「ねぇかすみさん、私が渡したチョコはもう食べてくれた?」
ほんの何気ない瞬間の、些細な会話。普段通りに放課後の練習も終わり、片付けと着替えも終わって後は帰るだけとなった夕刻のこと。
荷物を詰め込んだバッグを背負っていざや帰途に着かんとしていたその瞬間に、まるで楔を打つかのように差し向けられたその言葉。
桜坂しずくの言葉に、中須かすみの動きは停止した。
何も不意を突かれたことだけが原因ではない。その程度でこんな長い空白を生じさせるような関係性では最早ないと、そんなことを頭の何処か片隅で考えていたりもする程度には親密かつ雑な付き合いだ。
ならば、この生じた長い空白は一体何なのか。答えは、至極単純。
思い当たる節がない。
中須かすみには、今年、桜坂しずくからバレンタインチョコを受け取った記憶がないのだ。
いやちょっと待て。もしかしたら、ありえないことかもしれないが、自分が忘れているだけなのかも知れないと思っておよそ一週間前の記憶を漁ってみるが、自分がしずくにチョコを渡しただけで此方は何も貰ってない。渡した瞬間のことならばその時の情景から彼女の見せた反応まで含めて、何もかもを鮮明に思い出すことが出来る。少なくとも記憶違いや都合の良い妄想なんてことだけは、絶対にない。そしてその鮮明な記憶はすぐに、地続きで彼女からお返しの何かなりバレンタインのチョコに類する何かを貰ってないという記憶の証左に繋がってくれた。そういや本気で何も渡されてないな何だこの損した感じというか不公平感、と思いながらも、記憶を漁る為に閉じた瞳を開く。
開いた視界の中央には、桜坂しずく。よくよく見慣れた顔が、感想への期待に落ち着きなく両手を前に組んで、微かに身を固くしている。こうしていればそれこそ深窓の令嬢のようなのに。何故にその恥じらいだとか奥ゆかしさめいた何かを普段から見せることが出来ないのだろうかと心底不思議に思いながらも、己の中で出た結論を口にする。
自らの中で導き出された答えもまた、ひどく単純明快。勿体ぶる要素なんて何処にもない。
故、かすみは極めて正直に、
「ごめん。結構真剣に思い出そうとしたけど真面目にしず子から貰った記憶がない」
「かすみさんの馬鹿――――――――――――――――――――――――――っ!!」
この上なく正直に言ったら、全力で罵倒された。真剣に貰った覚えがないので理不尽感が凄まじいが、それ以上にボイストレーニングもしているスクールアイドルの、さらにいえば舞台上で声を張ることを将来的には生業としようとする演劇部員のフルパワーでの発声に鼓膜を守ることで精一杯だ。少しでも反応が遅れていたら両耳の鼓膜を持って行かれるところだった。この女、人からバレンタインのチョコレートを貰っただけで飽き足らず鼓膜まで持って行くつもりか。言語化して伝えてしまえば、「え、貰えるんだったら貰うよ」とか何処までも真剣かつフラットな表情で言い出しかねないので言葉にはしないが。
されど。
桜坂しずくが様々な意味でおかしいのは平常運転であるが、それでも、かすみならばともかくしずくの方がこんな叫び声をあげるのは非常に珍しい。故に、視線が此方に集中する。
虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会の面々。気の置けない仲間である彼女達は、掛け値なしの愛情やら信頼を自分に向けてくれる時もあれば、時には忌憚のない意見すらぶつけてくることだってある。それらがいつだって成長の糧にもなれば、また、自分でも気付かない自分へと繋がる扉になることだって中須かすみはよく知っている。
そんな彼女達が、己の方を見て全く同じことを考えている。
わかる。誰も何も言葉にしていないが、感覚的に理解できる。
だって自分達は仲間だけどライバル。ライバルだけど仲間だから。
そんな彼女達が今何を思っているかを察するなんて、とてもとても簡単だ。そう。
―――流石にチョコ貰ったことを忘れるのはないわあ。
「か、かすみん本当に貰ってないですもん!! 信じて下さいよ皆ぁっ!!」
かすみが悲痛な叫びと共に彼女らへと一歩近寄ろうとすると、同好会メンバーの皆が一歩引いた。何処までも息ぴったりだ。虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会の団結は今この瞬間にも決して揺らぐことはない。問題は現在進行形でその団結の中から中須かすみだけが除外されていることだが。
つらい。
どうして貰った覚えのないチョコを貰ってないと言っただけでこんな目に合わなければいけないのか。世の中は理不尽だ。かすみが世の厳しさや不条理に膝をつきそうになっていると、皆の中ら、歩夢が意を決したように前に出て来る。
上原歩夢。心優しき二年生の彼女は、後輩の嘆きを見過ごせない。
故に、嘆き悲しむかすみに対し、笑みを作って、視線を合わせれば。
その柔らかな、まるで春の日差しを思わせるような微笑をかすみに向けて、そっと手を差し出しながら言葉を紡ぐ。彼女の気性と同じように優しく沁み渡るような声音が、穏やかに響いて。
「かすみちゃん。大丈夫、かすみちゃんのその軽く外道入っている性格もきっときっと特殊な層には需要がある筈だから、私は、そのままの若干人としてどうかと思うかすみちゃんのままでいいと思うよっ」
「ナチュラルに悪意なくトドメを刺しに来るのやめてもらえませんか、歩夢先輩!?」
「私はそんな外道方面突っ走っているかすみさんもドキドキしていいと思うよっ!!」
「あんたの不用意な謎の発言の所為でこんなことになってるんだからねしず子っ!?」
「でも私きちんとかすみさんにチョコあげたもん!! 間違いなくかすみさんボックスの中に入れて渡したもん!! そのことについては一切何も伝えてないしヒントも与えてないけど!!」
「それは渡したとは言わねぇ――――――――――――――――っ!!」
そもそも、あげたもん、って何だ。もん、って。
桜坂しずくの新しい一面にときめく場面なのかもしれないが、様々な意味でそれどころの騒ぎではない。
弾かれるように動き出し、部屋に備え付けられたかすみんボックスを開く。
一時期は本当にこの部室のマスコット的扱いでことあるごとに皆の話題に上って愛されて時には弄ばれていたかすみんボックスも、時の流れと共にそこに在ることが当然となっていき、今ではかすみ自身も最後にその開閉部を開いたのがどのくらい前だったのかを即座に思い出せない。
故に開閉には多少の不安があったものの、まるで常日頃から丁寧なメンテナンスでも受けているかのような滑らかさで、ほとんど何の抵抗もなく開いた。
そして、中須かすみは見る。
かすみんボックス、その頭部の中に溢れんばかりに収められた大量のチョコを。
一つ一つは大して大きいとはいえないサイズだが、その分だけ、量が多い。数にすれば、十に届くだろうか。或いはそれを超えるやもしれぬ。
それだけのチョコレートが、かすみんボックスの中に所狭しと詰め込まれていた。
みつしり。
敢えてその様をオノマトペを用いて表すとするならば、そんなところだろうか。
いいだろうか。みっしり、ではない。みつしり、だ。
そう、それこそかすみんボックスの頭の中には、チョコがみつしりと詰まっていた。
中須かすみは本来は聡明な少女だ。頭の回転は悪くないし、様々な意味で知恵が回る。ただ運悪く多少勉学が苦手なだけである。故に思慮深く、細心の注意にて言葉を選んで、彼女はその様を形容する。
かすみんボックスの頭の中にみつしりと詰まったチョコレート。そんな様々な意味で日常から掛け離れてしまった非日常の塊みたいな存在を、されど、決してその特異性に圧倒されないように、寧ろこの表現にて己の感覚の中に落とし込めて支配してやろうという気概すら何処か込めて、今この瞬間に形容する。彼女の中で下された形容、その結論は。
まるで脳漿みたいだ。
長い熟考の末に導き出した唯一無二の彼女だけの、そして彼女の嘘偽りも何もない率直な形容を心の中で紡ぐ。満足だ。もうどう考えてもこれ以上の形容は出てこない。中須かすみは、今日も良い仕事をした。
様々な意味で深く深く一度頷いてから、かすみんボックスの頭部を閉じる。その上で、桜坂しずくを見た。馬鹿女優が、滅茶苦茶ドヤ顔で胸を張っている。それこそ先程のかすみのように、何か大業を成し遂げたかのような風格すら備えたドヤ顔っぷりだ。
そして、そのドヤ顔のままで口を開き、
「かすみさんへの愛を可能な限り詰め込みました」
「どうしてよりにもよってこの場所に可能な限り詰め込もうと考えちゃったの!?」
「かすみさん。―――恋する乙女の心は複雑怪奇なんだよ」
「今回のこれはあんたの思考とかが複雑怪奇なだけだよ!!」
全国の恋する乙女を巻き込んで自爆しようとするなこの馬鹿女優。
しかもなんでよりにもよってチョコの包装をピンク色にしたんだ。より脳漿っぽさが強調されているじゃないか。可愛いを狙ったのか。どうしてそこで素直に自分のシンボルカラーの水色とか、かすみの黄色に出来なかったんだ。自分に対する愛をチョコの量で表そうと考えるのならばどうしてそこでもう一歩踏み込んで互いの色を選ぶとか言う発想に至れなかったのかが非常に不思議でならない。そもそも論でいえばかすみんボックスの中にチョコを詰め込もうと思考した時点で様々な意味で理解が及ばぬ相手なのだが、そろそろ本気でどうしてこんなのと一緒に居るのかよくわからなくなってきた。しずかす解散危機だろうか。否、この女を此処で野放しにする方がよっぽど危険だ。結局は自分が面倒を見ねばなるまい。しずかす解散危機回避だ。
だが、それにしても。
ことごとく様々なことが裏目に出ることで有名なしずくだが、その裏目に出たことによるダメージは総じて彼女自身ではなくかすみに来るのが常だ。何だこの女、無敵か。主に中須かすみに対して無敵なのか。無敵級*ビリーバーも真っ青の無敵っぷりだ。
かすみが無敵の女の対応に苦慮している間に、他のメンバーも代わる代わるかすみんボックスの頭部を覗いては時間差で「うわあ」と忌憚ない意見を述べていく。なんて素直で嘘偽りのない、信頼できるメンバーだろう。信頼と信用は別物であるが。
「かすみさんもかすみさんだよ。どうしてかすみさんボックスの中を確認してないの?」
「いやどうして今は別に投書も何も求めてない、ただの置物としてのかすみんボックスの中を定期的に確認しなければいけないの?」
「私は定期的に確認しているよ。―――だって、かすみさんボックスを開ける時って、こう、かすみさんの頭を開いているみたいで、ちょっと興奮するじゃない」
「「「「「「「「「「「うわあ」」」」」」」」」」」」」
「は、早い!! かすみんがまだ引いてないのに皆先に引かないでくださいよお!?」
じゃあかすみが引いてからなら引いてもいいのか、と皆が視線で問い掛けて来るが無視する。自分も様々な意味で桜坂しずくに毒されてきている気がするが、人間とは慣れる生き物なのでこの辺りについても前向きに処理するしかない。
どんなに前向きに処理したところで地面の中に埋まっているのが地雷から何か別のものに変わるわけではないという辺り様々な意味で救いはないのかもしれないが、こういったものは気分だ。どうにか自分を奮い立たせろ中須かすみ。
そんなこんなを思って無理矢理にでも自分を鼓舞していると、また、控えめに声が響く。
それは先にも聞いた声、上原歩夢の声だ。彼女が皆の中からまた前に歩み出て、優しく、己を見つめてくれれば。
「まぁそもそもかすみちゃんが毒されているっていうより、かすみちゃんの存在でより一層しずくちゃんのアレな部分が明確かつ明瞭になってきて何かそのついででかすみちゃんもアレな感じになっていってるだけな気がするけどね」
「歩夢先輩! 歩夢先輩! 色々と仮定をすっ飛ばしてというか行間を読み取り過ぎて滅茶苦茶的確かつ怖いことを唐突に言い出すのやめてくれませんか!?」
「ところでかすみさん、ホワイトデーの三倍返しの件についてなんだけど」
「それって今この混沌とし過ぎている状況で出来る話!? しず子のメンタルって何なの!? 強靭なの!? 無敵なの!? 最強なの!? 青眼の白龍なの!?」
「かすみさんの為なら私はいつだって最強無敵になれるよっ!」
「無駄に頼もしいけどその結果がかすみんボックスチョコレート詰め込み過ぎ脳漿事件なのがいろんな意味で不安でしかないしそのしず子の無敵な攻撃力って毎回かすみんの方向にばっか発揮されてるんだけど――――――――っ!?」
「かすみちゃん、さらっと貰ったチョコをそう言っちゃうの少しばかり外道ポイント高過ぎないかな? 私、どうかと思うな」
「歩夢先輩だってしっかりと『うわあ』って言ってましたよね!? ね!? 心に作ってる棚の高さと広さ凄くないですか!?」
このようなやり取りが延々と繰り広げられ、結果として、かすみんボックスの頭部から桜坂しずくのチョコが摘出されるまでにはさらに一時間を要することとなる。