というわけで、ちびちび読み進めていた小説版「超かぐや姫!」読み終わりました!
 同じ作品でも媒体が異なると表現しやすい部分としにくい部分、スポットが当たる部分と当たらない部分が別れてくるもの。
 本作は彩葉の一人称で語られます。そのため、映画版に比べてぐっと彩葉の感情や情動、思考といった内面の部分が明文化されており、「あの場面では彩葉の内面はどうだったか」という視点が得られます。
 これによって明らかになったのが、彩葉の中には完全に母親が内面化されしまっているということ。
 映画版になかった描写として、前半パートで彩葉が頻繁に母親に言われた言葉を思い出すシーンがあるんですよね。これ、正確には「思い出してる」んじゃなくて「今まさに言われてる」んですよ。内面化された母親に。
 すなわち彩葉は完全に内面化された母親に思考を支配されており、その行動はすべてその内面化された母親に認められるためのものだということ。
 もちろんこの点は映画版でも変わりませんしその描写もありますが、やはり文字媒体である小説でこうして明文化されると、前半部分でかぐやとドタバタやってるコミカルパートをもう正気では見られません。あれ、これを隠すために徹底してコミカルな描写にしてたんだろうと思います。もちろん最初からいきなり母親との確執がどうだトラウマがどうだという重い展開にしてたら視聴者が楽しめないという作劇上の理由もあろうかとは思いますが、小説版を読むと彩葉はあのままじゃ完全に破滅へ一直線だったと改めてわかってしまいますね……。
 彩葉は小説版の帯によれば「ハイスペ限界女子高生」とありますが、「学費を全額自分で稼がなければいけないからバイト掛け持ちしまくってる」とはまったく別の方向性で限界なんですよね。映画版の後半で芦花が「彩葉はある日突然消えてしまいそうだった」と言いますがまさにそのとおりの限界だったという……。
 「ハイスペ」の部分もその「限界」でなんとか偽装している薄皮一枚に過ぎません。しかもそれが薄皮一枚でしかないというのが、学校の先生や友達に完全にバレているという。そしてなにより、彩葉自身がそれを自覚してるんですよね。
 しかし、彩葉の周りの人々はそれを察しながらも彩葉の自主性を尊重してかそこに言及しない。これがかえって彩葉の思考の軌道修正の機会を奪ってるという皮肉よ。
 そして最終的に小説版の終盤では、彩葉は長らく連絡を絶っていた母と話すことでそのトラウマを克服します。この流れは映画版でも同じですが、小説版では明確にこの件にケリがついたとわかる一文があり、彩葉は明確に内面化された母親を殺しきれたことがわかります。
 しかし……改めてこの話を読んでみると、彩葉は要所要所で母親の言葉を思い出す=内面化された母親に思考を支配されているのみならず、無意識にかぐやに対して自分が母親に言われた言葉をそのまま言っているシーンがあってかなりゾッとしました。
 わたくし人形使いは、かつて映画「ハッチング」の感想で「親子間、特に母親と子供の呪いは円環の形をしている」と書いたことがあります。そして奇しくも本作もまた、彩葉は冒頭で赤ん坊の姿のかぐやを拾うことで強制的に自分の支配していたポジションである「母親」になってしまってる。そしてかぐやに対しての母親というポジションから、自分に対する母親と同じ言葉を言ってしまう。まさに呪いの円環ですよ。
 さらにエピローグ、10年後にロボット研究者となった彩葉はかぐやの義体を作り出しますが、これもまたある種の「出産」と言えなくもない気がします。彩葉は結局「母親」という属性から逃れられない。
 本作にはかぐや→ヤチヨという円環が存在しますが、彩葉もまた一種の円環に囚われているような気がするんですよね。しかも彩葉とかぐやの結びつきは、彩葉と彩葉の母親との結びつきよりもおそらく強い。
 すべての仕掛け人とも言えるヤチヨは、映画版で最後に「このお話はハッピーエンドだと思う?」と問いかけてきます。映画版を見たときには掛け値なしのハッピーエンドだと思いましたしそれも別に誤答ではないと思いますが、そのハッピーエンドは呪いにさらに強力な呪いをかけるという形でなし得たハッピーエンドのような気もしてきました。
 ……これ、ただ単にわたくし人形使い個人が家族っていう集団単位の正当性を毛嫌いしてるだけなのかもしれませんが。
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