侑の部屋に入ると、ベッドの上には芋虫が横たわっていた。
「……侑?」
 私が名前を呼ぶと、頭部がこちらを向いて、ぴこぴこと触覚――のようなアホ毛――が動き回る。
 束の間それを見つめ、次いで部屋の中を検める。侑の部屋は少し小さめの本棚があり、衣類はクローゼットに収められている。だから結構簡素な感じだ。目視の障害になるほどの物はない。
 部屋を見回し、クローゼットを開き、ベッドの下、机の下まで確認しても、私の愛しい侑の姿はない。
 そうなると……。
 もう一度、ベッドの上を見る。
 芋虫はなにか言っているのか、きぃきぃと甲高い声を上げている。
「侑?」
 もう一度名前を呼ぶと、まるで頷くような仕草を見せた。アホ毛がぴこぴこと私に触れる。
 そうか。侑は虫になっちゃったのか。
 アホ毛に触れると、大人しくなる。なんだか撫でられるのを待ってるかのようだったので、撫でると嬉しそうな鳴き声を上げた。
 それにしても虫かぁ。虫の姿だと大学行っても出席扱いならないよねぇ。
 そこでふと気になった。
 人間と虫って、付き合うことできるんだろうか。
 法律は人間同士が前提で定められてるはず。そうなるとやっぱり無理なのかな。
 なんだか悲しくなってくる。
 侑が気を遣うかのように、きぃきぃと泣きながらアホ毛で私の頬をさすってくれる。それが少し嬉しかった。
 そうだ、一度部屋を出て、冷蔵庫にあった生のレタスと菓子パンを持ってくる。侑の前に差し出すと、侑はパンではなくレタスの方をむしゃむしゃと啄み始めた。
 食べ物の嗜好も変わったのだろうか。
「侑」
 呼びかけると、食事を中断してきぃきぃ鳴く。
「ごめんね、分かんないや」
 せめて言葉が伝わればよかったのに。
 いっそのこと、私も同じになれれば。
 ベッドに寄りかかって、侑の貌を撫でる。
「……また好きって、言って欲しかったな」
 ぽろりと零れた言葉は、もう夢の中。
 /
「……っていう夢を見たの」
 重くて軽い感じの胸を引きずりながら、パンを一齧りして語り終えると、侑は憮然とした目で私を見ていた。
「色々と釈然としないんですけど?」
「夢に文句を言われても」
 そりゃそうだけども、と侑も溜め息を吐く。
 奇怪珍妙な夢から覚めた私は、起きてしばらくは変な夢だなぁと思っていたのだけれど、ふと悲しくなってしまった。
 案の定、察しのいい侑が変化に気付き、心配そうに問い質してきたから、私も素直に答えたというのに、返ってきたのはそんな冷たい言葉だった。私だって拗ねたくなる。
「話聞いてると、なんだかカフカみたいだね」
 改めてパンを齧りながら、侑はそう呟いた。
「なんだっけ?」
「『変身』。男が起きたら虫になってたっていう」
「あー、国語の教科書にあったねぇ」
「まぁ、甲虫じゃなくて芋虫だし変身してたのは私だったわけだけど」
 じとーっとした目でまた見てくる。そんな目で見られても私にはどうしようもない。
「で? その頓珍漢な夢がどうかしたの?」
「……うん」
 侑が本題に踏み込んだ。
 私は口に運んでいたパンを皿の上に戻す。視線も、追うようにして落ちる。
「話した通り荒唐無稽な夢だったけどさ……ふと思うんだ。実際にそんなことがあったら私はどうなるんだろうって」
 私の言葉に、侑は半ば呆れているようだった。
「そりゃないと思うけど」
「そうだけど! 芋虫じゃなくても……なにかしら侑がすごく変わってしまって、ううんひょっとしたら私の方が変わってしまって……その時、私は侑のこと、好きでいられるのかな、って……」
 この気持ちが、上手く言葉にできないのがもどかしい。
 要するに不安なのだ。将来的に変わってしまった時、私の心が変わってしまうのが。その時、また侑を傷付けるかもしれないのが。
 必死に伝えようとする私の拙い言葉に、侑は咀嚼し理解しようと考え込む。
 やがて、侑は顔を上げた。
「言いたいことは分かる。分かった。でも、今の燈子は大丈夫だと思うけどな」
 そうだろうか。今でさえ、変な夢を見て落ち込んでしまってるのに。
「どうして?」
「だって燈子、夢だったら平気だったんでしょ?」
 問いかける私に、侑はあっけらかんとそう言った。
 あまりにも軽いように思えて、一瞬言葉に詰まる。
「それは、だって、夢だから」
「そうだけどさ、燈子って虫苦手じゃん。夢だったら余計にだめそうだけど」
 あ、と口を開く。確かに、触れないくらいに苦手ではあるけど。
 でも、夢だから大丈夫だったんじゃないだろうか。
「……そうかなぁ」
「昔、傘の内側に入り込んでた芋虫が足元落ちただけで叫んで飛び上がったのに」
「それは仕方ないでしょ」
 傘を開いたら急に降ってくるんだもん。不意打ちされたらそうなるよ。
「それに、世話をしようとはしたでしょ」
 それも、そうだけど。
「……でも、お話みたいに途中で投げ出したかもしれない」
 虫になったグレゴールを、家族は腫れ物扱いし、終いには世話をすることもなくなった。それにグレゴールは傷付く。
 私にもきっと、そんな弱さがある。
「最後まで見れなかったからそこは分からないよね」
 でも侑は気にしないとばかりにパンを口にした。
「それに――」
 と、侑は言葉を途中で切る。
「それに?」
「あ、いや、ナシで。恥ずかしいこと言おうとしてた」
 慌てて手を振って侑は顔を背けだす。
 なにそれ。超気になる。
「えー言ってよー」
「やだよー恥ずかしい」
 強情だったけれど、しつこく追及し続けると、侑は最後には諦めたように溜め息を吐いた。
「……笑わないでよ?」
「うん」
 私が頷くと、侑はそっぽを向く。
「……芋虫だから」
「え?」
「だって芋虫なら、その内蝶に変身するなるでしょう? だから……」
 段々と声が尻すぼみになりながら、侑はそう言った。
 芋虫は、蛹を経て蝶になる。
 変身は、一度とは限らない。
 また、想いが咲くこともある。
 そういう、ことなのだろうか?
 多分に私の推量が入ってるけど。それは。
「……侑、ロマンチックだね」
「うー、だから言いたくなかったのに」
 思わず漏らすと、侑は恥ずかしそうに赤面した。
 そのかわいらしさに少しだけ笑みが零れる。すると侑はますます拗ねてしまった。
 やっぱり、私はまだ不安が付きまとう。
 それでも。
「……うん。ちょっと元気出た。ありがと」
 あの時と同じように、侑を信じる。信じてる。
 私を、信じる。侑を好きだっていう、この気持ちを。
「どーいたしまして」
 気恥ずかしくなったのか、侑はパンで口を豪快に塞いだ。
「全く、朝ご飯の時に虫の話題出す? フツー」
「訊かれたから答えたのにー」
 口の中をいっぱいにしながら文句を言う侑に、私は笑う。
 侑のアホ毛は、相変わらず元気そうに跳ねていた。
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