冷凍庫から取り出したばかりのカップアイスが、コタツの上に置く事で少しずつ柔らかくなっていく。熱が表面から伝わっていくのが目に見える。コタツ布団に足を投げ出した理緒は、背中を丸めてバニラアイスを見つめていた。もちろんスプーンも包装されたまますぐ横に添えている。
「こんなに寒いのに、アイスを食べるのか」
リビングのドアが開くや否や低い声が響き、理緒はゆっくりと顔をあげた。
「誠、おかえりなさい」
「母さんは?」
「買い物に行ってくるって。私が留守番してた」
「別にいらないけど」
巻いたマフラーの下でうんざりとした表情を浮かべた誠は、ドアの向こうへと消えてしまった。代わりに、廊下の奥にある洗面所から水音が聞こえ、その後階段を昇る足音が響いた。木造二階建ての誠の家は、理緒のお隣さんだ。かすかな物音も耳心地よく、誠の家の空気の一部となって佇んでいる。
コタツテーブルに置いていたプラスチックスプーンは、透明のビニル袋に包装されている。コタツにあたっていても熱が通いきらない指先で、どうにかスプーンを取り出し、理緒はアイスクリームをつつく。程よい柔らかさが指先に伝わり、緩んだ口元に掬ったそれを運ぶ。甘いクリームとバニラエッセンスの香りが、口の中でとろけていく。理緒が幸せの瞬間を文字通り噛みしめていると、再びリビングのドアが開いた。先ほどまで制服を着ていた誠が、スウェット姿になっている。それだけで学校で見る誠とはずいぶんと雰囲気が変わる。
「おまえ、まだ食べているのか?」
「今食べ始めたの。ちょうどよくなるまで、待ってたの」
理緒の正面に座った誠がコタツに入ってきたことで、コタツの中の温度が下がったように思う。足先に触れたのは間違いなく誠の足先で、理緒は思わず足を引っ込めた。
「ちょっと、冷たい」
「帰ってきたばかりなんだから当然だろう」
よく見ると誠のかけている眼鏡もうっすら曇っている。外との気温差を改めて知る。まだ春の気配が遠い、二月の終わり。
「今日、学校に行っていたんだね」
「ああ、前期試験終わったし、その報告とか色々」
高校三年生である理緒と誠は、すでに学校へは自由登校となっており、受験を終わらせて早々に自由を満喫している生徒も多いなか、誠はつい先日にようやく前期試験を終えた受験生らしい受験生だ。難関としても有名な県外の大学に受験すると理緒が知ったのは、一月の共通試験が行われる直前の事だった。すでに推薦で自宅から通える進学先を決めている理緒とは違い、誠の覚悟が滲んだ日々。
「試験、どうだったの。受かりそう?」
「それは結果が出るまで分からない」
遠慮のない物言いができるのも、幼馴染の特権なのかもしれない。誠の言う事は至極正しく、投げかけた質問が求めていた返答を得ないまま宙ぶらりんとなる。
理緒はスプーンでアイスクリームを掬う。冷たい甘みが胃に伝っている感覚とともに、誠の視線を感じて顔をあげた。
「……なに?」
「いや……。おまえは本当に美味そうに食べるよな」
「だって美味しいんだもん」
「うん。でも、そうやって思っている事を出せるって、理緒の才能だと思う」
照れ隠しの様子もなく、ましてやお世辞でもない。まっすぐな誠の言葉に、理緒は眉を潜めた。遠慮のない物言いができるのは、幼馴染の特権だ。誠が理緒を褒めるような言い方をしたのは、理緒の知る限り初めての事だった。
「どうしたの、誠。勉強しすぎでおかしくなった?」
テーブルに身を乗り出して誠の顔を覗き込むと、誠が心底嫌そうな顔をして理緒を払いのける。ああ、いつもの誠だ。安堵が胸に広がっていくのを覚えながら、理緒は座り直してアイスを食べた。
物事をストレートに発言する誠は、誤解をされやすく敵を作りやすい。幼い頃から勉強ができて、大人達には秀才だともてはやされた。しかし比較される子供にとっては妬みの対象となり、やっかみを受ける事もあった。そんな中で、理緒だけは誠を理解できると思っていた。だけど、それが勘違いだったと気づいたのは、誠の進学先を知らされた時だ。
このリビングで過ごしていると、自然と背筋を正したくなるような、心地よい緊張感が行き渡っている気がする。誠の家では常習的にテレビを付ける事はない。特にテレビが嫌いというわけではなく、単に習慣の違いだと誠は言う。その代わり、誠はよく本を読んでいた。小学生の頃、図書室で借りた本の冊数が一番多いと表彰された事もあった。ジャンルは多岐に渡っていたので、誠は物知りだった。不器用でも、クラスメイトと打ち解けにくい性格でも、少々運動が苦手でも、理緒にとっては自慢の幼馴染だったのに。
残り少なくなったアイスが少しずつ形を変えていく。硬すぎたアイスがちょうどよい硬さを保つ時間なんて一瞬だ。理緒は誠と初めて出会った時の事を思い出す。
何の変哲もない一軒家の立ち並ぶ住宅街で、理緒の家の隣に誠の家族が引越してきたのは、二人が六歳の頃だった。小学校への入学を控えていた三月、母親に連れられて挨拶にやって来た誠は、ほとんど表情を変える事なく、挨拶をした声はやけに大人びていて、理緒とは別の生き物のようだった。つまり、理緒は誠が苦手だった。小学校の入学式で理緒と誠と同じクラスになった事を双方の母親は喜んでいたが、理緒は嬉しくなかった。母親の手前、無視するわけにはいかない。だからと言って仲良くなれるなんて微塵にも思わなかった。
しかし、小学一年生の夏休みに入る前の七月のある日。小学校から一緒に下校していたクラスメイトと別れてから家に着いた理緒は、ある事に戸惑っていた。家の鍵を紛失してしまったのだ。理緒の両親は共働きで、保育園時代は母親がいつも迎えに来てくれたが、小学校ではそうはいかない。鍵を持つという事は六歳の理緒にとって大人への階段で、憧れでもあった。絶対に失くしてはいけないからね、と渡された鍵には、理緒のお気に入りのキーホルダーが付けられていた。そのままそっくり失くしてしまった事に戸惑った感情は、そのまま涙となり、漁ったランドセルもそのままに、自宅の前で呆然と立ち尽くしていた理緒に声をかけてくれたのは、誠だった。
――どうしたの。
六歳らしからぬ滑舌で、誠は訊ねた。
――あのね、鍵を失くしたの。
泣きじゃくりながらどうにかそう答えた理緒を、誠は怒りも呆れもせずに、理緒から状況を詳しく聞き出してくれた。そして理緒の手を取って小学校へと向かい、理緒の歩いた道を一順ずつ確認し、眼鏡越しにアスファルトを見据えながら歩いた。
鍵は、昇降口の下駄箱の前に落ちていた。そういえば、理緒は宿題のプリントがランドセルに入っているかどうかをここで確認したのだった。きっとその時に滑り落ちてしまったのだろう。
特に優しい言葉を発したわけでもなく、理緒をなだめたわけでもない。だけど、そこには優しさが滲んでいるように見えて、それから理緒は誠に心を開き始めたのだった。
「誠……」
溶けていくアイスを眺めながら、理緒はつぶやいた。
「本当に、ここを出て行っちゃうの?」
「だから結果が出るまでは分からないって」
どこまでも正しい誠に、目の奥がつんと痛くなった。アイスなんかよりもずっと熱を持った液体が、ぽとりとテーブルに落ちる。滲んだ視界の向こうから、誠が理緒を見ていた。
「理緒……?」
小学校も中学校も同じだった。高校は、誠と同じところに行きたくて受験勉強を頑張った。いくら何でも大学まで一緒だなんて勘違いをしていたわけじゃない。優秀な誠には広い未来が待っている。頭では分かっているのに、現実味が増した途端、これまでの日々に隙間風が吹き込むようだった。
満ち足りていたのだと気づくのは、失った事で空白の存在を認めるからだ。
「理緒、どうしたんだよ……?」
珍しく戸惑いを表情に浮かべた誠が、テーブル越しに理緒の顔を覗き込んだ。間近で見る誠の瞳は澄んでいて、とても綺麗だ。眼鏡のレンズが邪魔だな、と思うのと同時に、眼鏡を外したら今度こそ誠が知らない人になってしまうかもしれないという焦りが生じた。理緒の知らない場所で、理緒の知らない人達に囲まれて、誠の世界は遠く離れてしまう。
「……私も、誠みたいになりたかった」
一度落ちた涙は、留まる事を知らずに次々と溢れて頬を濡らしていく。
「誠みたいに頭がよくて、優しい人になれたらよかった。周りに流されずに自信をもっていられたらよかった。……誠と同じ大学に行けたらよかった」
幼馴染とはいえ、理緒は常に誠と一緒に過ごしていたわけじゃない。不器用で嘘をつけない誠とは対照的に、理緒はクラスに馴染もうと必死になっていた。女子のグループから弾かれないように、適度な普通を取り柄として周囲に溶け込んでいた。ただし、それはあくまで表面上の話だ。卒業を目前とした今となっては、高校生活で何が残ったというのだろうか。
「馬鹿だな、理緒」
テーブルの上に置いてあるティッシュの箱を理緒に渡しながら、誠が小さく笑う。
「おまえの良さは、俺がよく知っているよ。いつも周りを考えて、周りに気を遣っていただろう。それも、理緒の才能だ」
眼鏡の奥にある瞳が、今までにないほど優しく微笑んでいるように見えて、ますます涙が零れた。
この感覚を理緒は知っている。理緒が苦しんでいる時、いつも誠は助けてくれた。鍵を失くした時も、テストで赤点を取った時も、失恋をした時も、将来に悩んでいた時も。
窓の外では車のエンジン音が響いている。誠の母親が帰ってきたのだ。夕食時になり、そろそろ理緒は隣の自宅へと帰らなければならない。
理緒はティッシュで涙を拭く。テーブルに置かれたままのアイスは、カップの中でどろどろに溶けていた。形の変わる未来がやってくる前に、もう少しだけちょうどいい関係に浸る事は許されるだろうか。高校を卒業するのは、明後日だ。