「人はパンのみで生きるにあらず、って言葉を知っていますか?」
不意の言葉に感じ取ったのは、戸惑いよりも呆れだった。
何を唐突にと言ってやろうかと思ったが、自分の眼前にあるのは乱雑に開かれた教科書。それも三年生用のもの。
それを眼前に、二年生の彼女が物知り顔で講釈を垂れる。これは誰の言葉でしょう、などと腹の立つ貌で。
知ったことか、と言いたいのが実情であるが、それを言ったところで返ってくるのは罵倒の声と眼前の教科書を丸めての殴打攻撃であろうことは想像に難くない。それは困る。教科書は意外と叩かれると痛いのだ。何故知っているのかという点については、黙秘権を行使させて頂きたい。
「せつ菜、大事なのは誰が言ったことかよりもそれが何を意味しているかじゃないかしら?」
「なんかそれっぽいことを言ってますが正直わからないんでしょう」
「それこそ論点のすり替えだわ。まずは私の意見を聞いて頂戴」
半眼で此方を見る彼女が、何かを言いたげに口を開きかけるが、結局は何の言葉も紡がずに沈黙を選んだ。
沈黙こそが肯定。そして受諾。何よりも催促。
さぁ早く言ってみて下さい。
言外にそう促してくる彼女に対して、胸を張り、堂々と言葉を紡いだ。
「主食はパンよりもご飯のほうが腹持ちがいいわ」
教科書で思いっきり殴られた。
何故だ。こんなにも堂々と言ってのけたというのに、一体何が間違いだったのかと自分の発言を顧みて問題点を洗いだそうとするが、その前に言葉が降ってくる。
心底呆れたような声音。寧ろ色合いとしては憐憫だかの方が濃いのかも知れない。
「……果林さん、今年、受験生ですよね?」
「何を今更なことを言ってるのせつ菜。大丈夫?」
「大丈夫じゃない人に大丈夫か訊かれたくないですよ」
そういうものだろうか。色々と難しい。
誰も居ないスクールアイドル同好会の部室内、机を挟んで向き合っている彼女が深い深い溜め息と共に頭を垂れた。
「もしかして、私と同級生になろうとしてます……?」
「例え卒業できなかったとしてもそれだけは御免被るわ」
「その減らず口というか意気があるならどうしてそれを勉強に回せないんですか」
あーもー、などと声を漏らしながらも、今しがた自分の頭を叩いた教科書を元に戻して該当するページを開いて説明してくれようとする彼女は生真面目極まりない。そも、彼女が自分の勉強の面倒を見る必要なんて存在しないのに。
それを言い出してしまえば一年後輩の彼女に勉強を教えてもらっている現状こそが問題であるという認識が追いついてくるが、そんなものは極めて前向きに処理する。自分は勉強が出来ない。彼女は勉強が出来る。それだけのこと。
大切なのは、それだけのことの向こう側。
わざわざ自分の時間まで、彼女にとっての大事な大事なスクールアイドルとしての時間を削ってまで、己に向き合ってくれているという事実。
別段罪悪感だとかがあるわけじゃない。
罪悪感というよりは、優越感。「あの」優木せつ菜のスクールアイドルとしての時間を、「この」朝香果林が自らのために使わせているという事実。
ただ、本当に正確を期すならば、彼女の側が頼んでもないのに率先して自分に彼女の時間を分け与えている。
甘いのだろうか。苦いのだろうか。
舌で転がしてはみるが、今のところ、結論は出ていない。
人はパンのみで生きるにあらず。
ならば今自分が食べているのは、一体何なのだろうか。パンでもなければ白米でもない、彼女の時間。
それを血肉になるかどうかもわからないのに口を開いて貪っている、飽食。或いは貪食。
そんなことをつらつらと考えていると、不意、一つの理解が及ぶ。
この時間を幾ら重ねたところで自分の学力が上がるかどうかはわからない。身になるのかも血になるのかも不確かだ。
だが、それでも。
「ねぇ、せつ菜」
名前を呼ぶ。
すると彼女がやはり生真面目に、何ですか、と答えながら顔を上げるから。
余り大きくはないテーブルの端から身を乗り出して、その唇を奪ってやった。
甘い味。きっと彼女が脳の疲れを取るためだとかで転がしていた飴の味が、自分の舌に伝わる。それを舐って絡めて味わってから、身を離した。
眼前には、夕焼けの朱色よりも真っ赤に染まった彼女の貌。何かを言おうとして、だけど何も言えずにただただ無言で驚愕を示す己の愛しい貌。可愛い可愛い、後輩の貌。
それを見据えながら、愛でながら、笑った。
人はパンのみで生きるにあらず。パンだけじゃ腹持ちが悪い。ご飯だって全部を満たせるわけじゃない。
彼女の甘い味も、こんな貌を愛でる楽しみも、ただの食事なんてものは満たしてはくれないから。
「人はパンのみで生きるにあらず。―――確かに、デザートも必要よね」
そう告げた瞬間、再度の教科書の打撃を前に、思う。
ごちそうさまでした。