この世が地獄だということは重々承知していたし、呪術師なんてやっていたらそれこそ毎日のように地獄のような光景を見ることになることは理解していたし、実際そのような現場に遭遇することも多かった。幼い頃から呪霊が見えたせいですっかりグロテスクやホラーを売りにする映画やゲームを見ても驚かなくなってしまったし、教室の中心で声高々にグロテスク動画を見てそのことをまるで自分のステータスのように嬉々として内容を語る同級生の盲信者のような目も好きにはなれなかった。むしろ冷めた目をしてくだらないと一蹴しているような人間だった。だから、当然のことかもしれないが、グロテスクやホラーだとか、そういった現象には人よりもよっぽど耐性があったし、それに遭遇しても対処できるだけの胆力はあるつもりだった。というか、今までは実際冷静に対処できていた。
だが、今までそう分析した自分はとんだ偶像で、一枚皮を剥けば俺もそこらへんの中学生と変わらない普通の子供だったということを、まざまざと突きつけられていた。
呼吸が覚束ない。過呼吸、とまではいかないだろうが、今まで何の思考もなくできていた息を吸って吐くという行為のやり方が思い出せなくなる。いつ酸素を吸って二酸化炭素を吐いているのかがひどく不明瞭で、そのくせ自分の荒い呼吸音ばかりが耳につく。鼓膜を揺らしたり耳管の側面を削っていくその音は吐き気を催すほど不快で、でもその音だけがせり上がってくる胃液の原因でないことは明白だった。初めて五条さんの任務に連れて行かれた時だって震えなかった指先が細かく痙攣し、その振動に耐えられなかったのか、俺の掌から咄嗟にわし掴んだガラス片がアスファルトの上に落下した。死に物狂いで手に取ったせいで俺の皮膚はずたずたに引き裂かれており、路地裏に転がっていたガラス瓶の破片だけではなく俺の血も滴っていく。湿った音をさせて水溜まりを作る要因は俺の血だけではない。俺よりもよっぽど多く、滴るだなんて表現が生ぬるく感じるほどに真っ赤な鮮血を噴水のように吹き上げ続けるそれを見てぐらりと視界が揺れる。思わず薄汚れたビルの壁に寄りかかると、そんな俺に虚を突かれるように瞬く音が聞こえた。冷や汗を掻いて目を見開く俺の斜め前でへたり込んでいた真っ白で真っ黒な大人が、驚いたように声を上げる。
「恵、そんな顔もできたんだね」
けっこう長い付き合いだったけど初めて見たな。そんな、一番星を見つけた子供のような声音を吐いて、五条さんはへたり込んだままにこりと笑った。その笑顔を視界に入れて、とうとう耐えきれずにその場に盛大に嘔吐する。げーげーと胃の内容物を吐き出す俺を見て、五条さんがまた瞬く。ネオンばかりが夜の町できらめく路地裏の中、物言わぬ死体となった見知らぬ男の濁った目と、その男に突き飛ばされたせいで転がり落ちた五条さんの砕けたサングラスだけが俺達を見詰めていた。どこか遠くでパトカーのサイレンの音が聞こえた。
五条さんはあっけらかんと殺しちゃったからには処理をしようと言った。
「後片付けって大事じゃん」
躾の基本だよねなんて嘯きながら、五条さんは突き飛ばされたままへたり込んでいた身体を中途半端に起こし、四つん這いで路地裏を物色し始めた。俺はビルの壁に寄りかかりながら、猫のように揺れる五条さんの白髪を眺めた。言いたいことはたくさんあった。この男誰なんですかとか、なんで殺されそうになっても無限張らなかったんですかとか、いやマジでこの男誰だよとか。でもそのどれもが口から出す言語として形成される前にどろりと溶けていって、結局舌の根に乗ったのは酸味と苦味が入り交じった吐瀉物の嫌悪だけだ。五条さんは散々吐いた後ぼんやりとしたままの俺を特に気遣うことなく、野良猫くらいしか寄りつかなそうな薄汚い路地裏に膝と掌をついて這い回っている。
「つーか、なんで恵こんなとこいんの? ここ繁華街、有り体に言ってホテル街だよ」
未成年がこの時間にうろつく場所じゃないでしょと五条さんが四つん這いのままぐるりと振り向く。サングラスが吹っ飛んで砕けたせいで五条さんの碧眼は剥き出しだ。ほぼほぼ真っ暗闇に近い路地裏で、五条さんの目ばかりが発光して輝いている。体勢も相まって本当に猫のようだ。一度吐いたせいでいくらか落ち着いてきたのか、ようやく息の仕方を思い出した俺は大きく溜息を吐いて口元を拭った。形容しがたい色で汚れた手から目を逸らし、白髪を揺らしながら物色を再開した五条さんに声を投げる。
「こいつ、誰ですか」
自分が殺した男を顎でしゃくりながら聞けば、五条さんは軟体動物のような声を出して首を傾げた。そしてしばらく考える風な体裁を保った後、あっけらかんとこう返される。
「知らない」
「…………」
ああそうかよ、あんたは呪詛師でもない見知らぬ非術師に殺されそうになる現場に遭遇するような人間なのかよ。だろうな。五条さんだし。舌を打ち、数分前に己で殺した男の裂けた胸を見やる。まだ血を噴き出し続けるそれは、しかし勢いを失って噴水ではなく壊れた蛇口のようになっていた。
「恵の質問には答えたよ。今度は僕の番」
なんでこんなとこにいるの、恵。
飽くまで明るく、軽く。そのくせどこまでも絶対零度の声音で、五条さんが空々しく俺に尋ねる。反射で泳いだ視線に、五条さんは気づいているのだろうか。気づいているんだろうな。五条さんだし。
「……あんたこそ、なんでここにいたんですか」
「質問を質問で返さないでよ」
視線を顔ごと逸らして苦し紛れに吐いた科白に、五条さんがぐるんと振り向く。その顔には相変わらず嫌悪も不機嫌さも滲んでおらず、ただただ空々しい表情ばかりが載っている。無表情とも言えない、まっさらな顔だ。五条さんはしばらく俺を見詰めた後、「まあいいけど」と呟いてようやく四つん這いの姿勢をやめた。二本の足で立ち上がり、長い手足を悠々と伸ばして骨を鳴らす。
「恵も年頃だしね。ただこういうとこはやめな。未成年のうちはだめ」
もっと大人になってから来な、と、五条さんは大人ぶったことを言う。実際大人であることは事実なのだけれど、普段ちゃらんぽらんで雑な五条さんが時折見せるこういった面が、俺は苦手だった。それはお前が言うなよとか自分の態度を顧みてから言えよとかいう反抗心だとかではなく、単純に五条さんが口にするそういった倫理めいたことが人工物のように味気がないからだった。信号の色が変わるように吐き出される五条さんの倫理が、俺は苦手で、そして少し、怖かった。
伸びをする五条さんの手には俺が咄嗟に掴んだガラス瓶よりももっと鋭利で大きくて、そしてあからさまに人を傷つけるような形をした、刃の欠けた包丁が握られていた。路地裏に差し込むネオンの七色を反射してぎらつくそれを眺めていると、五条さんが白髪を揺らして俺に振り向く。
「なにぼーっとしてんの。後片付けするよ」
五条さんはそう言ってすたすたと俺に近づいてきた。思わず後ずさるも、すぐに手を掴まれ引き寄せられる。五条さんの白い睫毛を一本一本数えられそうな距離感に喉が仰け反る。それを許さないように、五条さんが俺の手首に爪を立てた。骨が軋む音がする。
「恵、冷静ぶるなら最後までやんな。見栄張んなら最後まで張んな。見ててあげるから」
近すぎてぼやける五条さんの碧眼が、じいいっと俺を見据える。目を見開き冷や汗を垂らす俺の掌を、五条さんの冷たい指先が音もなくなぞった。俺の傷口の輪郭を確かめるように滑る爪に、無意識に生唾を飲み込んでいた。吐瀉物の最悪な味覚に脳も胃も犯される中、五条さんの目だけが猫のようにぎらついている。いつの間にか握らされた包丁の柄は、木材でできているはずなのに、ひんやりと冷たかった。