一歩。その一歩で生死やその後の人生ががらりと変わることはよくある。月の光しか光源のない中で、父が声を荒げて止めるのにも構わずこんなところにいられるかと混乱した末にその場を駆け出した一人が崖の下に落下していくのを見たことだってあるし、たった一歩の違いで俺ではなく別に人間の頭が吹っ飛ぶことなんてざらだ。ジェラルトとはぐれた中でちゃんと立ち回って帰ってきた俺を、父は心底安堵したように抱き締めて本当によかったと俺の頭を撫でた。お前のそれは、確かに実力というのもあるのだろうけれど、お前は悪運が強いんだな。さすが俺の子だとジェラルトは快活に笑った。悪運が強い。あまり意識したことはなかったが、確かにそうなのであろう。今なら分かる。だって俺はこうして崖から落ちても五年間眠れば砕けたであろう身体が再生して、こうして戦乱の世に舞い戻ることができた。皆は口々によかったよかったと涙を目に滲ませ、そうして俺と同じように五年間姿をくらませ突如として自分たちの前に現れた隻眼の王子に困惑と心配の色を載せた視線を向けていた。ディミトリは自分をそんな風に見やる旧知の者になんて目もくれず、ふらふらと俺達を置いてエーデルガルトの首を求める日々を送っていた。皆は口々にディミトリは変わってしまっただの、お前もようやくあの男の本質が分かっただろうと言った。確かに見目で言えばディミトリは変わったのだろう。五年前よりも背が伸びたし髪も長くなった。何より右目がない。体格だって俺よりずっと大きくなった。でも、中身はどうなのだろうか。五年前のディミトリのことを考える。いかにも優等生で、王子様然とした清廉潔白な笑顔の下を、俺は果たして見たことがあっただろうか。あの薄い胸に宿った怨嗟の炎に気が付いていなかった、と言うのは少々無理が過ぎると思った。ディミトリの目に差す影に気が付いていなかったわけがない。それでも、俺はその影を覗き込もうとしなかった。何故かと問われると答えに窮する。ディミトリがそれを見られたくなかったから、とでも言うつもりだろうか。
確かにディミトリは、自ら進んでその影を見せようとはしなかった。でも、俺が見せて欲しいと言えば、きっと見せてもらえたのだ。俺はそれをしなかった。見て見ぬふりをして、それどころか五年間一人きりにさせた。それはどう言い訳しようもない、ただの逃げだと俺は思った。
今日も今日とてディミトリは大聖堂の瓦礫の前で立ち尽くしている。大修道院を拠点としてからのディミトリが他の場所に居座っているところを、俺は見たことがなかった。倒れることは今のところないから、恐らくどこかしらで睡眠を取ったり食事をしたりしているのだろうが、しかしそれを目撃したことのある人間は今のところ見つかっていない。まるで幽霊みたいだなとぼんやり思った。ああ、でも、ディミトリにとっては、俺こそが亡霊なのか。五年前に崖の下に落ちてただの肉塊となったはずの男が、昔と変わらぬ有様で現れるのだから、それはなかなかのホラーだと思った。
ある夜のことだった。真っ暗な部屋でぼんやりと天上を見ている時、ふと、ディミトリのところに行こうと思った。何故そう思ったのかは分からない。ただ、そういえば真夜中にディミトリの元に行ったことがなかったな、とふと思ったから。理由としてはそれだけなのだろう。俺はラフな寝間着を素早く脱いでいつもの外套を羽織った。少し逡巡してから、天帝の剣は持たずに外に出る。冷たい空気が頬を打ち、先程までの薄ぼんやりとした意識を覚醒させる。見上げると、そこには白い月と星が瞬いていた。その空を見て、ああ、そういえばこうやって夜空を見上げたことが昔もあったと思い出す。確か、ジェラルトとはぐれて、野営を余儀なくさせて、今いる場所もよく分からなかったから、星を頼りに方角を知ろうとして。大聖堂へ向かいながら、方角、と口の中で呟く。方角というのはかなり重要なものだ。それが分からなければ、いったい自分がどうやってその目的に行けばいいのか分からなくなってしまう。そうして、その方角が知れていたとしても、たった一歩で人の命というのは儚く散っていってしまうのだ。人の命も虫の命も大して変わらない。命というのは全て、とても簡単に砕け散ってしまうものなのだ。ディミトリの頭が弾け飛ぶのを少しだけ想像して、すぐに眉を顰める。それは、やはり嫌だ。ディミトリが死ぬのは嫌だ。足を少しだけ速める。
俺が戻ってきてすぐの時、誰かに言われた。どうして先生は王国に味方してくれるのかと。先生は王国出身じゃないでしょう、確かに自分たちの教師でこそあったが、しかしその縁だって一年にも満たなかった、なのにどうして、こんな死の行軍にしか見えない自分たちに味方してくれるのか、と。俺はそれに、うまく答えられなかった。確かにその子達の言う通りだった。端から見たら、俺はとても莫迦に見えるのだろう。だって、傭兵ならばまだしも、俺はただの一個人としてこうして王国についている。レアに、確かに生徒達を頼むとは言われた。でも、言われただけで、報酬などもらっていない。ただの口約束。だというのに俺は、こうして王国に、教会についている。金にならない仕事はよっぽどのことがない限り引き受けるべきじゃないと父は言った。一度無償で引き受けたら、そのままずるずるとただで救えと言ってくる人間がいるからと。その通りだ。そうして、俺の中で父の言うことは絶対であったはずなのに。俺は変わったのだろうか。ああ、でも、誰かが、先生は変わったな、と、言ってくれたっけ。あれを言ったのは、いったい。
かつん、とブーツの底が石畳を打つ。天上が抜けたせいで月の光が差し込み、大聖堂をぼんやりと照らしていた。その中にぽつりと、死体みたいにディミトリが立ち竦んでいる。この時間になっても横になっていないとは、いったい本当にいつ眠っているのか。俺が近づいているのにもディミトリは気が付いているはずなのに、ディミトリは一切俺の方に意識を寄越さない。振り向くこともないまま、ぶつぶつと俺には見えない誰かに話書けている。
ディミトリ、と、声をかけようとした時だ。
視界の端で、何かが蠢いた。俺が視線をやるより先に、ディミトリがその小さな影に飛びかかる。それは猫が獲物を見つけて駆けるのを彷彿とさせて、それは全く間違った比喩ではなかった。だって、ディミトリが飛びかかったのは、掌に収まるほどの小さな鼠だったんだから。この大修道院は最近まで放置されていた。だから、虫だって鼠だってたくさん出る。それが今夜、こうして俺達の前に現れた、ただそれだけ。
ディミトリは掌に収まったそれをしばらく眺めていた。ディミトリの怪力で握られたからか、鼠はもうすでに血まみれだった。骨が砕けたのか、濁った悲鳴を上げながら鼠は藻掻いている。俺はただそれをぼんやりと眺めていた。ディミトリの真っ黒な掌から一滴、血が涙のように滴る。
「やめておけ」
ディミトリが口を開けてその鼠を食べようとしたところでようやく、俺は声を上げた。ディミトリの手が止まり、ようやくその顔が俺に向けられる。その隻眼は、どこか嘲るような、それでいて悪戯を思いついた子供のように歪んでいた。
「どうした、大切な食料だろう。もしやお優しい女神様は、鼠も生きているのだから可哀想だとでも言う気か?」
「そうじゃない」
首を振ると、ディミトリは目だけではなく口元にまで愉悦を滲ませ、頬を裂くように笑った。
「一国の王子であった男が、五年前に可愛がっていた生徒が野鼠をこうして躊躇いもなく口にしようとしていることに幻滅したか? だとしたら愚かなことだ、俺はあの五年間で鼠だって、虫だって、なんだって食べた。復讐をやり遂げるまで死なぬために、なんだって」
「別にそれは悪いことじゃない。食べるものがないなら普段口にしないようなものだって食してでも生きるべきだ。鼠だって虫だって雑草だって、飢餓を満たす重要な食料だ」
でもそれは本当に食べるものがなくて、やむにやまれぬ事情で食べる時のみの話だ。確かにまだ物資は少ないが、野鼠を食べなければいけないほどのものではない。だから、今ここで鼠を食べる必要はどこにもないのだ。
腹が減っているなら何か作ろう、と俺が言うと、ディミトリは俺を心底侮蔑したように鼻を鳴らした。
「俺のような獣に、人間の食事をとれと?」
「ディミトリ」
俺の言葉を、ディミトリは聞いていないようだった。掌の上でのたうつ鼠を、そのまま口に運ぼうとする。少し逡巡してから、辺りを見渡す。暗がりで光る、黄色い目。それを複数見つけて、腰に差したままだった短剣を素早く引き抜きその一つに向けて投擲する。ぎゃあ、という悲鳴が聞こえたあと、かさかさと何かが逃げていく音がする。それに構うことなく、俺は短剣を投げた場所へと歩み寄った。突然短剣を抜いて投げたことに驚いたのか、ディミトリは口に放ろうとしていた鼠を中途半端な位置で止めたまま、何かを検分するように俺を見詰めている。その視線を背に受けながら、床に刺さった短剣を静かに抜き取った。
その剣先には、一匹の鼠が貫かれていた。すでに絶命しているだろうに、まだ身体は生きているつもりなのかぴくぴくと痙攣している。掌の上に鼠を落とし、短剣についた血を素早く外套で拭い去る。ディミトリに振り向くと、ディミトリはやはり何かを見定めるように俺を凝視していた。
その隻眼を見詰め返してから、俺はおもむろに掌にあった鼠を口へ放った。毛皮だってむしってないし、消毒だってしてないから不衛生な上に噛み砕きにくい。奥歯で頭蓋骨を砕くと、脳みそが飛び出して頬の粘膜にぶちまけられた。そのまま、歯で中身を押し出すように鼠を食して、ほとんど中身が空っぽになったそれをべっと床に吐き出す。ぺちゃんこになった鼠は、至る所が破けて穴の空いた風船のようでもあった。口の中にこびりついたままの鼠の毛をそのままに、ディミトリを見上げる。ディミトリは、唇から鼠の体液を滴らせる俺を、ただじっと見詰めていた。
「鼠は小さいから食べるところが少ないし、そのまま食すとなると毛皮が邪魔でうまくもない上に不衛生だ。でも、それでもお前が自分を獣と称し、それを食べることを望むなら、どうかそれを俺に調理させてくれないか」
感染症にかかって死ぬことは、お前だって本望じゃないだろう。そう見据えると、ディミトリは無表情でお前だって食べただろうと言った。ああそうだな、食べたな。やはりそのままで食べるものではない。ちゃんと血抜きをして、皮ごと食べるならナイフでよく刻んで肉団子にした方がよほどうまい。
ディミトリは俺の言葉に眉を顰めたあと、無言で己の掌の上でのたうっていた鼠を口に放り、そのまま砕いた。俺はそれを、黙って見詰める。ばりばりと骨を砕く音を聞きながら、口の中に収まったままだった毛を床に吐き出す。ぺちゃんこになった鼠に落下したそれを踏み潰しながら、俺はディミトリに歩み寄る。
この一歩が果たして生死やその後の人生ががらりと変わるものなのかは分からない。けれど、お前と同じものになれるなら、鼠だって虫だってなんだって俺は食べるし、お前が屠るものを同じように屠ろう。
でも、お前が獣として死ぬ時。その時が来るのだとしたら、俺はどんな手を使ってでもそれを阻止するし、もしもお前が獣として死ぬのがどうしようもない、抗いようのない運命だったとしたら。
同じように、俺も獣としてお前の隣で死ぬことを誓うから。
だから、どうか。
俺がディミトリの裾を握るのと、ディミトリが口の中で砕いていた鼠を吐き捨てるのはほぼ同時だった。興味なさげに食べかすを見下ろすディミトリに、そっと寄り添う。
搾取され吐き出され踏み潰された命が、俺達を恨みがましく潰れた目玉で睨み付ける。
この化け物が、と。