それは彼女の何気ない一言だった。
「最近、普通に挨拶してくれる躯倶留隊の方がいらっしゃるんですよ」
「ほーん?」
誰もが彼女に厳しいこの家では珍しいことだ。とはいえ特段嬉しいというほどのことでもないが、悪態を吐かれたり冷たい視線を向けられるよりは余程良い。それに彼女はどうせ裏があると思っていた。
「直哉様に取り入ろうとしているのかもしれませんね」
「ウチにそないな奴おるとは思えへんけどな」
直哉も家の者の自分への評価は大体把握している。そしてそれを気にしていない。気にする必要がない。自分が一番強くて、次期当主だから。
「まぁオマエに害がないんならとりあえずほっといたろ。何かあったらすぐ言ぃや」
「はい、直哉様」
無表情で受け答えする直哉はしかし、自分で思う以上にそのことが心にひっかかり苛々していた。彼女に上辺だけでも優しくする者がいるなら屋敷で孤立している彼女にとっては良いことのはずなのに、彼女の味方は自分だけで良いと彼女を孤独へ、いや自分へ依存するよう仕向けたい自分もいた。
そして彼女もそれに薄々気づいていながら止めたり諭したりはしなかった。彼女も直哉さえいてくれればいいと既に依存していた部分もあったからだ。だから急に他人に優しくされてもなんとも思わなかった。この家でお二人にはお互いだけだった。
だからだろうか、あんなことが起こってしまったのは。
彼女が直哉と屋敷の廊下を歩いていた時のこと。彼女はいつも通り直哉のきっちり三歩後ろを歩く。そしてその時向かい側から躯倶留隊の一人がやってきた。それは日常の風景の一コマにすぎなかったのだが、その彼が件の彼女に普通に接する彼だった。
彼女は屋敷に一人でいるときは、男性とすれ違うには端に避けて道を譲るのだが、直哉の後ろを歩いている時はその必要がない。この時もそうだった。
だが、躯倶留隊の彼も横に避けるほどでもなく、二人と一人は廊下ですれ違った。その時、躯倶留隊の男のたくましい腕が彼女にちりっと掠ってしまった。
「あっ、申し訳ありません」
ぶつかったのは男だが彼女は反射で謝った。
「いえ……」
男はそれだけ言ってそのまま通り過ぎようとした。すると直哉がぴたりと足を止め、彼女を振り返る。
「どないしたん」
「いえ、ちょっと腕が当たってしまっただけです。あ、例の彼ですよ」
なんとはなしに付け足された言葉は完全に仇となった。彼女はこれをひどく後悔することとなる。
「なんやて?」
直哉は柳眉を逆立てると、ど、と足を鳴らし男を追った。数歩で詰まってしまうその距離と聞こえていた声に男が振り向くと同時に直哉が彼に掴みかかった。
「お前!」
直哉が男の腕を捩じり上げる。それは動きを拘束するためのものではなくただ人間の骨格も何もかも無視して無理矢理に捻ったものだった。ばきゃ、と骨が折れたであろう嫌な音が響き渡る。
「ああああっ!!」
男が痛みに悲鳴をあげ、廊下の床に倒れこむ。
「直哉様?!」
彼女は驚きその場に立ち竦んだ。思わず彼の名を呼んだ口に手を添えるばかりで何もできない。その間にも直哉は彼を仰向けにひっくり返し馬乗りになって拳を振り上げた。今度はごっ、ごっと直哉が男を殴る音が響く。
「お前っ! ひとのっ! 俺の『妻』にぶつかって!! いえ、だけで済ましとんちゃうぞ!!」
「な、直哉様……!」
彼女はやっと震える足で廊下に座り込むようにして直哉に近づきその背を男から引きはがそうとした。ぶつかったというより掠ったと言った方が近い、自分が言葉選びを間違ったと思ったし、こんなことでこんなんにも激昂して殴りかかるとは思っていなかった、自分に責がある。
そして彼女は直哉が自分を「妻」と言ってくれたことに喜びを覚えていた。二人は事実婚であり、直哉には正妻がいる。直哉が彼女を歯牙にもかけていないことを知っているし、勿論直哉が彼女を妻と呼ぶのはこれが初めてではない。それでもこの状況で妻と呼ばれたことが嬉しかったし、悠長にそんなことを思った自分にも僅かながら恐怖した。
「ちょっと挨拶しただけでっ! 仲良うなったとでも思っとるんかっ?!」
「直哉様、もう充分です! おやめください!」
彼女が直哉の着物を必死で引っ張るが彼女の力では直哉に何の意味もなさない。男はとうに気を失っており、ぐったりとして直哉の拳を受けるばかりであった。顔は歪んでしまうだろう。直哉の罵倒も届いているわけがない。
彼女は直哉がおそろしくなった。こんな直哉は初めて見た。もともと直哉が嫉妬深く、彼女に何かあればその元凶が徹底的に排除されるのは知っていたが目の当たりにしたのは初めてだ。直哉の拳は血に染まり、それが廊下の壁に少量だが飛んで染みを作っていた。彼女はついに直哉が拳を振り上げる反動で振り払われ後ろにどっと尻もちをついてしまった。臀部から痛みが走る。
そんなおぞましい光景に、彼女は直哉の執着がおそろしくなった。今に始まったことではない、だがそれをさせている自分も怖くなった。いけない、こんなことは間違っている。彼も自分も。
ひゅ、と呼吸が荒くなっていく。
「な、なおや、さま」
ひゅう、ひゅ、ひゅー。呼吸がうまくできなくなっていく。
「ひ、はっ、はっ、なお、はぁっ、はぁっ……!」
「……?」
そこで直哉がやっと彼女の異変に気が付いた。ひゅうはぁと荒く呼吸を繰り返す彼女は自分の胸を抑え俯いている。過呼吸を起こしているのだ。
「オマッ……! 大丈夫か?!」
直哉は着物の袂を折りたたんでハンカチ代わりに彼女の口へ当ててやった。彼女はぼろぼろと涙をこぼしながら直哉の着物をぎゅうと握り込んでいる。はぁはぁと苦しそうな息はなかなか治まりそうにない。
「はぁはぁっは、な、ひぃ、はぁ」
「ええから、ゆっくり息し。大丈夫やから」
直哉は彼女が直哉の名前を呼ぼうとしていることを察して言った。片手では口を抑えてやりながら、もう片手では彼女の頭を抱き込んだり背中をさすってやったりする。すまんかった、大丈夫やと直哉は繰り返すばかりだ。彼女のつむじに顔を埋めて口づけを落としてやっては彼女の呼吸が落ち着くことを祈る。
しばらくしてようやっと彼女の荒い息が治まってきた。ひゅう、ふう……と呼吸を落ち着かせると、まだ涙で濡れている瞳で直哉を見上げながら言った。
「直哉様、私は直哉様のお側を離れませんから。私には直哉様だけです。直哉様しかいないのです」
開口一番この言葉に直哉は瞠目した。彼女はきっと過呼吸に陥りながらずっとこのことを直哉に伝えようとしていたのだろう。直哉は思わず彼女をぎゅう、と抱き締めた。
「ほんまにすまんかった」
直哉は彼女の肩口に頭を預け静かに息をする。僅かに震えているように感じる直哉の頭に彼女は手を添えた。
「直哉様……泣いて、いるのですか?」
「……阿呆、泣いてへんわボケ」
直哉が顔を上げて言った。直哉は確かに泣いてはいなかったが、言葉とは裏腹に直哉の眦にはうっすらと雫がたたえられていた。
「その調子でお願いします」
「オマエがやろ」
ボケ、と言われいつもの調子を取り戻したのだと安堵した彼女が笑いながら言う。直哉もつられて笑う。
血の滴る廊下で、顔をぐちゃぐちゃにされ気を失って倒れている男の隣で、それは大層幸せそうに二人は抱き締めあいながら笑った。