「――だ・か・らピザ屋じゃねーっつーの!」
何度目かの受話器を叩きつける音が廊下に虚しく響いた。
あかねからの電話が来ないことに痺れを切らした乱馬は、電話の前で天道家にかかってくる電話を全て待ち受けることにした。電話が鳴る度、誰かが来る前に速攻で受話器を取っていたが、今日に限って立て続けに三度、店屋物を注文する間違い電話に当たって、苛々は今や最高潮である。
どいつもこいつも天丼だのラーメンだのピザだの矢継ぎ早に頼みやがって、ぶちぶち、口の中で呟いて、乱馬は鼻からふー、と長く息を吐く。
もしかして、と、夜の七時を過ぎた今、少し前からじわじわと考えては振り払っていた考えが、また顔を出し始めた。
(電話、来ないかも……俺が、――泣かせたから)
あかねはしっかりしてる。基本的に、連絡とか宿題とか、頼まれたことや課されたことはきちんとやる方だ。少なくとも、おじさんやかすみさんから心配だから電話が欲しいと言われて、それを平気で無視できるようなタイプではない。
それなのに電話がない、ということは、電話をしたくない、という意思表示なんじゃないか。なぜなら、天道家の電話には俺が出るかもしれない……俺と話したく、ないんじゃないか。
――だいっきらい!
まだ耳に残る泣き声とともに、ずしりと両肩にのし掛かる罪悪感に、口を曲げる。
リリン
電話が鳴った、と思ったら、ほとんど反射で受話器を取っていた。
「はい、天道です」
「あ」
「? ――!」
ほんのわずか聞こえた言葉の切れ端に、すぐさま思い当たった。
「……あ、あか、ね?」
「……」
おそるおそるの呼びかけに、電話の主は答えない。けれど切られないということは、この沈黙は肯定だ。
――あかねだ。
そう思ったら、嬉しさを上回る、急激な緊張とあがる体温。
「……乱馬?」
少し掠れた、電話越しのあかねの声が名前を呼べば、いよいよ緊張は最高潮だ。
表情が、視線が、息遣いがわからない。見えないことがこんなに怖いなんて知らなかった。開口一番、すぐさま謝ろうと心に決めていたはずなのに、続かない言葉。
まだ、怒ってる?
それどころかもしかして、まだ泣いてたのかもしれない。心なしか声が震えていたような気がしてきた。どうしよう、どうしたらいい。何て言おう。あかねもしゃべらない、やっぱり、まだ怒って――
あ、とか、え、とか、小さく呟いては黙るのを繰り返し、いよいよ乱馬は沈黙してしまった。
「……あの、乱馬」
「は! はい」
くそなんで敬語で返事してんだ俺は
二度目に呼ばれた名前の響きは、気のせいかほんの少し柔らかかった。
「あ、あかね、俺」
謝らなきゃ。あかねの声が和らいだと思ったら、当初の目的にすぐ思い至った。
「あの、俺」
ああ、でも果たして許してくれるのだろうか。どことなく無機質に聞こえるあかねの声。現に、昼間だってごめんと乱馬は先に謝ったのだ。だけどあかねは、謝罪の言葉を聞くや否や、もっと怒ったように――傷ついたように、見えた。
もしも、その繰り返しだったら?
繰り返しどころか、さらにあかねを怒らせたら、傷つけたら……そう考え始めたら、やはり言葉は続かない。
いや、だめだ。ここで謝れなければ、俺はいったいなんのために三度も店屋物の注文を受けたのだ。
「――お姉ちゃんに、かわってくれる?」
しかし、腹を決めて再度口を開いた乱馬より先に、電話の向こうで、無機質なあかねは声はそう言った。
「あー、もしもし?」
薄くため息をつきながら、なびきは自分から電話を代われと言ってきたくせにいたく不機嫌そうな居候の少年を横目で盗み見た。歯軋りするくらい代わりたくないなら代わらなきゃいいのに、常々よくわからないやつだ。
「――あー、うん。そんで? ……はいはい」
そして、めんどくさそうに返事を重ねるなびきを睨みながら、乱馬はじわじわと心に迫ってくる悲しみと絶望と、ひたすらに戦っていた。
俺はあかねに謝りたかったのに、あかねは俺と、話したくなかったのか……
(いや、違う。なんか用事があっただけかもしれない)
でもそんなの、俺と仲直りしてからでいいじゃねーか。
(い、いや、す、すげー大事な、用事かもしれねえし)
俺と仲直りするよりも?
(……)
ぽん、ぽん、と心の奥底からの囁き声がだんだんと音量を増していくにつれて、それを否定する声はしぼんでいった。
もう、許してくれないのかもしれない。
(なにしろ……)
――だいっきらい!
最悪のタイミングで、ご丁寧にエコーまでかかりながら頭の中のスピーカーが、大音量でがなりたてる。
「――はいはい、ちゃんと伝えとくわよ」
かちゃん
「――あっ!」
放心していた乱馬は、なびきが受話器を置こうとしていたことに気が付けなかった。
「何よ」
受話器と自分の顔とを交互に見比べてすごい顔をしている乱馬に、なびきはふん、と鼻を鳴らした。
「おとーさーん、あかね無事に着いたってー」
ほとんど泣きそうな乱馬を後目に、なびきは居間の早雲にむけておざなりに声をかける。それに続く、早雲のえー、切っちゃったの……と寂しそうな声に全力で同意しながら、乱馬はずい、となびきに詰め寄った。
「何よもー、さっきから」
「な、何よじゃねえ! おま、お前、お前なあ!」
「うるさいわねー、ほらどいてどいて」
やっはりめんどくさそうに自分の横をすり抜けていくなびきを引き止めることもできず、乱馬はその場に立ち尽くした。
あかねはお姉ちゃん、としか言わなかったから本当ならかすみさんでも良かったのだが、生憎夕飯の片付けで忙しそうで、暇そうなのはなびきしかいなかった。それでも、かすみさんに無理を言ってでもかわってもらえばよかった、そうしてればこんなことには……
――本当に?
なびきの所業にむかついて釣り上がっていた眉が、ゆるゆると下がっていく。
かすみさんでも、あかねが俺と話したくないと言ったなら同じことだ――
そう思ったら、鉛を飲み込んだみたいに体が重たくなった。足先が冷たい。そこから徐々に凍ってしまうような気さえしてきた。
謝ればどうにかなると思っていたことすら、思い上がりだったのだろうか。いつもあかねは、何だかんだで許してくれる。だから、今回も同じだと思ったのは間違いだったんだろうか。
心の奥から滲み出してくる重たく暗い考えは容易く心に広がって、すぐさまそこに根を張った。
――そうだとしたら、俺は……
「ほれ」
廊下に立ち尽くしていた乱馬の後ろ頭を、ぽこん、と何か硬いものが叩いた。
ぎこちなくふりむけば、呆れ顔のなびき。乱馬の頭を叩いたのは、どうやら彼女が手に持っている冊子のようだ。
「辛気臭い顔して……はいこれ、よろしく」
そう言って、なびきはほとんど無理やり乱馬の手にその冊子を握らせる。
どうやらそれは、数学の問題集だ。状況を飲み込めずにいる乱馬の肩を、なびきはぽんぽん、と軽く叩いた。
「誰かさんの忘れ物」
「……え」
「持ってきてくれってさ、駅前までくる――」
そこまで言ったところで、なびきは顔に一瞬だけ風がぶつかるのを感じて、反射的に目を閉じた。
そして再び目を開けた時、乱馬の姿はなかった。
「……ったく、ほんっと世話の焼ける」
そう言いながら、なびきは開け放たれているであろう玄関の戸締まりをすべく、やれやれ、と玄関に足を向けた。