※一部時空、ベレスさんが先生じゃなくて生徒として士官学校に招かれていたら? 的なパロです。
 それ以外は原作通りに進みます。ネタバレあり。
 先生が死んだ。冷たい雨の降りしきる中、生徒であり愛娘である彼女の腕の中で死んだ。
 動揺していない生徒の方が少ない現状、そのうちでも飛び抜けてそうなのが彼女だった。
 寡黙で無表情でべらぼうに強く、最初の頃は誰とも打ち解けられなかったくせに気づいたら人の輪の中心にいる。一日に何度も食堂に顔を出し、鍛錬場で誰かと手合わせしていることも多い。そんなベレスが自室に引きこもってろくに食事もとっていない――――となると、修道院に満ちる雰囲気がジェラルト先生に対する哀悼から彼女への心配へと移っていくのも時間の問題だった。その方がいいのかもしれないと薄情な俺は思う。肉親が死んだとき気遣ったり悼んでもらえるのはもちろんありがたいけど、そればかり言われては潰れてしまう。だから放っておいてやってくれよ、と俺は自分と彼女の違いを棚に上げて祈った。俺たち兄弟と違って、あの父娘(おやこ)はどう見たって仲がよかったから。
「――――ベレス、」
 だと言うのに、俺はどうしてここにいるのだろう。
 不気味なくらい静かな寮の廊下。彼女の部屋の扉の奥には人の気配がする。呼びかけても、ノックしても返事はない。
 何を言えばいいのだろう。彼女の名前を呼んだきり、何も言えやしなかった。みんな心配してるとか、無理に出てこなくていいとか、頼むから飯だけは食ってくれとか。そういうことは言われ飽きていただろうし、そうでなかったとしても、その台詞は俺じゃない誰かが言うべきものだった。例えば騎士道が服を着て歩いているような我らが級長(殿下)とか、優しくて穏やかな女友達(メルセデス)とか。じゃあ今俺はなぜここにいるのだろうと、ドアに手を当てたまま途方に暮れた。
「…………俺たちみんな、待ってるから」
 結局絞り出せたのは道化にはふさわしくない陳腐な言葉だけで。大げさに息を吸って吐いて足を後ろへ引いた、途端だった。
「俺たちって、だれ」
 ここしばらく聞けなかった声がした。キィ、と小さく音がしてドアが開き、青緑色の頭が覗いた。
「あなたは(・・・・)、待っていてくれる?」
 彼女はこんなに小さかっただろうか、とまっすぐ見上げてくる瞳を見ながら思った。いやむしろ今まで錯覚していただけなのか。
 返事をすべく口を開いた、喉が渇いて何も出てこない。難しい顔をしたまま押し黙る俺を見て、ベレスは「入って」と言わんばかりに手招きをした。
「だめだろ、こんな時間に男を部屋に上げたら」
「大丈夫、叱る人はもういないから」
「…………」
 笑えない冗談を言ったくせに、表情を崩したのは彼女の方だった。誰が見てもへたくそで、痛々しい笑顔だった。
 ◆
 泥や埃にまみれても彼女は美しかったけれど、内側から弱るとこんなにも変わるのかと妙なところで感心してしまった。醜くなったとは思わない。だけど痛々しい。繰り返しになってしまうが。
 お茶とかお菓子とか出せそうにないんだ、ごめんね。そう言われて首を横に振る。むしろ俺の方が持ち込むべきだった。女好きにあるまじき失態である。
「心配してくれたんだ、嬉しい」
 そう言って彼女は微笑んだ。本当に少しだけ、だけど演技も嘘もない笑みだった。それこそ、出会った頃の俺ならわからなかった程度の。彼女がわかりやすくなったのか、それとも俺が目敏くなったのか。……今はあんまり、考えたくなかった。
 日が落ちて、そろそろ本格的に夜になる少し手前の時間帯。招き入れられた部屋に明かりはなく、彼女は慌ててろうそくに火をともした。「座ってて」と机と対になった椅子を指し示し、自分は寝台に腰を下ろす。仕方ないので指示された席につく。
「会いに来てくれるとは思ってなかった」
 重たい空気の中、彼女はぽつりとひとりごとをこぼした。あるいは俺がひとりごとにしてしまったのか。どうも今日は舌の調子が悪くて、降り始めの雨みたいな呟きにきちんと相槌をうってやれなかった。
 元々彼女との距離感を測りかねていた。ふたりそろって崖から転落したあの日、俺は気の迷いで彼女に口づけを教えてしまった(・・・・・・・)。たったそれだけ、本当にそれだけの関係で、でももうただの同級生とは思えなかった。俺か彼女のどちらかが言いふらさない限り、広まりようのない秘密だった。おかげで俺はジェラルト先生に殺されなくてすんだのだが、いっそ一発や二発殴られておいた方がよかったのかもしれない。なんて、不謹慎なことさえ思う。
 これがたぶん彼女じゃない誰か相手なら、傷心につけこんでなんとかかんとかやっていた、……いや、できていたのかもしれない。でももはや色情魔の放蕩息子を演じる意義さえ失いかけていた。相手を傷つけてまで「いつも通り」を繰り返すことに何の意味があるのだろう、そう気づいてしまった以上俺が他人に対してとれる態度はもうひとつしかない。そのためにこの部屋の前に立ったけど、それもどうやら上手くいかなかったようだ。
 女好きも兄貴分も気取れなかった。道化師の衣装を足元に引っ掛けたまま、素顔の俺が今ここにいる。
 その俺が彼女に「元気になってほしい」と叫ぶのだ、そうなるとこれは本音なのだろう。たぶん、きっと、おそらく。
「シルヴァンは強いね」
 ――――自分の耳が拾い上げた言葉が信じられなくて、ものすごい形相になっていたらしい。「だって」と二の句を継ぐ彼女は苦笑いをする。
「わかってるんだ、早く外に出なくちゃって。でも、…………上手く言えないんだけど、疲れちゃって」
 ああ、わかるよ。適当に相槌をうつだけしかできなかったけど、彼女の顔色はみるみるうちに変わっていった。紙の色から生きている人間の肌の色へ。
「ジェラルトのことを知る人が私を見て色々言ってくるでしょ、残念でしたねとかお悔やみ申し上げますとか……だんだんそれが言い聞かされているように思えてきて。もう死んだんだ、助けられなかったんだから諦めろ、前を向けって」
 緑色の髪が薄明りの中で頼りなく揺れた。そもそもきちんと手入れしてはいなかったのだろうけど、明らかに艶が失われたし、毛先も揃っていないように見える。
「シルヴァンだってそうだったでしょう、でも君はすぐに立ち直った。だから、君は強いなって」
 思って。気に障ったならごめん。
 ベレスはそう言って口をつぐんだ。またしばらく沈黙が続く。
「あのさ、」
「なぁに」
「今からすることが嫌だったら、俺のことぶん殴ってでも止めて」
「えっ」
「いいから止めて。親父さんが怒るだろうなって思ったら、嫌じゃなくても止めて」
 彼女は首をどちらに振ったのか。確認する余裕もなく俺は立ち上がった。そろそろと歩を進め、大げさに腕を振りかぶり、彼女を抱きしめた。
 ベレスは尻尾を踏まれた猫のように飛び上がり、――――やがて、静かに俺の胸に頭を預けた。
「殴んなくていいの」
 ぐりぐりと肩口に額が押しつけられる。
 あーあ。ごめんなさい先生、やましい気持ちはないけど夢の中でだったら甘んじて殴られます。心の中で手を合わせた。それで勘弁してほしい。
「言っとくけどさ、俺と兄上にはそんな仲よくなかったよ。君と先生に比べたら全然」
「そんな」
「そんなことある。はい俺の話終わりな」
「…………」
 不服そうな唸り声をわざと聞き逃す。無理矢理話題を切り返した。
「悲しいなら悲しいでいいんだって。俺がどうとか他人がどうとかじゃなくてさ」
 彼女の目の青緑色が瞬く。闇の中に宝石がふたつ、ぼんやりと浮かんでいるみたいだった。
「よくわからない……」
「だったらそれでもいい。俺が言いたいのは、君の気持ちは君だけのものだってこと」
「…………?」
 どうしたら伝わるのだろう。いつも、自分の気持ちをごまかしたり隠したりするためにしか言葉を使ってこなかったから、こういうときどうしたらいいのかそれこそわからない。
 確かなのは今俺の腕の中にいるこの子が、親父さんに大事に大事に育てられたんだろうなってこと。しかも、安全なところで飼い殺しにしておくんじゃない方法で。それがよかったのか悪かったのか、俺みたいな悪い男に大人しく抱えられてるんだけど。
「辛いとか悲しいとか痛いとか、そういうのは人と比べるもんじゃないよ。君がどう思うかってのと、それにどう対処するかってだけ」
 いつかの自分が誰かに言ってほしかったことを代わりに口にしている自覚はあった。気障なことをしているなあとも思った。それでも、いつか思い出して胸がむかむかしたとしても、こうしてやるべきだと思ったんだ。
 泣いてる女の子が放っておけないなんて単純な話じゃなかった。むしろそうならよかったのに。
 いたい、と彼女が小さく呟いた。思わず腕が少し緩んだ。
「…………君と崖から落ちたとき、最初はすごく痛かったよ。傷薬を飲んですぐに引いたけど、君がいつまでも目を覚まさないからまた痛くなって」
 ここが。ベレスは少しだけ背中を倒し、自身の豊満な胸に手を当てた。
 思わずのけぞった俺を尻目に、本人はいとけなく首を傾けた。
「怪我は直したし病気もしていない。それでも、ここが痛むことはある?」
「あるよ。心は心臓と同じ位置にあるって言うだろ」
「……間違った判断はしていないと、確信していても?」
「そうだよ」
 ベレスは押し黙った。
 正しいことをしていると思いながら、心がそれについていかないことはごまんとある。脳裏に誰かの影がよぎったから、こっそり手を伸ばして握り潰した。俺のことはもういいんだ、この人と親父さんみたいな綺麗な気持ちじゃないんだから。
「いつまでも下向いてはいられないかもしれないけどさ、悲しいなら悲しいままでいいんじゃないか」
「…………」
「本音と建前って言うだろ。まあ、あんまり使い分けすぎると俺みたいになっちゃうかもしれないけどさ」
「君はずいぶん、世渡りが上手そうに見えるけど」
「どうだか」
 頭と心が肉離れを起こしてずいぶんと経つ。とっくの昔に治すことを諦めてしまったけど、今更になって患部がじくじくと疼いたようにも思えた。どこが痛いかさえわからないくせに。何にせよ気のせいだし、今は俺のことはどうでもいい。
 傭兵稼業だってようするに集団行動であって、その点においては彼女はどこまでも冷静で的確な行動をとれているように見える。でも雇い主とか他の傭兵団相手の交渉ごとについては先生が全部やっていたらしい。だろうな、と思う。人の機微に疎いというよりも、どう表に出したらいいのかわからないと言い表す方が近そうだ。彼女自身を改善していくつもりだったのか、あるいは補ってくれる人間を見つけるつもりだったのか…………先生がどう考えていたかはもうわからない。墓石に問いかけても返事は期待できないだろうから。
「立ち直ったふりだけするってのも、ありだと思う」
 ある意味無垢で、幼くて、純粋な彼女にこんなことを吹き込むのは罪になりうるだろうか。そう尋ねるべき相手が、女神様なのかこの子の親父さんなのかもはっきりしない。そもそもどうしてこんなに彼女に躍起になっているのか、言い方を変えればどうしてこんなに彼女に執着しているのか。我ながらわけがわからなかった。
 それでも彼女に会いたかったし、部屋から出てきてほしかったし、彼女の立ち直るきっかけになれたならそれはとても誇らしいことだろうと思えた。ああ認めよう、結局は俺の自己満足で独りよがりだ。でもなぜか、不思議なくらい、それが悪いことだとは思えなかったんだ。
「――――シルヴァンは、」
「うん?」
「………………なんでもない」
 おにいさん、と彼女の唇が動きかけた。食い気味にうった相槌は意図した役目を果たしてくれたようで、ベレスは気圧されたように口を閉じた。
 比較されるのはみじめだった。今日の、というか今の俺は慰める役柄だけを演じたかった。断り文句を知らないベレスは大人しく押しつけられた台詞を読み上げた。
「悲しいなら悲しいままでもいい?」
「俺はそう思うよ」
「立ち直れってみんなが言うのに?」
「立ち直りましたもう平気ですーって顔をしとけばいいさ、どうせ誰も他人の内心なんて見えやしないんだから。引きずってるうちにそのうち小さくなって消えるかもしれない」
「…………」
「それでどうしても苦しいなら、吐き出す場所のひとつやふたつあっていい。というか作ればいいし」
「シルヴァンは」
 また聞き返す。
 今度は喉に言葉が突っかかっているのか、ベレスは唇を一度、二度と開いて閉じた。餌をねだる小鳥にも見えるが、親の鳥はもういない。
「シルヴァンは、……その、わたしの、そういう場所になってくれる気は、ある」
「君みたいな美人に望まれるなら、喜んで」
「……、なに、それ」
 溜息、どちらかといえば深呼吸のような吐息交じりの言葉だった。
 ろうそくの薄明りの中、彼女の白い喉が震えたのがわかった。みるみるうちに彼女の目のふちに、真珠のような涙が盛り上がっていく。
「――――ジェラルト、」
 ジェラルト。ジェラルト、ジェラルト。父親の名前を呼びながら彼女は火がついたように泣き出した。
 こちらの胸まで苦しくなるような慟哭。それはある意味、この子の産声だったのかもしれない。
 灰色の悪魔を手にかけた。ひととしての彼女に恨まれることがあるならば、甘んじて喉を差し出そう。
「シャツ、ごめん」
「いいって、このくらい」
 泣いて泣いてしばらくののち、ベレスはやっと泣き止んだ。
 びしょびしょのぐしょぐしょになった胸元はひどい有様だったけど、見下ろすとなぜか誇らしいような気がした。それより妙な噂が立たないといいが、と半ば現実逃避のように思う。
 ちゃんと目は冷やしておけよ。そう言うと、真っ赤な目をしたベレスは首を縦に振る。
「シルヴァン」
「ん?」
「また明日」
「……おう、また明日」
 ふにゃりと微笑んだ顔が扉の向こうへ消えていく。ぱたん、と閉まったのを目視してから、俺はずるずると座りこんだ。
 後ろめたくなったのは誰に対してか。とにかく、芽吹いた気持ちには蓋をしておこうと思った。少なくとも、俺が俺をごまかせるうちは。
カット
Latest / 203:26
カットモードOFF
文字サイズ
向き
チャットコメント通知