ないはずの肉体がずしりと重くなる感覚とともに、落下感が消えた。同時に、赤黒く脈動していた特殊軍事用防壁<レッドアイス>の壁もまた消えてなくなる。
闇と無感覚。以前、電脳警察に捕縛されたときに、こうしてなにも見えずなにも聞こえない無感覚の牢獄に放り込まれたことを思い出す。
しかし、その感覚的な暗黒はほんの一瞬。すぐに鮮明な五感が戻ってきて、全感覚が眩む。
――目を開けると、そこに広がっていたのは狭い牢獄ではなかった。
吹き抜けるそよ風。
家族の笑い声。
見上げればそこには、地上からは失われて久しいはずの青い空と眩しい太陽。
離れたところから聞こえてくるのは、穏やかな表情の老紳士が奏でるヴァイオリンの音色だ。
俺は、公園のベンチに座っていた。
反射的に自分の体を見下ろす。
ある。間違いなく自分の手足と肉体がある。胸に手を当てれば、その奥には確かに心臓の鼓動が感じられた。
ベンチの背もたれに深く身を預け、空を見上げる。全身にはたしかに、陽光の暖かさが感じられた。
――そうだ。
今までの犯罪の、そして投獄の数々は悪い夢だったのだ。
俺は少しの間、眠っていただけだったのだ。
だって、空はこんなにも高くて、青くて――
「――ンなワケねえだろうが」
脱獄を繰り返す重犯罪者を閉じ込めておくための牢獄にもっとも必要なものはなんだろうか?
堅牢な壁?
強固な錠前?
屈強な警備員?
どれも違う。
答えは牢獄ではない牢獄。そこにいる囚人に、牢獄だと思わせない牢獄。そこにいる囚人が、自分がるのは牢獄ではなく天国であると誤認させる牢獄。
この公園を行き交う人々の中のいくらかは、投獄の際に自意識を改ざんされ、本当に自分が投獄された犯罪者であることを忘れた連中だ。そしてその連中にとっては、こここそが真実で、ここだけが世界だ。連中は自分がいるこの平和な公園こそが牢獄であることに決して気づかないまま、永久にこの空の下で談笑し続けるだろう。
だが俺は違う。
七重の囮自我<アルター・デコイ>で投獄の際の自意識への改ざんを回避、俺はそのままの自我をまるまるここへ持ち込むことに成功した。電脳警察は間抜けにも、カプセル入りの毒薬をそのまま飲み込んだのだ。しかも連中は、それにまだ気づいていはいない。
「おじさん!」
不意に声がした方を向くと、ひとりの幼い少女がいた。少女は俺に、小さく可憐な花が集まった花束を差し出している。
「あげる!」
満面の笑みを浮かべたその少女の頭を二、三度なでてから、俺はそのほっそりとした首を捻り折った。
苦悶の表情はこの楽園では想定されていなかったのか、少女は笑顔のままで芝生の上にくずおれて動かなくなった。持っていた花束は、芝生の植えに落ちる前に埃のように細かい粒子になって消滅していく。ウイルスだ。
あの花束を受け取っていたらその瞬間に俺の意識はウイルスに侵され、2秒もしないうちに意識を改ざんされてこの楽園の住人の仲間入りをしていただろう。
「ク、ハ。お前らの仲間になんぞなってやるかよ。逆だ」
(ここまでの部分、あとで三人称視点で書き直す)
ピクリとも動かなくなった少女の体を片手で持ち上げ、そのなんの味もしない肌に舌を這わせる。そして、スレイマンはそのへし折れた首に深々と歯を食い込ませた。
少女の柔肌から鮮血が吹き出す代わりに、食い込ませた歯からその肌の下を這うように食い込んでいくのは、ミミズのように細長い虫<ワーム>だ。
虫<ワーム>はたちまち少女の肉体、すなわち少女を構成する駆体データを改竄、自己のコピーを 形成する。
小さな少女の体が爆発的に膨張し、一瞬にしてスレイマンと瓜二つの姿となった。
騒ぎに気づいた人々が上げる悲鳴を押しつぶすかのように、スレイマンの哄笑が公園の木々を震わせる。
「産めよ! 増やせよ! 地に満ちよ! クッハハハァ!」
ふたりのスレイマンが同時に弾丸のように駆け出し、逃げ遅れた住民を押し倒してその首筋や肩口に噛みついた。噛みつかれた住人はさらにスレイマンのコピーとなり、そのコピーはさらに残った住人を襲い、さらに――。
災禍のループが同心円状に繰り返されて20秒もしないうちに、公園にいた住人たちはすべてスレイマンのコピーに置き換わった。否、公園を構成するデータそのものがスレイマンの自意識に支配され、今や風に揺られる木々の葉音はスレイマンの声で哄笑し、芝生の上に放り出されたヴァイオリンすらもがスレイマンの声を奏でている。