『フランツ・カフカの言う通りでも』
蛹の中で、考えていた。
もし生まれ変わるのであれば何になりたいか。
やはり、もう一度人間だろうか。
剣や魔法のある国で勇者になれたらそれは最高だっただろうに。
いっそ生まれ変わるなら魔物でもいいのかもしれない、物思う魔物、そういうトレンドも覚えている。
とどのつまり、ファンタジーは大体の事を許容して、小説家達は素晴らしい物語達を紡いでいた。
自分はそう多く本を読む方では無かったけれど、今になってその少数の本を読んできた教訓として何となく思う事がある。
どうであれ、主観の全てが悲観であってはならないのだ。
諦観から始めるなんて、あんまりじゃないか。
けれどこの、自分の人生を、自分の状況を物語などと呼んでも差し支え無いのであれば、自分が諦観にたどり着くのは当たり前だと思った。
奇跡と呼べる物は必ずしも幸運に付随する物ではない。
こんな事はあり得ないと何十時間も思ったが、結局のところこのファンタジーと呼んでもいいような状況は自分にとって素晴らしい物では無いように感じた。
周りの物言わぬ同胞達はどんな事を考えているだろう。
突然に動けなくなり、陽の光の下でじわじわと自分の身体が作り変えられていくような感覚。
それを快感と呼ぶ人もいれば不快感と呼ぶ人もいるのかもしれないが、ドロドロと溶けた身体が再構築されていく感覚を自分は不快だと思った。
痛みは無い、頭の中もはっきりとしている。
ただ、ただ考え続けていた。
例えば、だったら
例えば、だったら
例えば、だったら
――例えば、いつまでもこのままだったら
一瞬考えてそれを考える事だけは封印した。
思考の制御も、思考の発展も、一人ぼっちを選んでロクでなしの名を拝領した自分にとって唯一といって良いくらいの長所だった。
要は物思いに耽るのは得意だったのだ。
窓を割って学校へ入り込んで来るテロリストのパターンだけで学生時代を乗り切ってきたし、もう卒業まで僅かになった残りの冬も乗り切っていくつもりだった。
毎夜毎夜訪れる眠れない夜は、異世界を縦横無尽に飛び回りながら眠りについた。
どんなファンタジーであっても、前に進む事で壁が生まれるのだけれど、現実問題として今俺の目の前には壁がある。
そう厚い壁じゃ無いはずだけれど物理的には打ち破れない。
けれど、そのうち破れる様になることだけは、周りから聞こえる音で分かった。
ただ、その結果が素晴らしい物では無い事の予想はついていた。
――悪かった、次はちゃんと生きるよ。
片隅で人生を腐すにはまだ若いなんて事は知っていた。
ちょっと拗ねただけで、上手くいかなかったから、よく分からなかったから、だからチャンスをくれないか。
そんな事を最初は思ったりもした。
そんな事を思ったりしたヤツが、何とかなるという例を非現実で学んだからだ。
そうして、ありとあらゆる懺悔をしてみてから非現実で学んだ事は現実ではあまり役に立たないという事を学んだ。
最終的に、結局不条理に追い詰められた人間が大声で叫びたい事はこうだ。
――どうしてこんなことになったんだ。
叫びたかったが、それも声が出るのであればの話。
無言のまま、考え続ける。
例えば、俺がこうなる前の事を思い出した。
世界的に、何週間も曇天が続き太陽が見えない日が続いたのがそもそもの発端だったのだ。
テレビやら新聞で毎日のように異常気象だのなんだのと騒ぎ立てていたが、はっきり言えば自分にとって何の関係も無いと思っていた。
今思えば人類全員に関係があったのだけれど、そんな事は占い玉を何百個並べた所で分からない。
原因なんかが分かっていたとしたら、英語をいくつか並べた略称でしか呼ぶことの無い特殊機関とかだろうか。
もし分かっていたのなら、一言教えて欲しかったんだ。
外には出るなよって、それだけで良かったはずなのに。
やっと晴れ間が覗き始めた時から、異変は始まった。
久しぶりに陽の光を浴びた人間は、ぐぐっと背伸びをして太陽を拝んだまま、一瞬困惑の表情を浮かべて蛹になっただろう。
嫌味な体育教師が学校の入り口で叫びながら蛹になるのを見て、危機感を覚えなかったヤツから蛹に変わった。
――危機感だけはあったんだけどな。
体育教師をチラリと見てから、俺は一直線に走った。
雲は一斉に散って、陽の光が迫ってくる。
その時はそれが原因だなんて思わなかったけれど、恐怖は俺の足を竦ませる前に、前へと進ませた。
けれど、とにかく、実際の所、悲しい話、俺は足が遅かった。
――最後に俺が押し飛ばしたあの子は無事だろうか。
自分も人生一番の走りを見せたがまともに走らずに、まともに生きずに来た人間の人生一番にロクな成果は得られない。
せめてもの置き土産として、足が動かなくなった瞬間に目の前のリュックを押し飛ばした。
頭を打っていたら悪いな、なんて思いながら校舎の日陰にその生徒が飛び込むのを見たのを最後に、俺は蛹となったわけだった。
実際、こうなったのが陽の光かどうかは分からないが、きっとそうなのだろうという予想は出来た。
とにかく考える時間は山程あったのだ。
けれど状況の原因を特定出来る程、頭は良くなかった。
何となく、考える事の一つに予想というカテゴリーがあっただけだ。
というよりも、空想と言った方が分かりやすいのかもしれない。
とにかく、何を専攻したわけでもなく、何が趣味で特技だったわけでもない、はみ出し者の一学生に分かるような状況では無い。
絶望は少なからずあったが、それでも現実を受け入れるまでの時間もあった。
というよりも、時間がありすぎた。
何故なら蛹になってからというもの、眠る事が無くなった。
それだけではなく食欲も、あえて言うなら性欲も無くなった。
眠りを必要とせず、何をすることも出来ず、ただ考えるだけの時間が人の一日にどれだけあっただろう。
そしてそれを丸一日どころではなく、一週間、十日、それ以上与えられた時に、どれだけの事を考えられるだろう。
数百時間、ただ何かを考えてくださいと言われる事は、おそらく拷問になり得る。
一億年の無を体感する代わりに金が手に入るボタンの話を聞いた事があるが、人が狂うまでに必要な時間はそう多く必要無いと思った。
それでも考える、考える、壊れないように考える。
時折聞こえる音に耳をすませて、この奇怪な状況が夢では無いという事を何度も頭の中で確認した。
聞こえるという事が幸せだとすら思う程に、動けない時間は辛いものだった。
唯一の希望が、周りから聞こえる羽化の音。
けれどそれが幸せな物であるとはどうしても思えなかった。
まるで自分はフランツ・カフカが書いた不条理文学『変身』の過程を与えられているようだった。目を覚ますと巨大な毒虫になっていた人間の不条理な命を想う。だが、あの小説には変身の過程が無い。
作品の主人公は、ある日起きたらもう既に物言わぬ毒虫になっていたのだ。
不条理とはそういうものなのかもしれない、だが今の自分と比べてどちらが幸せだろうか。
それは、過程を知らない『変身』かもしれないし、これからをしれない自分かもしれない。
この長い思考の時間は、突然の変身に際する神の猶予なのかもしれない。
きっと人間にも、そして俺達にも考える時間は与えられた。
けれどきっと動けるようになった時は、うんと腹が減っているだろうことは、外から聞こえる人間の叫び声と物言わぬ同胞達の咀嚼音で気が付いた。
強いていうなら、漂う血の匂いからも。
今日も遠くから叫び声が聞こえた。
その叫び声はある日を境に、時々聞こえるようになったものだ。
男性の声の日もあるが、圧倒的に女性の声の方が多かった。
今日も、その叫び声と自分との距離はそこまで近く無いようだが、はっきりと聞こえた。
もしかするとこの蛹の中での変身、もとい変態が進んでいるのかもしれない。
声だけでは誰かまでは分からない。
仲が良い人だったら分かったかもしれないが、仲が良い人などそう多くなかった。
ただ、俺が背中を押したあの人じゃなければ良いなと、声が聞こえる度に小さく祈っていた。
叫び声の後、必ずその人は殺されただろうと思う。
その叫び声はうめき声に代わり、その合間を縫ってシュルリ、シュルリと肉が捲れる音がする。
そのうちに声は聞こえなくなり、血の匂いが強く香った。
それは"俺達"の食欲を刺激するには充分すぎる程の、濃厚な香り。
食事を必要とはしなかったが、必要とするのだろうという気配は、この匂いから湧き出る衝動で理解が出来た。
――人を喰うのは、やだなあ。
そんな事を思いながら、先に孵化した同胞達も人を殺しているのだろうか。
人間の死には、あっという間に慣れてしまった。
何故なら現実として死んでいく様がありありと音と匂いで感じられるのだ。
最初は嫌悪した、絶望した。
けれど十度目の惨劇を想う頃にはもう、その光景以外の恐怖は消えていた。
獲物を仕留めた同胞の食事の音も聞こえなくなった頃、ふと近くから声にならぬ声が聞こえる。
何かを突き破ろうとする音が慌ただしく響く。
それを聞いて新たな同胞が羽化する事が分かった。
――そろそろ、このラインか。
要は陽の光を浴びた順なのだろう。
前の羽化の音は全て後方から聞こえた。
だが日が立つにつれてその距離が近くなっている。
それが分かるあたり、どうやら耳は良くなっているらしい。
そして、俺の身体もまた、少しずつ動くようになっていた。
つまりきっとそれは、そろそろ思考から解き放たれるという事なんだろう。
結局どれだけ考えても、何が原因かなんて分かるはずもない。
蛹になった俺に出来た事は、考える事だけ。
まるで無限の就寝前、無限の授業中、そんな風に空想を広げ続けただけだ。
――こうなって尚、役には立たない事ばかり考えているんだな。
神様は物事の原因を語りたがらない。
例えば、例えば、考え出すとキリがない。
何万人に一人の奇病に罹った理由だって、いくら十字架を握っても、頭を下げても、教えてはくれない。
今、この状況もそうだ。
どうして俺がこうなったか、周りにいたであろう人間達がこうなっているのかは分からない。
現実だけを受け入れろというのは酷だが、どうせ俺も仲間入りなのだと考えると気も楽だった。
――そろそろだ、手が動く。
太腿が、膝が、足が震える。
口角が上がる。
――どうしてか、笑い声が溢れる。
身体に力を込める度に、パキ、パキリと壁が音を立てる。
声にならぬ声ではない、はっきりとした笑い声が、自分の耳に届く。
――さあ、俺は何になった? 手に力を込めると、爪の先が壁に突き刺さるのが分かった。どうしてか背中に力が込められるのが不思議だった、けれど考えるならすぐに分かる事だ。――俺は今、何かへと羽化しているんだから。 だから俺の背中には、きっと羽根がある。飛べるだろうか、飛べたら良い。それを希望と呼べるのかは分からないが、どうせなら飛びたいと思った。 俺を包んでいた蛹は、背中の方から布が裂けるような音と共に破れた。手に力を込めていた事もあって、勢いよく後ろへと仰け反った俺は、久々に月を見た。
雲ひとつ無い月の夜。
思えば、昼も夜も空は雲に包まれていたのだ。
月を見るのも久しぶりだ。
月光は、陽の光よりも暖かく感じた。
思わず涙が零れそうだった。嗚咽を漏らしたような気がした。けれど、そのどちらも気の所為だ。俺はかろうじて母音に聞こえるような音を立てて、言葉が出るのかを確かめながら、ゆっくりと目の前の校舎のガラスに近づく。
あえて下を向いて自分の身体を確認する事はしなかった。
足があるという事実だけを受け止めて、手が動くという事実だけを受け止めて、周りを見渡した。
そこら中にある、人の大きさをした蛹。
中身の無い物もあれば、未だ羽化していない蛹もあった。
そして壊されたように見える物もある。
そして漸く、"俺"は前を向く。
前を向くという行為が、時々自分を受け入れるという行為と類似すると言われる事がある。
今はまさに、その時だった。
俺はやっと、自分の身体を写す。
――ああ、やはりこれは決して、夢に見た転生ではない。
分かってはいたが、これは不条理な何かだ。
強いていうなら変身と声高らかに叫んで悪と戦うバイク乗りのヒーローのなり損ないだろうか。
腕や足元はよく似ているようにも見える。
だが、何よりも顔が、上から布でもかけられたかのように、溶けていた。
その上に、角のなり損ないがニ本見える、その両方は長さも太さも不均等だった。
黒色の身体に不釣り合いな白い角が、月の明かりに照らされていた。
とにかく分かるのは、自分はもう人間ではないという事。
そして、周りで彷徨く同胞達とも、姿形が違うという事だ。
割られたガラス片に、機能しているのか分からないようなバリケード。
そこら中に転がる人の死骸と、俺を気にも留めない同胞達。
同胞達の姿は大体がカマキリによく似た姿をしていた。
大きさや形状に多少の違いはあれど、その手は大体鎌になっている。
――であれば、何故俺だけがこんな歪なのだろう。
その理由も、今はあまり考えたくなかった。
目に映る光景は、流石に想像はしていたとはいえ、堪えた。
人の死骸に食欲と吐き気を同時に催す。
だが、今はまだ吐き気が勝った。
あえて、下は向かない。まだ、下は向けない。
拳を握りしめる事は出来た。
それが精一杯だった、指が五本あるという事に気付いて、涙が溢れそうだった。
音と、匂いと、空想だけでは理解出来ない。
想像を越えた世界が、待っていたのだ。
つまりは、見える範囲の話ではあるが、どうやらこの様子だと、世界は、終わってしまったようだ。
「ああ、ああ……」
声が溢れる。少しずつ、身体が乾いて行く。それとは対照的に、心は滾っていく。
「どう、して……」
俺はガラスに映る自分の姿をもう一度見つめる。
まるで影のように真っ黒で、今にもこの夜に溶けて消えてしまいそうな風貌。
人それぞれという言葉がジョークになったような姿。
――こうなって尚、俺は周りと違うんだな。
「つまりは……、貧乏、くじ」
何処に口があるのだろうか、何処に目があるのだろうか。
はっきりと分からない。
けれど声が出た。
周りにいる同胞達は俺の声を気にせずに、彼らなりの人ならぬ声を出している。
意思疎通が出来るのはきっと人間。
けれど、俺の姿は化け物。
「ああ、カフカ。 はは、は、ああ……」
物言わぬ毒虫として、死んだ方がマシだっただろうか。
ひとしきり笑った後に、その爪でガラスを撫でた。
簡単に割れたそのガラスの音に、近くにいた同胞がこちらを睨む。
「ああ、どうだ。調子は……」
手を挙げて笑いかけると、そいつは大きな羽根を広げて、遠くへと飛び立っていった。
どうやら同胞とは思っていても、言葉は通じないらしい。
「羽根、羽根ね……」
座り込み、ガラスに身体を寄せると、俺の背中にも黒いソレがあるのが見えた。
だが、力を込めてもそれはピクリとも動かない。
「飛べない、か」
小さく呟いて、動かない羽根をガラスにつけて空を見上げた。
夏の熱気に、冷えたガラスの感触、蛹から出てからの妙な疲労感。
きっと俺に眠りが許されたなら、よく眠れただろうに。
ボウっと、彷徨く同胞を眺める。
俺に似た姿の同胞は見当たらない。
「どうした、もん、かな」
まだ上手く口が回らない。
話す事が出来る事は分かっても、これじゃ化け物の唸り声と思われても仕方ないかもしれない。
けれど、この状態で俺は何をすべきだろうか。
諦観が心を支配しかけていた。だって仕方ないじゃないか。
目が覚めると、世界が終わっていた。
目が覚めると、人間では無くなっていた。
「フランツ・カフカの言う通り……」
フランツ・カフカ曰く『人生の意味はそれが終わる』という事らしい。
であれば、化け物に変身して終わってしまった俺の人としての生の意味はあったのだろうか。
人の生を終えて尚、考える事をやめられずに言葉すら出てきてしまった俺の意味は何なのだろうか。
そこまでの意味を、もう既に人生を終えてその意味を成した故人に求めるのは酷かもしれない。
「でも」
それでも、教えてほしかった。
肯定して欲しかった。
俺が人として死んで尚、化け物となって尚、思考を巡らせて、声を吐き出して、読みかじりのフランツ・カフカを思うこんな夜に、意味があるのだと思いたかった。
「言う通りでも、まだ、俺は」
諦めた瞬間に、終わる気がした。
それは、蛹の中でずっと考えていた事だった。
だから俺は考え続けたのだ、溶ける身体の不快感の中で、次の瞬間を考えた。
絶望をたっぷりと混ぜられたような蛹の中で、希望に満ちた夢物語を考え続けたのだ。
だから、すべき事はもう決めていた。
出来るならそうすべきだと、考えていたのだ。
懺悔の時にも、少しだけ考えた事だ。
「間に合うなら、ちゃんと、生きる」
――だから俺は、今しがた聞こえたばかりの叫び声に立ち上がった。
その声に聞き覚えは無い。
けれど俺は、不条理に終わらされる事を人生の意味とはしたくなかった。
カフカの言う『終わる』という事が意味であるとしたら、『終わらされる』事は人生の意味にはならないと、そう思った。
殺されて終わる誰かの人生に意味を求めるなんて、悲しすぎる。
不条理に巻き込まれて終わった俺の人としての生にも意味は無かった。
けれど、もし生きていたいとしたら。
この叫び声の主が生きていたいとしたら、そして俺がそれを助けられるとしたなら、声の主の生にも、俺の生にも、終わりよりももっと強い意味がある。
俺は地面を蹴り飛ばしながら、声のする方へと急ぐ。
駆けるのが心地良い、力が漲っている。
昔付けていた眼鏡なんて無くても、こんな夜でも、前がはっきりと見える。
耳も聞こえる。
切り裂かれる音はまだ聞こえない。
「悪くない……、悪くない」
まるでその気持ちを強引に信じ込むように呟きながら、俺は夜を駆けていく。
グダグダと考えるよりも、今となってはこの方がずっと気持ち良い事に気付きながら、記憶を頼りに校舎の裏へと回る。
声の主は、おそらくそこにいる。
校舎裏口、鉄扉を背にして、女生徒が一人。
そして、その目の前に、同胞が二匹見えた。
ヒーローになれずとも、この不条理の意味くらいは、解き明かしてやろうと思った。
それでもまずは目の前にいる、弱いものいじめをする良くない同胞にお灸を据えてやるのが最優先だ。
「変身、か」
小さく呟いて、俺は両手を握りしめる。
その力に、また口角が上がっているのが分かった。