人は同種を殺すことができる唯一の存在だ。
誰かがそう話していた。
確かにそうだろう。
だって目の前でそれをされたのではそう理解せざるを得ないのだから。
「ぐぅうぇっ………あぅ……」
息を殺して。
己を殺して。
私は空気。
口元に手を当てて、扉の影に隠れて、高鳴る心臓を押さえつける。
喉から何かがこみ上げてくる。
呼吸が不規則になりそう。
視界が歪む。
腹の底に何かがいる。
震える。
真っ白になる。
視界が弾ける。
寒い。
暑い。
汗がでる。
おおよそ10年と経たない短い人生で感じることのなかった感覚。
10秒。
それがこの状況になるまでの時間だった。
かくれんぼをしていた。
小さい体を利用してうまく扉の影に隠れたと思った。
それが気づけばこう。
リビングの扉の影は、扉を開け放てば完全な死角になる。
小さな三角形の密室。
聞こえたのは、扉の開く音と、母の疑問の声。
そして、殴打音。
1時間。
見つからなかった。
音でただ、母が死んでいくのを堪能していた。
何も、体から出なかった。
この場のありえないほどの恐ろしさを隠すくらいの、生きたいという本能が為した、生命活動の低減。
そしてこの日、私は悪を知った。
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『大丈夫なの?』
「大丈夫だって」
『別にあなたのことだから心配してはいないけど、それでも不安ではあるのよ』
「いや心配してないのに不安とか矛盾してるじゃん」
『安心はしてないけど心配りをする必要はないってことよ』
「でた屁理屈」
『そりゃ屁理屈になりますよ、あなたみたいなの育てればね』
「あらそれは失礼、私(わたくし)のせいでございましたか」
『……ふふっ。相変わらず巫山戯るわね』
「そりゃ、人生巫山戯てなんぼ」
『あんたみたいなのが将来大物になるのよね』
「おっ、言うねぇ」
『……でも、道は踏み外すんじゃありませんよ』
「別にんなことないって……あ、ごめん、仕事の電話だ。
ごめんね」
『あっ、まだ話したいことが……』
切られる通話。
彼女は形態のモバイル通信をオフにする。
これで外部との連絡手段は絶たれた。
今どきは電話番号を使用しての連絡など絶滅危惧種だ。
ワイファイさえ通じなければ、大抵の通信手段は普通なくなる。
彼女が通話を終了したのは、何も言葉通りの意味ではない。
彼女にとって都合が悪かったので、通話を一方的に切ったのだ。
それこそ、通話相手に聞こえては行けないものが鳴りそうだったから。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「うるさ」
響き渡る絶叫。
近所迷惑甚だしい声は、いくら出しても構わないのだが、いかんせん鼓膜と精神に悪い。
磔(はりつけ)。
古より神聖なものに対して扱われることが多いこれは、大抵の場合苦痛を与えるために有効な手段として利用される。
「意外に手のひらってやわこいのね、簡単に刺さったわ」
磔のために利用されるのは、四肢。
両手両足。
人類の叡智の利用方法。
それを奪うことによって、人間は簡単に獣以下と成る。
寝かされた巨大な十字架に刺さっているのは、スーツを着た男性。
まるで仕事帰り。
電車から降りて、額を拭い、帰って何を食べようかと考えていそうな、そんな普通の男性。
「おいしょっと」
そんな男性が、両手を大きく広げ、その掌を貫かれている。
そんな男性が、両足を合わせ、その足の甲を貫かれている。
「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
「え、日本語?」
既に言語すら忘れるほどの音を喉から発する。
おそらくは、貫かれた両手両足を軸として、十字架を建てられた事により、抉れた肉に体重が乗っているからであろう。
痛みと熱さ。
人が感じれるギリギリのライン。
いや、既に過ぎ去っているのかもしれない。
「うるさいなぁ、たく」
やっとの思いで起こした十字架があまりにもうるさい。
少し黙らせる必要がある。
おもむろに近くのテーブルから猿轡を手に取り、十字架の前の脚立に登る。
そして自分の背丈より少し高いところに吊るされている男に対して、
「ぐるぅあわっ?!」
力の限り適当に口に猿轡を突っ込んだ。
女の力とはいえ、声を出しているから空いている口。
力もこもらない口。
数本の前歯を叩き折りながら突っ込まれる猿轡に、男の声は停止する。
別に男が自意識によって止めたわけではない。
「はいはい、すぐに喋れるようにするから」
猿轡を後ろでさっと止め、両側を引っ張る。
すると喉に詰まっていた猿轡が飛び出し、唾液とともに口から半分顔を見せる。
即座に猿轡を締める。
完成。
「はぁ、これだから男は堪え性が無いってやつ?」
ため息を吐くが、誰も聞いてくれる人はいない。
「それにしてもさぁ、黙らせてあげたから良かったけど、人がいるところだったら迷惑だったよ? ご近所さんとかに」
手についた唾液を見て、ばっちいと手を振る。
「黙れるようになったらそれ外すから、すぐに慣れてよ。
私、出るから」
手を洗って……いや、適当にお風呂にでも入ろう。
服は上からなにか羽織れば大丈夫でしょ。
てかそもそも服取り替えるか。
お金多少持ってたし、あの人。