人類はなぜ幸せを感じるのでしょうか。
例えば、突然変異の葉っぱを見つけた時。
例えば、食物を摂取して安全だと知覚した時。
例えば、子供が産まれた時。
そういった時に、愚かであるはずの人類は『幸せ』を感じるそうです。
私にはその意味がよく理解できません。果てのない宇宙に住まう私にとっては、人類の小さな感情など些末なこと。
そのはずだったのですけれど……
あれは、気まぐれに人間の姿で過ごしたときのことでした。
日本において、まだ和装と洋服が混在していた時代。食事を探しながら暇つぶしに人類を観察しておりましたところ、ある女性の不幸に出くわしたのです。
「可愛いお嬢さん、これこれ、このイチゴひとつどうかね、西洋の珍しい果物だよ、お安いよ」
「あの」
「今日は三日目、頑張りどきだ、値引き交渉も受けて立つよ!」
「あ、あの」
「今日の晩飯のデザートにも、旦那さんのつまみにもぴったりだよ、子供のおやつにだってちょうどいい」
「えっと、では……」
「まいどありー!」
商店街の雑踏のなか、薄汚れてくたびれた、一昔前に流行った着物を着ている若い女がいた。しつこい八百屋に絡まれて、断りきれずに結局イチゴを買っている。購入したイチゴを見て、ため息をつきながら籠に入れた。
彼女は商店街を歩きながら何度もため息を吐き、その度に頭が下がっていく。まるで雨に濡れた枝垂れ柳のようで面白い。
しばらく追いかけてみると、教会のような施設に入っていった。屋根は五、六枚剥がれ、壁の一部は老朽化したまま放置されている無惨な状態の建物だ。外の庭では二十人ほどの子供が騒がしく遊んでいる。どの子供にも親らしき人類が近くにいないため、ここは身寄りのない人類が生活する施設になっているのだろうか。
「ただいま戻りました」
彼女が帰ってきたことに誰も気づかず、声をかけても聴こえていないようだ。彼女は足を止めずにそのまま建物に入り、小部屋の扉をノックした。
「シスター、お買い物終わりました」
扉に向かって静かに声をかけると、なかから初老の女が出てきた。
「変なもの買ってきてないでしょうね?」
「あっ」
怪訝な目をして彼女から籠を奪い取り、中身を確認する。すぐに、さっき買わされたイチゴが見つかった。
「イト、あんたまた余計なもの買ってきて!」
「ごめんなさい、でも子供たちのおやつに……」
「これひとつで何人分のご飯が賄えると思ってるんだい! いいからとっとと返しておいで! お金もちゃんと返してもらうんだよ!」
イト、と呼ばれた彼女は籠を押し付けられ、乱暴に押されながら建物の外に放り出された。
俯いて唇を強く噛み、なかなか愉快な顔をしている。この感情は『悔しい』だろうか?『怒り』にも似ているが判別が難しい。人類の観察は難解なときがある。
「イトさん、どうしたの?」
庭で子供と遊んでいた若い男がイトに声をかけた。
「オダマキさん……なんでもないです」
イトは俯いて首を振りながら答える。その仕草をする人類は大抵嘘をついている。
「なんでもないような顔じゃないけど……何かあったらなんでも話して」
「はい。ありがとうございます。……商店街に行ってきますので」
「うん……あ、イトさん待って。はい、これ」
「……なんでしょう?」
男はイトに葉っぱを見せた。シロツメクサが突然変異しただけの、ただの葉っぱだ。
男は口角を上げて微笑みながら、イトの手を取って葉っぱを渡した。
「子供たちと探したんだ。幸運のお守り」
「ありがとうございます。けれど、私が頂いても幸運に恵まれるでしょうか」
「そんなに卑屈にならないでっていつも言ってるでしょ。イトさんは頑張り屋で素敵な女性なんだから」
「……はい。ありがとうございます」
イトは男に褒められて笑顔になった。これは『嬉しい』時の表情だ。それに、何やら美味しそうな香りがする。
彼女が施設から出ると、男はすぐに子供たちとの遊びに戻った。
イトは鼻歌を口ずさみながら歩いていたが、やがてトボトボという擬音が似合う歩きかたに変わっていった。肩を震わせて、怒っているのだろうか。
いや、涙を流している。小さな瞳から綺麗な結晶がこぼれ落ちた。
ついさっきまで『嬉しい』だったのに、なぜ泣いている?
もっと近くで見てみようか。警戒されないように子供の姿がいいだろう。
施設の子供と同じような背格好を再現して、私はイトの後ろを追いかけた。重たい足取りの彼女と、歩幅の狭い私は同じ距離を保ちながら商店街に向かう。
いくらか歩くとイトが振り返り、私をじっと見たあとまた歩き出した。彼女は度々振り向き、キョロキョロと周りを見渡している。何を気にしてるんだか。
しばらくするとイトは突然立ち止まり、ゆっくり振り返ると私の前にしゃがんで顔を覗き込んできた。
「あの、私にご用でしょうか?」
「はあ?」
「ずっと付いてきているでしょう?」
「見とっただけや」
「迷子でしょうか、お母様やお父様はおられないのですか?」
「そんなもんおらへん」
イトは「そうですか」と薄く微笑んで立ち上がる。すると、私の胃がくぅ〜と鳴った。
「あら、お腹がすいているんですね」
イトは迷うように考えた後、籠に入っていたイチゴを私に差し出してきた。
「よかったら、これどうぞ」
「いらへんわ」
「けれど、お腹が鳴っていましたし……」
イトは私の手を取り、小さな野菜が入った木箱を無理やり持たせた。
「これ食べてください、ね?」
このイチゴ、どうしてやろうか。
「食べていいんですよ?」
「それでええんか」
人類如きに指示されるのは癪に触るがせっかくの食事だ、食べてやろう。
まずは半分ほど、木箱の角から噛み砕く。よく乾燥した木の苦味に野菜の酸味が混ざり合い、細い釘の食感がアクセントになっている。
イチゴなるものは初めて食べたがこれはなかなかに美味だ。褒美にあとでお前も食べてやろう。
「ああ、箱は食べてはいけません!」
イトは慌てたように私の腕を掴んで止める。無理やり口を開けようとして、その動きに合わせて咥内が動き、パき、ぐクち、と音を立てる。
「は、はは早く出してください!」
「んぁ」
こじ開けられた口の中には、すでにイチゴは存在しない。口に含んでいた分は全て咀嚼した。
「た、食べてしまったんですか……」
目を丸くして体を引いている。これは『びっくり』している顔だ。どこにそんなに驚くことがある?
「箱ごと食べるなんて……」
「食べろ言うたやろ」
「けれど……。あ、」
イトは得心したような顔をして、手を合わせた。
「とってもお腹が減っていたんですね」
馬鹿かこいつ。身体中のネジのサイズを間違えて刺されているような思考をしている。ポンコツの気があるイトは、木箱に半分残っていた小さな野菜だけをつまんで見せてきた。
「いいですか? 食べるのはこの赤いイチゴだけですよ」
「そんだけか」
細い指でつまめるぐらいのそれは一口にも満たないほどだ。
三粒差し出されて食べたが、これっぽっちで腹は膨れない。
「お腹が空いているなら私たちのところに来ませんか? ご両親も一緒に探しましょう」
「はあ?」
「さあ行きましょう」
イトは私の手を握った。さっきの足取りとはうって変わって、施設への道をずんずん戻っていく。引っ張られて歩きにくいが、温かい手だ。
広い道に出ると通行人が増えて、自動車がやかましく車輪の音を立てながら私の横を走り抜ける。
「危ないです!」
私の身体を歩道に避けた拍子に、車輪が蹴飛ばした小石にイトが躓いた。顔から地面に落ち、靴も脱げ、膝も擦りむいている。
側で見ていた若い女が二人、イトを見下ろして声をかけた。歪んだ口元が印象深い二人だ。
「あら、イトさん今日もお元気ね」
「相変わらずお転婆なこと」
イトは二人に苦笑いを向ける。これも『嬉しい』なのか?
「ご、ごきげんよう奥様」
すぐに顔を赤くして顔を伏せた。ということは『恥ずかしい』?
この女たち、イトに恥ずかしい思いをさせたのか、卑劣で姑息な人類らしい奴らだ。私の食事にちょっかいかけるとどうなるか、分かっているか。
「いやよ奥さん。それじゃ嫌味言ってるみたいじゃない」
「あらごめんなさ〜い」
「ちょっと奥さん、あれあんたの旦那さんじゃない⁉︎」
「ええっ! 誰よあの女!」
土で汚れたイトに手も貸さず、二人は気味悪く高い声で話しながら早足で通り過ぎた。
いっぽう彼女は地面に座りこんだまま、服の裾をぎゅっと握って立ち上がろうとしない。見ている分にはそこそこ面白いが、なぜ黙っているのだろう。
汚れたままのイトと二人で施設に戻ると、彼女は私を小部屋に連れていった。
「シスター、すみません。ちょっとお話が……」
扉をノックすると女が出てきて、手のひらを見せながら要求した。
「さ、お金返してちょうだい」
「ごめんなさい、イチゴはこの子にあげてしまいました」
イトは気丈に振る舞い、女の目をまっすぐ見た。
なんだ、小心者かと思ったが言う時は言えるじゃないか。
「あんたこんな簡単なこともできないわけ⁉︎ どういうこと? その子誰よ」
女は激昂し、イトを睨んだ。イトも、女を強く見て言った。
「さきほど会った子でして、ご両親がいないみたいなんです」
「だから何よ」
「お腹も空いているみたいで、お可哀想ですから!」
「……っ」
イトの強い語気に女はたじろいで歯を噛み締めた。
「も、もういいわ。あんたはこの子の親探してきな!」
「……はい」
女は扉を勢いよく閉めて小部屋に戻った。
イトは緊張が解けたのか、ふぅと息を吐いた。
「さあ、行きましょう」
そう言って、私の手を引いた。
煩いほど子供の声が賑やかな庭の隅、イトはしゃがんで目線を合わせてきた。
「ところで、お名前はなんというのですか?」
「■■■■」
彼女は不思議そうな目をしている。
そうか、この名前は人類には聞き取れないんだった。
もう少し人類っぽいほうがいいなら適当に…、は私が嫌だ。そうだな……
「すい」
思いつきにしては上々。
人類の単位で今日は水曜日らしいし、垂楊といえばイトが項垂れた形に似ている。あの様子は滑稽だった。
「すい君ですか、とても良い名前ですね。私はイトです。イ、ト」
「いと」
「はい。私はすい君のご両親を探してきますから、子供たちと一緒に遊んでいただけますか」
崇高で偉大な上級神である私に指図するなどという愚行、本来ならば自ら腹を裂き首を掻っ切るべき大罪である。だが他でもない食事の提案だ。
「ええやろう」
無垢な子供と遊んでやるのも、たまには悪くない。
私の回答に微笑んだイトに手を引かれて、子供の輪のなかに入っていく。
「みなさん、すい君と一緒に遊んでいただけませんか?」
「だれー?」「男の子ー?」「ちがうよ女の子だよ」「なんさい?」
舌足らずで甲高い声が耳障りだ。歩けるようになったばかりの幼い者や成人に近いような者まで、幅広い年齢の子供がいる。
「すい、こっちであそぼ!」
リーダー格らしき子供が手をあげて私を呼ぶ。
普通なら向こうから出向いてくるのが当たり前だが、まだ脳が発達していない子供は私のことが理解できていないのだ。しょうがないから私から行ってやろう。
「なんや」「これ見て!」「ダンゴムシ!」「イト先生にあげるの!」
「うあぁ」
低俗な子供が黒い虫を手のひらに五、六匹乗せて見せてくる。幾本もの脚が蠢いて気色悪い。私に虫を差し出してくるな。
「イト先生に見せてさ」「びっくりするよね」「泣いちゃうかもね」「おもしろそう!」
子供であっても人類ならば倫理感というものが備わっているはずだが、こいつらにはまだ装備されていないようだ。
「それ面白いんか?」
「うん!」「だってイト先生怒らないから」「他の先生もそうしてるもん」「前もやったもんね」「ねー」
「なるほど」
やっと分かった。イトはなぜこうも不運なのか。
彼女は生涯不幸に見舞われる人生なのだ。生まれも育ちも関係なく、種族や親さえなにも影響されず、彼女はそういう運命のもとに生まれたのだ。
この世に生を受けてからこれまで不幸な人生を生きてきだろう彼女は、私という存在に当てられて歯車が傾いてしまったのだろう。
もしかすると、あのイチゴが供物になったのか?
私に供物を捧げたために、起こるはずの災いが回避されたり、人が変わったように威勢がよくなったりしたのかもしれない。
そうだ、たまには世界の均衡を崩して遊んでみようか。この先彼女がどんな末路を辿るのか、正直とても気になる。
「そのあとに食べてやろう」(※近畿系のイントネーション)
「ねーねー」
三歳くらいの女が私の服の袖を引っ張ってくる。
「”あとに”ってなに?」「なぁすいって言葉へんー!」「へんー!」「なんでそんな喋りかたなの?」
「なんやと」
未完成で幼稚な人類の子供が。
貴様らを統べる神である私を罵倒するとはいい度胸だ。その足りない脳みそを絞り出してテトロドトキシンと混ぜ合わせて美味しく食べてやろうか。
ああ、いけないいけない。今にも泣きそうになってしまった。
子供たちの騒ぐ声が聞こえたのか、イトが駆け寄ってきた。
「どうしましたか」
「こいつらが馬鹿にしたんや」
「だって」「泣かしたー」「すいがー」「へんだもん!」
「そんな言葉使ってはいけませんよ」
イトはしゃがんで子供たちと目線を合わせながら言い聞かせる。
「少し言葉遣いが変わっているからって変ではありません。個性なんですよ」
「先生もへん」「へんー!」「へんな先生!」「へんなイト先生ー!」
ケラケラ笑う子供たちとは対照的に、イトは悲しそうな顔をしている。
「そうですね、少し変かもしれません」
変かもしれないが、子供と会話できているのを見ると、人類にとっては分かりやすい言葉のようだ。イトのような言葉を使えば人類も隙を見せやすくなるだろうか。
今のままでは食事を取るのも難しいと思っていたところだから、試しに真似してみよ……みましょう。
「へんなのー」「なにそれー」「イト先生これ見て!」「みてー!」
子供たちが群がって雛鳥のようにさざめくなか、
「イトさーん、イトさーん?」
若い男がイトを呼んだ。イトは立ち上がって男に答える。
「オダマキさん! 今行きます! みなさん、すい君と仲良くしましょうね」
イトは男の元へ駆け寄っていき、二人して庭の外に出て行った。
私は私で、この幼稚な人類どもを躾けるとしましょう。
戻ってきたイトは両手に包みを抱えて、建物の中に入っていった。
後ろを追いかけると、子供たちもなぜか一緒に付いてくる。
イトは居住空間らしき部屋が並んだ二階に上がっていき、角の扉を開けて入っていきました。
「先生の部屋いった!」「いこうよ!」「さんせい!」「入っちゃいけないんだよ」
リーダー格の子供がドアノブをガチャガチャと音を立てて開けようとしている。鍵がかかっているのか、なかなか開かないようだ。
「開かへんか」
「すい開けれる?」「あけてー」「はやくー」
「任せろ」
扉を思い切り蹴飛ばすと簡単に鍵が外れた。開いたと同時に、中から「きゃっ」という声と陶器が割れる音がしました。
「きゃー」「見つかった!」「にげろー」
子供たちはみんな走って行ってしまった。
部屋にはイトが驚いた顔をして立っており、床には割れた花瓶と白い花と水が散乱していました。
「まあ、鍵を開けてしまったんですか」
「そやな」
「怪我はありませんか?」
イトは私の身体を触って確かめたあと、花瓶の破片を拾いはじめた。
白い花を見つめては頬を赤く染め、恥ずかしそうに顔を隠してはまた手を動かすことを繰り返しています。
「イト、その花なんなん、ですか」
「この花ですか?」
そう言って彼女は、潤んだ瞳で花を優しく見つめます。
「これはクチナシの花ですよ。愛を伝える、幸せの花です」
「幸せとはなんですか?」
「幸せとは、心のあたりがぽかぽかしてくる気持ちです」
イトは私をまっすぐ見て言った。上気した頬が赤く染まり、なんとも言えない食欲をそそる香りが部屋を包みこんでいる。
これは……、なかなか美味しそうに育っているようだ。今まで見た人類の中でも品質の良い部類に入るでしょうか。
「そう、私は今幸せなんです。こんなに幸せで良いんでしょうか」
「いけないことなのですか?」
「いいえ。人は誰しも幸せになる権利があるのです。……だから私も許されたのでしょうか」
「許された人類が幸せになるのですか?」
「えっ……?」
イトはまた不思議そうな目をして私を見つめ、一瞬、時が止まったように思いました。
束の間の時間のあと、大人の足音がして部屋の前で立ち止まった。蝶番が曲がったまま開けっ放しの扉を女が片手でノックすると、イトはやっと来訪に気づきました。
「シスター……」
「さっきの果物の代金、あんたの給料から引いとくから。この扉の修理代もね。うちにお金が無いことあんたもわかってるでしょ」
「けれど……」
「けどじゃないよ!」
女は激昂し、狭い部屋に響くほど大きな声で言いました。
「勝手にいらないもの買ってきて、よその子供も連れてきて!」
「すい君は関係ありません!」
イトも負けじと言い返します。それでこそ私の食事かくあるべし。
「優しいだけじゃ子供は助けられないよ! だから男にも騙されるんだ!」
「……だま……えっ」
「あんた、騙されてるんだよ。その花だってオダマキ君だろ?」
「……オ、オダマキさんは良い人です!」
「まだ気づいてないの? オダマキ君、若い奥様たちとよく話してるじゃない」
女は馬鹿にしたように笑いました。
「そ、それは子供たちの里親を探すためにと……でも、嘘ですよね……」
「嘘じゃないよ、あんたをからかって遊んでるだけ。ま、今のうちに気づいてよかったじゃない」
そう言い残して、女は部屋を後にしました。
「でも、結婚してくれって……」
イトは目を見開いて、口が塞がらないようです。
呆然とする彼女を尻目に、施設の外で甲高い笑い声が上がりました。窓の外を見てみると、若い男を中心にして若い女がたむろしていました。
「オダマキさん……」
男がイトに気づくと、口元だけ笑ってこちらに手を振りました。イトが振り返すと、一呼吸置いて女たちが笑い出します。
「っ……。わ、私は幸せなんです……」
か細い声で、噛み締めるように呟きました。
なるほど?人類はそのような時にも『幸せ』を感じるのですか。
イトはその場に崩れ落ち、長い時間、心ここに在らずという面持ちで虚空を見つめていました。
空の色が変わりはじめた頃、イトはやっと動きはじめました。
何をするかと思えば、割れた花瓶も濡れたままの床もそのままに、部屋を出ていってしまいました。
イトは重たい足取りで歩き続けました。
決して早くはないはずなのに、私の身体の歩幅では追いついたり遅れたり……。
イトは涙を流しています。それは、前に見たものとはまた違うものでした。
「あなたは幸せだったんでしょう」
「はい」
「ではどうして泣いているのです」
「どうして、なの、ですか、どうして……」
イトの声はだんだんと小さくなっていきました。
ああ、なぜでしょう、胸が痛い。
また欠陥のある身体を再現してしまっていましたか。この身体はもう使い物になりませんね。これだから人類は脆いのです。すぐに新しいものに替えましょう。
「あなたも弱いのですね」
「……」
「しかし、そこがまた■■■です」
「……」
イトはもう、私に答える気力も無いようでした。
これでは彼女も、もう使えませんね。こんなに簡単に不味くなってしまうなんて、やはり人類は低脳です。
私の食事をこんな状態にした人類も、なんと愚かな存在でしょう。
ああ、また食事を探さなければいけなくなりました。
そういえば、彼女は『幸せ』と言った時に美味しそうな香りを漂わせていましたね。
あの白い花が『幸せ』でしたか。
そうだ、忘れないためにあの花を私の名前にしましょう。
いつか、その感情を味わえる時が来るまで。
「愚かな人類の皆様、こんばんは。梔子スイと申します」