崩してしまうので二人は氷枕を使っていた。
「申し訳ありません……」
「なんで謝んねん。ぬるくなってもうて、俺もちょうど寝苦しかったんや」
直哉は彼女と向き合って、彼女の頬に手を伸ばした。優しく覆ってやってから、その手を彼女の両耳へ移動させ塞ぐようにした。
「よう聴いてみて」
彼女は耳に神経を集中させた。耳を塞がれる、ざー、というような音に混じって、自分か直哉のものかわからない、どくん、どくんという脈動が聞こえた。
「わかるやろ?」
直哉が笑みながら言う。きっと直哉はこの脈の音のことを言っているのだろうと思って彼女は小さく頷いた。
「これ聞いてたら落ち着くから。そのまま寝てもうてもええよ」
しかし、横になっている彼女の耳を塞ぐ直哉の手は氷枕と彼女の顔に挟まれてしまっている。彼女はそれをしんぱいして直哉の片手をはずそうとした。
「ふ、この程度俺は大丈夫やから。なんも心配せんと眠り」
「ありがとうございます……」
彼女は雨音の代わりに二人の命の音を聞きながら目を瞑った。今度は眩暈もしない。彼女はひどく安心して自然ゆっくりと呼吸が深くなっていき、ついに眠りに落ちた。直哉はそっと彼女の顔の下から手を抜いておやすみ、と呟いて眠った。