洋子のそばにはいつでも本がある。小さな文庫本であることが多い。洋子の文庫本には手作りと見られる布製のブックカバーがかけてあり、センスのない風呂敷を縫ったような陰気なカラーを選ぶところに洋子らしさを感じる。
「それ、何の話?」
「死刑囚が死刑を迎えるまでの話」
「サスペンス?」
「ヒューマンドラマ」
洋子は私が話しかけない限り言葉を発さない。気をきかせて話を振っているわけではないし、話しかけても本から目を離さない辺り、会話の要求は歓迎されていなさそうだ。インスタグラムのストーリーを全て見終わり、タイムラインを遡りながら、洋子がページを捲る音を聞いた。
「どんな人が出てくるの?」
「罪を犯した人」
「それはあたしでもわかるなー」
「色々だよ。今一人死刑執行された」
「悲しい?」
「主人公は悲しんでる」
「主人公も死刑囚?」
「そう」
「悲しんでる余裕あるんだね」
単純に思ったことを言ったが、疑問符をつけなかったせいで会話は終わってしまった。洋子は無口というより、コミュニケーションが下手だ。だから大学三年生になったというのに友達がいないし、コンパにも誘われない。話しかけるのはゼミの教授と私くらいで、一人暮らしのアパートに訪ねて来る人なんて一人もいないだろうことは想像に難くない。コミュニケーションが下手という自覚があるせいか、それを避けるようにしているため、一向に上達しないのだと思う。つくづく可哀想に思える。人間、友達が一人もいない状態で楽しく生きていけるわけがない。
タイムラインを追い終えた私は、そろそろ洋子の傍を離れることにする。これから仲良しグループでカラオケに行くのだ。じゃあね、と言うと、相変わらず本から視線を外さずに、洋子は「うん」とだけ言った。
そんな洋子だが、話しかけようとする人が一人もいないわけではない。見た目は地味でダサいが、勉強はできるからだ。グループ課題が出ると、一人でぽつんとしてしまう洋子を狙う人が現れる。しかし、受け答えが上手くできない洋子に手こずっているうちに、私が自分のグループへ無理やり引き込んでしまうので、洋子を取られたことはまだない。だいたい、洋子だって私とならスムーズに会話ができるのだから、一人でいないで私のところへ来ればいいのだ。そうしないのは、どうせ私が他の友達と一緒にいるのを気にしているせいだろうが、別に遊びに行くわけでもないのだから遠慮なんかしなくていいのに。
「由佳って面倒見いいよね」
そんな風に言われることもあるが、私のどこを見て言っているのかエビデンスを持ってきて説明してもらいたい。洋子の面倒を見ているつもりは毛頭ない。グループ課題に引き込むのは頭が良くて役に立つからだし、話しかけるのはたまたま洋子の傍の席が空いていて、SNSのチェックをする間だけだ。一人にさせたくない、なんて高尚な意識で動いているわけではない。
高尚な奴とは、遥のような人間だろう。ゼミは同じだが関わりたくないので軽く避けている。私が洋子の傍を離れるとすかさず近づく彼女は、にこにこ笑いながら洋子に話しかけては、たどたどしい返事に戸惑っている様子でいる。困るくらいなら放っておけばいいと常々思うが、遥はめげない。
今日も、ゼミの帰りだというのに遥は洋子に駆け寄って行ったので、私もさりげなく洋子の隣に並んだ。洋子の手には文庫本だ。今にも開こうとしていた。二宮金次郎の生まれ変わりを気取っているのだろうか。遥は私を見て気まずそうな顔をしたが、めげずに洋子に話しかけた。
「松永さんって本当に本が好きだよね」
「え、あ……そうかな……」
「どんな本読むの? この前本屋大賞取ってた本読んだ?」
「読んでない……そういうの、読まないし……」
「え、じゃあどんなの読むの?」
はりきり過ぎた遥に怯んだのか、疑問符を向けられたのに洋子は答えなかった。じっと前方の地面を見つめながら数歩進み、遥が折れた。
「詮索してごめんね」
ポキッという音が聞こえそうなほどの態度だった。焦って困り笑顔になった遥が可哀想に思える。聞いてもいないのに勝手にありきたりな言い訳をして去って行く遥を見送りながら、洋子の腕を小突いた。
「読んでる本くらい教えてあげればいいじゃん。この前の死刑囚のやつとか、その前はなんだっけ? 自殺を思いとどまって自分の命を売る話? それでその前は、SF好きが異世界にいっちゃう話か」
「本屋大賞なんて読んでる人が知ってるわけない」
「でも本は本でしょ?」
「由佳さんが読んでる漫画だって本だと思う」
「漫画は漫画、本は本だって! あたし、文字ばっかりなやつ読めないし!」
洋子は手に持った文庫本を、手慰みに何度かぱらぱらとやった。一番上までボタンを留めたチェックのシャツが地味な色のせいで、本を持った手の血色が悪く見えるのが気になる。汚い印象の黄味がかったベージュを選んだのはなぜなのか。家に姿見がないのか、そもそもセンスが悪いのか。でも、この感じが洋子らしいとも言える。
「でもさ、なんであたしには読んでる本のこと教えてくれるの?」
「興味なさそうだから」
「えー、あるから聞いてるのに」
「でも、誰が書いた本か知ろうとしないし、自分で読もうともしない」
「それはだって、本なんか読みたくないし!」
「だからだよ」
洋子はいよいよ本を開いた。歩きスマホはやめましょう、とは散々言われているが、歩き読書はやめましょう、は聞いたことがない。している人を見るのも、洋子が初めてだけれど。
「今度は何読んでるの?」
「双子じゃないのにそっくりな女の子二人の青春」
「可愛い系も読むんだね」
「有名だから……」
「じゃあそれを遥に教えてあげれば良かったのに」
「六十年も前の本を読むような人には見えない」
「なにそれ古典じゃん!」
そんなに大昔の本だとは思わなかった。少女漫画を想像していたので笑いが出てしまったが、洋子はぴくりとも表情を変えずに本を読み続ける。前が見えているのかいないのか、ひと気のない構内の廊下を一定の速度で進んでいくので、私もインスタグラムを開いた。有名モデルのストーリーが更新されている。オシャレなハンバーガーショップでのツーショット。店内も可愛い。今度みんなを誘って行ってみよう。店舗の場所を調べなきゃ。
「洋子ってさ、ハンバーガー好き?」
「あんまり食べない」
「食べに行こうよ」
「友達と行きなよ」
「あたしたちも友達じゃん?」
「そうは思わない」
「わかるーそれわかるー!」
流れで一緒に帰っている今日だが、それは仲良しが揃ってゼミをサボったために私がフリーだったからで、いつもこんな風に過ごしているわけではない。今年度はまだ二回目だ。
お互いにお互いを気に入っているわけではないのに、一緒にいても苦痛ではないのが不思議だった。見ているものも興味を持つものも、大切にしているものも違う。なのに、本とスマホをそれぞれ見ながら、歩調を合わせて並んで歩いている。私だけが合わせているわけではない。いい顔はしないくせに、それなりに私を受け入れている洋子が不思議だった。
変なやつだな、と思いながらマップ上でハンバーガーショップの場所を確認していると、突然手首を引かれた。洋子にだ。よろけて肩同士が触れた。すぐ目の前には見知らぬジャージの男子がいて、「すんません」と言うなりすれ違って行く。すぐ横の廊下の角を曲がってきたらしい。
「ありがと、助かった」
「びっくりしたね」
洋子の手は私の手首を掴んだままだった。一本だけ伸ばされたままになっている人差し指が面白い。指先の爪は、見たこともないほど短く切り込まれていて、触ったら痛みそうなほどだ。意外と温かい手をしているんだな、と嬉しくなったとき、逃げるように手が離れていった。
「ごめん」
「え、なんで?」
「勝手に触って……」
目も合わせずに返事をするところは気にしないのに、触るのは気にしてくれるのか。変な価値観を持っているんだなあ。別にいい、と返して、私たちは歩みを再開した。洋子の顔は、文庫本に向けて少し俯いているせいで、髪で隠れて見えない。申し訳なさで気まずそうにしてそうで、少し可哀想に思える。本当に別にいいのに。悪い気はしていないし。嫌いってわけでもないんだから。
でも、無理にあれこれ言うと萎縮させてしまいそうなので、いっそ何も言わないことにして、ハンバーガーショップの所在確認作業に戻った。地図を見るのは苦手で、さっきから近辺の目印をいくつか見ているのに明確な場所がわからない。これは誰かに任せて連れて行ってもらうのがいいだろう。一回行って場所がわかったら、洋子を連れて行ってみたいと思った。大学の中の洋子だけでなく、外の世界を背景にした洋子も見てみたくなったのだ。どうせ目も合わせずにハンバーガーをかじるのだろうが、いつものことなので気にならないだろう。洋子だって、強く誘えば嫌とは言わないはずだ。だって、嫌われてはいないのだから。