げんてんかいき
 それは、ちょうど下駄箱からスニーカーを取り出して、上履きに履き替えようとしたときだった。
 ふと悪い予感がして、鞄を開けて中を覗いて見れば……ビンゴ。今日渡された課題のプリントが、どこにも見当たらなかった。
「悪ぃ、山田。忘れ物した」
「そっか。じゃあ先帰るな」
「そこは待っててくれるところじゃねぇのか!?」
「だってよー……五階だぜ?」
「……まあ、なぁ」
 わが校の校舎は、実に立派な五階建てとなっている。白い塗装が陽光に映えて、快晴の日は実に綺麗なものだが……中にいる俺達生徒にとっては、昇降移動が増えるばかりでまったくいいことがない。
「んじゃ、また明日な」
「おー」
 昇降口で悪友と別れ、てくてくてくてく最上階を目指す。つい先ほどまでの俺と同じように昇降口を目指す他の生徒とすれ違いながら、六階のいちばん北側、昇降口から最も遠い、わがクラスへ。
 やっと一日の授業が終わり、さあもう帰れるぞお疲れ様でしたーという気分で昇降口まで下りてからの、この不毛なやり直し。実に非生産的で無駄の極みと言うほかない。
 これでまだ他の生徒が何人か残っているのなら、まだましだったのだが。みんなもうとっくに帰ってしまったようで、廊下には俺の足音しか聞こえない。
「あ゛ー……もう疲れた」
 無駄にきれいな西日が、かえって嫌味っぽく見えた。肉体的な疲労感よりも、精神的な疲れがどっとのしかかってくる。がっくりと頭が下がり、出すつもりが無くても、どんよりとしたため息が口から漏れ出してしまう。
「んぁー……」
 のろのろと腕を動かして、教室の扉を開いた。さっさとプリントを回収して帰るべく、俺はうつむいたまま教室に足を踏み入れた。
「げっ」
「んあ?」
 ――だらだらと自席に向かおうとしていた俺の耳に、聞き慣れた声が飛び込んでくる。顔を上げてみれば、そこにはよーく見知った顔。
「かなみじゃん。何やってんの」
 彼女は、教室の一番隅にある彼女の机の上に座っていた。座って、その勝気そうな瞳で俺を見下ろしている。
「つーか今『げっ』って言わなかったかお前」
「……まあ、言ったわね」
 ちょっとばつが悪そうに、視線をそらしながら言った。
「ひどくない!? 幼馴染を見て言うセリフがそれかよ!?」
「それ以外に何があるってのよ」
「ひどい!」
「と言うかあんた、いったいこんな時間に何しに来たわけ?」
「ああ、それは忘れ物を取りに……待てよその質問先にしたの俺だぞ!?」
「そうだったわね。でもあたしにあんたの質問に答える義務がある?」
「いつもながら辛辣!」
 ……椎水かなみという女は、だいたいいつもこんな感じだ。とにかく俺に対する当たりが強い。とはいえ今日は、それもやけにひどい気がしなくもないが。
「それじゃあさっさと用を済ませたら帰って頂戴」
「そりゃ帰るけどよ……お前は? 帰んねーの?」
「ちょっといろいろあるのよ」
「ふーむ……」
 いろいろ、ときた。いつも俺に対してずばずばと無遠慮に言葉の刃を投げつけてくるかなみにしては、珍し物言いだ。
 しかし、いったい何だろう。放課後の人気のない教室で、女子生徒が一人、他人に言いにくい用……はっ! まさか――。
「――まさか角オn」
 ちょっとばかり危険なことを口にしようとした俺の額に、強烈な衝撃が走った。
「アアアアッ!」
「ぶっとばすわよ!?」
 もんどり打って倒れた俺に、タコみたいに顔を真っ赤にしたかなみが叫んだ。その右手は振りぬかれていて、どうやら俺に向かって何かを投げつけたらしい。
「ぶ、ぶっとばしてから言わないで……いててて」
「だったら変なこと言うなっ!」
「あい、まむ……しかしいてーな」
「自業自得よっ!」
 至極ごもっとも。今のは俺が悪かった。しかし、にしても額が痛い。血が出たわけではないようだけど、かなみのやつ、いったい何を投げたのやら。
 見回すと、近くの床にコーヒーの缶が転がっていた。
「せめてアルミ缶にしてくれない?」
「選べるわけ無いでしょっ! 手元にあったやつ投げただけなんだから!」
「じゃあ危険だから今後はスチール缶の飲み物はやめよう」
「あんたが口に気を付ければいいだけの話でしょうが」
「……どうしよう、反論できない」
 真っ当な結論だった。
「あー、もう、なんか疲れたわ……」
「俺もつかれた……ただでさえ元から疲れてたってのに……」
「自業自得よっ!」
 至極ごもっとも。今のは俺が――。
「――いや待て。無限ループしてるぞ」
「?」
「ああ、なんでもないこっちの話」
 少し凹んだ――おいスチール缶だぞよく無事だったな俺の頭蓋骨――空き缶を拾って立ち上がる。
 しかし飲み物の容器を見たら、どうにも喉が渇いてきた。
 そういえば、つい先ほど昇降口の自販機で山田とジュースを買っていた気がする。鞄の中を開いてみれば、たしかにそこに清涼飲料水の350ミリリットル缶が入っていた。
「せっかくだから今飲むか」
「あら、気が利くじゃない」
「……?」
 つい先ほど俺の額にストレートを投げつけた右手が、何故か俺に向かって差し出されていた。
「ええと、この手は?」
「特別に椎水かなみ様への献上品を許可してあげるわ」
 そう言って、ふんと鼻を鳴らす。何言ってんだこいつと言い返せればよかったのだが、悔しいことにかなみの所作は様になっていた。言動に全く違和感がない!
 クソっ。これだから美形は。何をやっても絵になりやがる。
「くっ、悔しい……でも……缶渡しちゃう……っ!(ビクンビクン」
「うわキモッ! なんで震えてんのよ!」
 かしゅっとプルタブが動く音。奪われた俺の100円分の液体が、かなみの喉を潤していく。……いかん、他人が何か飲んでいるのを見ていると、無性に喉が渇いてくる。
 いいなぁ。さぞや美味いだろうなぁ。他人の金で飲むジュースは!
「……そんなに喉渇いてたわけ?」
 じーっとかなみの様子を見ていると、缶から口を離してそう言った。
「現在進行中で重症化しつつあります」
「ふーん……」
 おっ。
 この「ふーん」は、もしかするともしかして期待できるやつでは……。
「あっそ」
「なんで喉渇いてるか聞いたんだよお前!?」
 だめだった。かなみは再びジュースを飲みにかかった。ああ、もう缶の角度が水平に近い。ほとんど飲み干されつつある。俺がなけなしの小遣いで買ったのに。
(……バイト、しようかなぁ)
 現実逃避にそんな思考さえ浮かんでしまう。……いや、いいんじゃないのかアルバイト。使える金が増えるのは良いことだ。たぶん、きっと、働くってのは大変だろうけど、そういえば山田もバイトしてるはずだし。
「ああもう、そんなに見ないでよ、わかったわよ、分けてあげるから」
「……おっ?」
 正直別のことを考えていたから、ほとんど視線を向けていた「だけ」のようなものだったのだが、それでも効果はあったらしい。かなみもついに渇きに苦しむ男を哀れんでくれる気になったようだ。
「ほら、飲みなさい」
「元々これ俺のなんだけど」
「細かいことは気にしないの! それともいらない?」
「滅相もございません!」
 俺はその場に膝をつき、頭を垂れた。
「どうか、どうかお恵みを!」
 ……正直こんなことをされたら普通の人間はドン引きしそうなものだが、かなみは機嫌良さそうに「うむ、くるしゅうない」なんて言いながら俺の前に缶を置いている。こいつ本当にいい性格してんな。
 とはいえ、これで俺もジュースにありつけるわけだ! おそらくもう半分以上は飲み干されてるけどな!
「ありがてえ、ありがてえ」
 缶を掴んで持ち上げた。クッソ軽い。
「……85%OFFくらいかな」
「一割も残してあげるなんて、さっすが私ね」
「うう、理不尽だ……」
 涙がこぼれそうになったけど、ぐっとこらえて缶をあおった。冷たいアルミの感触が唇にやさしい。喉を流れて落ちていった液体が、すーっと体に沁みていく……ような気がする。
 そのとき、清涼飲料水に含まれていた果糖ぶどう糖液糖の効果か、ふと俺の脳細胞が活性化した。
 すっと思考が冴えわたり、一つの疑問が浮かぶこととなった。
 それはつまり。
「なあ、かなみ」
「んー、何?」
「これって、間接キスだよな」
(了)
・ツンデレにこれって間接キスだよなって言ったら
 今は昔、「ツンデレにこれって間接キスだよなって言ったら」というスレッドありけり――。
 実を言うと、私の文字書きとしてのはじめの一歩は、あのスレにSSを投下したことでした。初心忘れるべからず、などと言いますし、ここらで思い出してみるのも悪くないかと考え、なんとなくこんなものを書いてみました。
 あのスレの醍醐味というか、趣旨としては「間接キスだよな」と言われた後のツンデレの描写こそが主だったように思いますが、それはもうあの頃十分書き散らしていたと思うので、まあ、今日はこのへんで。
 ちなみにですが、椎水かなみ、というのは、あのスレで使われていた「アッパー系ツンデレ」のデフォルトネームでした。いやあ懐かしい。ちなみにダウナー系だとちなみちゃんです。ちなみに。
 懐かしい気分に浸りつつ、そろそろ終了します。ここまで読んでくださってありがとうございました。
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初公開日: 2021年03月29日
最終更新日: 2021年03月29日
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コメント
べ、べつに読んでほしくなんかないんだからねっ!