「……」
「……」
「いや、何か言ってくださいよ」
若い夫婦の間に沈黙が満ちる。先に痺れを切らしたのは夫の方だった。傍から見れば真顔にしか見えない表情のまま、妻は夫の顔と己の手元とを交互に見やる。
やがてベレスは深々と溜息をついた。
「学生時代も記名したやつを落としてくれていたらよかったのに……」
「あーありましたねそんなことも……」
シルヴァンは回想する。覚えてたの、君はてっきり忘れてるもんだと、と言わんばかりにベレスが睨みつけてくるのを苦笑いでごまかしながら。
「でもまあ、あれはあれでよかったんですよ。あの頃の俺にとってはね」
「後腐れがなくて?」
「ああまあそうなんですけど!」
全ては自分が蒔いた種である。わかっていてもいやわかっているからこそ、抹消したい過去というものをほじくり返されると腹のひとつでも切りたくなる。大げさと言われようが、それはシルヴァンにとって素直な気持ちだった。
一方、有能だとか弁舌が立つと評判の辺境伯が百面相をしているのをベレスは黙って見つめていた。考えようによっては自分より年上ともいえる、出会った時にはもう既に余裕ぶった振る舞いを身に染みつけていた教え子である。自分の言動によってわかりやすく翻弄されているのを眺めているのは楽しいし、嬉しい。ベレスはそんな後ろ暗い喜びを知ってしまっていた。それはそれとしてあまりいじめすぎるのもよくない、ということも。
「とりあえずね、私は君が思うほど純粋でも無垢でも無知でもないから、男が女に口紅を贈る意味くらいは知ってるよ」
ベレスは改めて自らの手元を見下ろした。たった今手渡されたばかりの、何の記念かはさっぱりわからない贈り物。箱を開けて現れたのは一目で由緒正しい店のものとわかる口紅、しかもそこには人の名前が彫り込まれている。目の前の大男のイニシャルが。
おそらくタイミングはさほど重要ではないのだろうとベレスは思った。動機だってあげたかったからとしか言いようがないのではないか。先日小さな男の子に「大司教さま、あげるー!」と野の花を差し出されたことをベレスは連想した。
「そうとっていいんでしょう」
「ッはい、はいもちろんです!」
それでも確かめてほしそうな顔をしていたので、ベレスは改めて尋ねた。案の定食い気味に返事があった。何事も段取りを踏みたがるというか言葉にして許可をとりたがるというか、シルヴァンのそういうところを案外ベレスは好いている。
シルヴァンがこちらに手を伸ばしてきたので、ベレスは大人しくその腕に抱かれた。せっかくの綺麗な箱が潰れてしまうよ、なんて言ったところで聞こえてはいないだろう。ベレスが彼からの贈り物はひとつ残らず包装まで含めて大切にとっておいていることを、シルヴァンは知らない。
「あんたの唇を汚すのは俺だけがいい。ついでに言うなら、紅を塗るたびに俺を思い出してくれないかな、なんて……」
耳になじむ、艶のある声が尻すぼみになって消えていく。叱られた子犬のように俯いたその顔は、見上げるベレスからは丸見えだ。
かわいいなあ、というあまりにも率直な感想をベレスは別の言葉で言い換えた。
「……重いなあ」
「今更気づいたんですか」
「まさか」
尖らせた口があまりにも愛らしいので、つまんでくちばしにしてやろうかとベレスは思った。魔が差したのは一瞬だけだったのですぐにその手の行き先を変えて、手のひらを彼の頬に擦り付ける。
彼の炎のように鮮やかな色をした髪は、人の体温以上には熱くない。それを知っていてベレスは、暇を見つけては彼の髪を撫でたがった。指を差し込んで櫛の代わりにしてやると、シルヴァンは心地よさそうに目を伏せる。
「望むところだよ。私の旦那様は君しかいないんだから」
瞳を輝かせた彼を見ながら、ベレスの口元も満足げに笑んだ。
彼の睫毛が案外長いことに誰も気づきませんようにと、ベレスはいつも祈っている。ただでさえ人目を引く男なのだ。些細な魅力も拾うほど、誰かが彼を見つめませんように。罪のない誰かの心を奪うことがありませんように。だってこの男は、とっくにベレスのものなのだから。
――――ようするにお互い様なのであった。お後がよろしいようで。