空はどうして青いの? なんて小学生みたいな質問をしてみたら、キミは笑うだろうか。
 逆立ちに失敗してひっくり返ったマットの上、天井に挟まった空気の抜けたバレーボールをぼんやり見上げる。次の人が待ってるから早くどかなくちゃいけなくて、でも、たったそれだけのことがどうにも億劫だった。
 起き上がることをせずにのろのろと体を横に転がしてマットの上から離れる。ひんやりとした床の感覚がひじに伝わる。マット運動は苦手だ。自分の身体が思い通りにいかないことを嫌というほど思い知らせてくる。ボール競技も走ることも得意じゃないけど、それはただ人より劣っていることを思い知らされるだけだから。
 曲げて伸ばして回って止まって、自分の身体を操作できているか確認するマット運動は、自分のみじめさが浮き彫りになるようでいっとう嫌いだ。
 のろのろと列に戻る。倒立の練習はまだ終わらない。私の番がまたやってくる。手をまっすぐに、重心をふらつかせないように、マットの網目をじっと見つめて、そうすればできる。
 できるらしい。できている”みんな”が居る。先生はそう言っている。教科書にもそう載っている。だけど私はそうじゃない。そうできない。教科書通りにできない。言われた通りにできない。みんなのようになれない。自分の身体が一番私から遠い。儘ならない。
 きっと、何回繰り返したってうまくいかない。そう諦めているからできないのかもしれない。十回やれば、百回練習すれば、千回挑戦すれば、一万回諦めなければ、私は、”できる私”に変わっているのかもしれない。でも、そこまでたどり着くには、スタートラインが少し前すぎるんじゃないか。
 もっと普通から始めたかった。始めさせてくれよって思った。そしたらもっと挑戦だってしてやろうって気になるから。
 だけど一人ひとり「ヨーイドン」の場所は決まっていて、それは動かせないらしかった。また、私の番がくる。ベージュにくすんだマットを睨む。はやくしろよって後ろの人がせっついてくる。瀬早は良いよね、三点倒立も倒立も倒立前転も、一回失敗しても、二回目、三回目でできるようになるんだから。あいうえお順で並べられた組み分け。どうせなら、へたっぴと上手な子で分けてくれたらいいのに。隣のレーンで名護さんがつまづいている。派手にひっくり返って背中をしこたま打ち付けたらしい。どんくさい。
 さっきまでの私と同じだ。そして、三秒後の私と同じだ。
 マットの上に立つ。両手をつく。足を蹴りだして、重心を頭の真上に出す。勢いが付きすぎた。振り上げた足がそのまま後ろへ、あるいは前へ、とにかくまっすぐ上では止まらなくて、向こう側へ倒れていく。手をついて庇うことはできない。それをするより素直に倒れたほうがいい。それは知っている。うっかり手をマットから離せば、横向きに倒れてしまう。
 だから、私は素直に自分の足が落ちるに任せた。背中にずんと重い感触。もう少し前なら受け止めてもらえたけど、もう授業は私のできるできないに関わらず進んでしまって、補助をつけてはくれない。だから、私は一人で倒れこむしかない。
 したたか打ち付けてせき込む。はやくどけよって視線。倒れた時にうずくまっていることもできない。もしかして鼻血でも出したら心配してもらえるかもしれない。だけど目に見えるほど酷い状態にならなくっちゃ、ただうまくいかないだけじゃ、助けてもらえない。
 助けてもらいたいのかどうか、分からないけれど。
 私一人授業の進捗を止めて、そうして白い目で見られるのもご免だと思う。そういうことがないクラスだったら良かったけど、更衣室で囁き交わされる言葉たちが棘を持ちやすいことを、私は嫌というほど知っている。
 こうだったら良かった。ああだったら良かった。そればっかりだ。私に対しても、世界に対しても。世界のぜんぶが、私の思うとおりにいかない。
 ――キミとは正反対だ。
 ごろごろと転がってわきへ退く。寝転がったまま隣を見れば、ロンダートを成功させたキミが見えた。
 いつもはポニーテールにしている髪をお下げに結わえて、なにも困難なんてなかったようにさっさと列へ並び直す。その姿は颯爽としていて、なんだか、物語に出てくる騎士様はこんなかんじかなぁだなんて夢想してしまう。
 キミのことを見つめていたら、瀬早に肩をどつかれた。私も、列へ並び直さないといけない。体育の授業は終わらない。出荷される牛の気分だ。
 安川 摩耶。あがわ まや。キミの名前。「よくヤスカワと呼び間違えられるんだよね」と苦笑いする様さえ大した困難であるようには見えなかった。
 運動が得意なキミは、同時に学業優秀でもあった。何も知らないことはないように振舞っていた。そして、私の些細な質問にも苛立たなかった。なぜ、どうして、を繰り返す私の姿はキミにとってどれほど愚かな子猿のように映っただろう。それを想像するとみじめになる。私が自分のからだを上手に扱えないのと正反対に、キミは、キミ自身を当然のように取りまわして見せた。それがキミにとっての普通だった。当たり前にできることだよ、と、キミの瞳は物語っていた。
 私はそれが嫌いだった。
 キミの笑顔が嫌いだった。
 キミの笑顔が優しいから嫌いだった。
 私に向かっていつも笑うから嫌いだった。
 だって、私は、キミに上手に笑い返すことすらできないのに。
 ねぇ、空がどうして青いのか、キミは答えてくれるかな。光の屈折の話をしてくれるのかな。その時に笑ってくれるのかな。自分自身の関与しない理由で青い空を、キミなら、赤く染めることだってできるかもしれない。万能の人。
 実際にはそんなことないって分かってる。分かってるけど、そう思ってしまう。キミはなんでもできる人。私はなんにもできない子。それが私にとっての真実だ。
 夢を見ている。キミがどんどん走っていく。キミの周りは真っ青に晴れて、足元には舗装された道がどこまでもまっすぐ伸びている。
 私が聞く。
「どうして、空は青いの」
 キミが答える。
「青空の方が、走りやすいから」
 キミは笑っている。息一つ乱さずに走っている。空が青い理由を、私はそうしてようやく知った。
 
味噌煮は「蹴飛ばす」、「逆立ち」、「一万」をテーマに小説・漫画を創作しましょう。
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