お題「心の灯火」
夢を見た。
それは幼い頃の記憶だった。小さな弟を連れて、旅芸人が開いている小さな催しに行った時のことだ。町の広場には人だかりができていて、いたる所で挨拶が聞こえる。こんにちは、と朗らかな声が胸の下から聞こえる。
人の間に突っ込むようにして騒ぎに参加した少年を迎えたのは、背の高い女だった。見たことも無い衣装を着て、広場の真中に向かっている。彼女が舞台に立った時、それまでの喧騒は嘘のように消え去った。そして、彼女は歌った。
聴き覚えのある歌だ、とビクトールは思った。ああ、最近ここいらで流行っているあの歌だと思い至った時には、既に情景は消え去っていた。
故郷の夢を見るときは、必ずと言っていいほど夢であるということを自覚する。だからこそ、途中まで気付かなかったことに少なからず驚いていた。瞼を閉じたまま、深く息を吐く。
目覚めてみれば、挨拶を交わした人々、旅芸人や、抱きしめるようにして守った弟の表情も思い出せない。かすかに残る記憶も急速に形を失いつつある。街の風景だけが鮮明なのは、毎日のようにこの場所を目にするからだろう。
薄く目を開けると、窓から月の光が差し込んでいた。冴え冴えとした夜の空気の向こう、窓枠に腰を下ろしたフリックが、外を眺めている。
フリックは、小さな声で歌っていた。
その歌は、少し前にやって来た小さな少女がもたらしたものだった。酔っ払いにせがまれて歌った曲は、ハルモニアのものらしい。敵国に近しい場所だからと少女は言ったそうだが、歌に国などあるものかと誰かが言い、軍に行き渡るのに時間はかからなかった。
歌は一握りの勇気を戦士たちに与え、戦士たちは覚えた歌を口ずさみ心を合わせた。
故郷でついぞ聴いたことの無かった歌が、今や誰もが知り、この場所で紡がれている。ビクトールにとってそれは不思議な感覚だったが、悪いものではなかった。
「……起きたならそう言え」
短い歌の終わりに差し掛かる前に、メロディは途切れた。素肌に上着を羽織っただけの無防備な青年は、少し不機嫌そうにビクトールを見下ろしている。
フリックは自身の歌声が下手だと思っているらしい。そんなことはないと言っても聞かないので、既にビクトールはその感覚を正すことを諦めている。その顔を見るのも何度目だろうか、と言葉に出さず笑って、手招きした。
ベッドに腰かけたフリックの腰に腹を付けるように身を寄せる。横になったままの身体をフリックが背もたれにして、体重を預けてくるのが心地良い。わずかに湿った髪を撫でられ、その指を捕まえて唇を寄せた。
フリックは何も言わない。ただ、その瞳が静かに燃えている。
「フリック」
あの広場で、あの日。
二度目の報告というなんとも格好の付かない帰還を果たし、誇らしいやら情けないやら、心は乱れどうしようもなく困惑していた。同盟軍の本拠地となり、その記憶からはかけ離れた景色が広がる故郷。
ただいまと誰かに言いたかった。言いたくなかった。
けれど、記憶の中でも明確な区切りの無かった舞台の端で、フリックはおかえりと言った。
「勝たねえとな」
掌を頬に当てて、眼を閉じた。
わずかな沈黙の後、月の光で明るい暗闇の中で、フリックの溜息が聞こえた。今更だと言わんばかりに。
フリックの親指が目尻を引っ張るように押した。静かな戯れに慰められる心とは裏腹に、続きをねだった歌は戦場に往く歌だ。
聞き慣れた、澄んだ声が耳元で鳴る。囁くように歌うフリックの唇が額に落ちて、夜は一層深く沈んだ。