夜戦から帰ってきたとき、時刻はすでに零時を越えていた。
 疲労と眠気とでふらふらの足取りを引き摺るようにして、なんとか湯小屋に辿り着く。
 全員、今すぐにでも布団に横臥して寝たいという心持ちであったので、とりあえず汚れを落として湯舟に浸かる。まさに烏の行水の如し。このまま寝落ちてしまうことを恐れてか、ひとり、またひとりと湯舟から上がっていく。
 山姥切国広は湯舟に浸かりながら、湯煙の向こうで細々と短刀たちの世話を焼く山姥切長義のすがたを見ていた。今にも目蓋を落としてしまいそうな短刀たちの背中を押して、長義はそのまま浴室を出ていった。おそらくドライヤーをあててやるのだろう。何度かそうしているところを見たことがある。
 国広はなにげなく天中を仰いだ。
 月も星も見えぬ、漆黒の夜であった。それでも周囲が奇妙に明るいのは、降り積もった雪のおかげだろう。まったく主にも困ったものだと、国広はひとり溜息を落とす。巨木の主は、その感情を気候にて表してみせる。冬ざれの庭にそろりそろりと緑野が交じりはじめ、ようやく春の陽気になったかと思いきや、一転、昨夜から降りつづけた雪によって、本丸は再び閉ざされてしまった。なにか悲しいことでもあったのだろうか。主の気持ちを汲むべく、国広は雪原へと目を向ける。そこには、鼠色のゆるやかな丘陵がどこまでも続いていた。
 ふいに、ぱしゃりと湯を打つ音が聞こえた。
 見れば、山姥切長義がたった今湯舟に浸かるところだった。
「山姥切」
 声を掛けると、長義はちらりと一度だけ国広を見た。てっきり短刀たちと一緒にあがったとばかり思っていた。
「途中で鯰尾が迎えにきてね」
 それだけでだいたいのことを察することができた。案外面倒見のよい兄なのだ。その光景を想像して、国広はなまじりを緩めた。
 こう、と風が鳴った。
 近くの笹薮が揺れて、降り積もっていた雪がさらさらと風に流された。
「主の悲しみは明日には晴れるだろうか」
 なにげなく呟いた国広の声に、長義が「さあね」と相槌のような吐息をもらした。
 己の心も儘ならないのだ。余人の心などわかるはずもない。それでも、晴れればいいのになあと国広は思った。水色の空が好きだった。まっさらなどこまでも続く雪原の中を、きゃらきゃらと走り回る短刀たちのすがたを思い浮かべる。
 戦の只中であるはずなのに、なんという穏やかな時間だろうか。
 戦うために得たはずの身で、野良仕事や家畜の世話をする。慈しみと安らぎを覚えた手は、ひと時刀を手放し、その掌を合わせ、この時がもっと続けばよいのにと願っている。
 それはとても危険な考えのように思えた。気付いたとき、視界の隅を黒い塊がよぎった。湯舟にぽっかりと浮かぶそれを、国広は最初蛭だと思った。びくりと肩を揺らす。だが、すぐにそれがただの落ち葉であることに気付く。
「そういえば明日はととせの祝いだね」
 思い出したように長義が言う。
 俺たちには関係のない話だけれど、と注釈をつけて。「十年か」囁くように国広が呟いた。
「案外すぐかもな」
 冗談めかして言う。そんな風に、国広の前で気安く笑ってみせる長義は珍しい。その奇妙な明るさは、そのまま雪原の明るさであり、今の主の心とぴたりと一致したような気がした。
 ととせ ととせ
 ととせ ととせ
 長義は繰り返した。他愛のない――言葉遊びにも満たない単純な言葉の反復であったが、長義が妙ちきりんな節を付けて繰り返すので、わらべ歌のようにも聞こえた。
「ととせ」
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伯仲ワンドロ フライング
初公開日: 2021年03月07日
最終更新日: 2021年03月07日
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とある本丸