「後悔の無い人生など価値も無いよ、君ィ」
せんせいは、そう言うとニタニタ笑いながら、コーヒーカップをくっと呷ったのだった。
僕がせんせいと初めて出会ったのがいつのことだったのか、不思議なことにさっぱり思い出せない。
生まれた時から一緒にいたような関係でないのは確かだし、さりとてここ数年の付き合いというわけでもない。少なくとも、僕がペンを握ってまともな――整合性のある――文章を書けるようになったころには、僕はせんせいのところに通っていたのだが、はじまりが何であったのかは、今となっては思い出せそうにないのだった。
ひとつたしかなことは、最初は僕はコーヒーが飲めなかったということだ。そもそも母も父も根っからの紅茶党だったから、コーヒーという飲み物に対しての最初の接触は、せんせいが飲んでいる姿を目にしたときだったはずだ。
僕はその真っ黒い液体――当初、それが飲み物で、しかも嗜好品だなんて思いもしなかった。薬の類だと信じていた――をかぱかぱと飲んでいく先生に憧れて、いつしか自分でも嗜むようになっていた。
「ほんとうにそうかな?」
カップの中で揺れる黒い水面に、ぬるりとせんせいの影が映りこむ。カウンターから身を乗り出して、せんせいは僕の額と拳一つ分も離れていない至近距離から、じいっと僕の顔を覗き込んでいた。
「はたしてここが、君とコーヒーとの最初の出会いだったのか?」
「そうだったように、思いますが」
「そう思うだけだねぇ」せんせいはケタケタと笑った。「そう思うだけだ。それだけだ。さて、どうやって証明する?」
「証人ならいますが」
「証人! どこに?」
「ここに」
せんせいの額を指さして、そのままぐっと押し返す。カウンターの向こうにひっくり返るのはいつものこと。冷めないうちにカップを傾ければ、すっかり馴染むようになった香りが口の中に広がっていく。
せんせいの淹れるコーヒーが好きだ。コーヒーというのは、特に人によって好みが分かれる類の嗜好品だと思う。苦味とか酸味とかコクとか、味だけじゃなくて香りなんかも豆や曳き方、淹れ方で大きく変わってくる。
それも、どれがいいとか断言できるようなものではなくて、とにかく人の好みによる。そんな中で、僕はせんせいの淹れるコーヒーに、どうしようもなく惹かれていた。
どういうところに惹かれるのか、具体的に問われると、回答に困るところなのだけど……とにかく、うまいのだ。せんせいのコーヒーは。
「そうだ! コーヒーはうまい!」
復活したせんせいが、跳ねながら言った。
「そうですね。おいしいです」
「それが一番重要なことだ! いつ出会ったのかなどどうでもいい!」
「自分から話を振っておいて酷いんじゃありませんか」
「いやなに。悩んでいるようだったからねぇ」
せんせいには、隠し事ができない。どういうわけか、この人は僕のことなら何でもお見通しのようだった。
「肝要なのは、今飲んでいるコーヒーがうまいかどうか、だ。今ここに至る道程に価値は無い」
「そうでしょうか」
「ん~?」
「僕は好きですよ。この店に来るまでの、曇り空とか、水たまりとか、雑草に光る雨粒とか。この店のドアの重さとか、床板を踏んだ時の音とか、この椅子の座り心地とか。だからこそ、コーヒーがうまいと思える」
「それは本当にあったことかね?」
せんせいの声は、たまに突然低くなる。
「証明してみたまえ。この店の中から、この店の外を」せんせいが背を向けた。
カウンターの向こうにある棚からカップを一つ取り出して、汚れ一つついていないくせに、意味もなく白い布で拭きはじめる。
「今の君が、君の意識が、確実に感じ取れることは、そのコーヒーだけだよ。それ以外のすべては――今ここで、どうやってその存在を証明する? すべて勘違いでないと、すべて幻ではないと」
「……世界五秒前仮説、でしたっけ」
「そういう考え方もあるねぇ」
僕の前に戻ってきた先生の手には、一つのコーヒーカップ。その中には、いつ淹れられたのか、ちゃんとコーヒーが湯気を立てている。
「これはうまい。うまいコーヒーだ」せいせいが、くっとカップを呷る。「五秒前には存在していなかった。それでもこのコーヒーはうまい。それでいいんだ。それだけでいいんだ」
小さな音を立てて、空になったカップがソーサーに置かれた。カップの底の白が、うっすらと残ったコーヒーに透けて茶色に見えた。
「過程に意味は無いよ。ああすればよかったんじゃないかとか、過去のことを悩むよりも、ただ今あるものをしっかりと見据えるべきだ」
「……それなら、先生」
僕もカップを呷った。干したカップを静かに下げて、ひといき。
「回りくどい言い回しにも、意味は無いのでは?」
「いいやあるね! 楽しいんだ!」
おかわりはいるかい? そう尋ねてきた先生に、僕は無言でカップを突き出した。
何も考えずにただテキストを出力していくの楽しい。
眠くなったから寝るのだ。