すっかり冷たくなってしまった手指に、息を吹きかける。
手袋をしている上から息を吹きかけてもあまり意味ないんじゃないかな、などと隣を歩む桜坂しずくが至極冷静に正論を述べて来るが、正論にこの寒波をどうにかするような効能は現時点ではどの学説も証明していない。今この状況に必要なのは、正論ではなくプラシーボ効果による胡散臭い暖だ。
正論はいつだって正しく綺麗ではあるが、いつだって優しく甘やかせてはくれない。
人は徐々にこうやって正論というものに憎悪を覚えていくのだろうか、なんて中須かすみが自身の将来への一抹の不安を覚えてしまう程度には、寒い寒い帰り道。
己の隣をあまりにも違和感なく定位置としながら歩むしずくも、首に巻いたマフラーを僅かに締め直した。なんのかんの言っても、彼女だって寒いものは寒いのだ。
様々な意味で浮世離れし過ぎている己の相方の、そんな何処かわざとらしくもある人間らしい所作。
それに僅かなりとも嬉しさだとか喜びを覚えてしまうのは、惚れた弱みとかいうものか。いやそもそもそんな人間性を垣間見ただけで喜ぶ相手ってどうなんだという自己批判は確かに自分の中に存在するが、中須かすみは世界一可愛いのでそんな自己批判には耳を貸さない。
可愛いは絶対正義。かすみんは世界一可愛い。中須かすみは世界一の絶対正義。
完璧な三段論法だ。何一つ桜坂しずくのアレっぷりをフォローできていないところだけが唯一無二の欠点であるが。
ともあれ、寒い寒いと声を出そうにも、そうして開いた口の動きやら何やらでマフラーに隙間が出来て、そこに北風が吹き込んでさらに寒い思いをしてしまう。
ならばいっそのこと黙ってしまおうか。そう思うが、そういうわけにはいかぬ。
何しろ自分は、花も恥じらううら若き乙女にして、女子高生。
お喋りをせずして、何をする。交際相手と並んで帰る道ならば、なおのこと。
「寒いね、しず子」
「かすみさん、その言葉もう七回目だけど大丈夫? もしかして寒さで言語機能とか一部の判断力とか麻痺してない? そこの薬局でお薬買う? それとも病院行く?」
「うん、知ってた、しず子が何の悪意もなく極々自然にこういうこと言う奴だってこと」
「…………? よくわからないけど、かすみさんに私を知ってもらえるのは嬉しいな」
「本当そういうところだからね、しず子」
何がそういうところなのかは、敢えて言葉にしない。ただ、僅かに自身も先の彼女と同じように、マフラーを軽く巻き直して形を整える。そう、この行為は、北風の所為。
何も、彼女の屈託のない笑顔と此方を信頼しきった言葉に、照れているわけではなく。断じてこのマフラーの下にある世界一可愛いかすみんの頬が、真っ赤に熟れた林檎のように赤く染まっているなんて事実は存在しない。
「でも、こんなに寒いと、オフィーリアの散歩だって大変じゃないの?」
「あー……、まぁ、そうだね。いつもお散歩の時間は決めているんだけど、最近じゃ時間帯によって寒さの波が違うから、オフィーリアも散歩を嫌がったりして動こうとしないことがあるんだよね。冬は寒い方がかすみさん鍋にも味の深みが出て美味しく感じられるし、より温まるから、寒いこと自体は別に嫌いじゃないんだけどね」
「意外。犬って、皆お散歩が大好きなんじゃないの?」
「確かに好きな子は多いけど、でも、犬だってその日その日の気分や機嫌もあれば、大好きなものでも状況次第で嫌がることだってあるよ。でも、そうなると今度は、その日にお散歩に行ってないもんだから変な時間にお散歩に行きたがって大変なんだよね」
「しず子もオフィーリアに結構振り回されてんじゃん。かすみんの苦労も知ればいいよ」
「え? その言い方だとまるで私がかすみさんを振り回しているみたいじゃない?」
「まさかの自覚症状なしとは思わなかった」
「…………?」
何故にそこでキョトン顔しているんだとか無駄に貌が良くて腹が立つなどと言葉にはしないが、思うことは様々に存在する。だが、それよりも中須かすみは考える。
中須かすみだって、考えるべき時はきちんと考えるのだ。寧ろ周囲の連中が思考を放棄して本能のままに生きているような輩ばかりであることから、なおのこと。
たとえその思考がテストなどの結果に結びつかず、二十二点でにゃんにゃんなどと相方に小馬鹿にされようとも、中須かすみの知性の輝きは決して曇りはしない。
その知性の輝きが、今、この瞬間に訴えている。
―――かすみさん鍋って、何?
あまりにも自然に会話の中で出て来たから思わず流してしまったが、会話が進む中でその単語が中須かすみの胸中で占める割合はどんどん大きくなっていく。
否、そもそも最初の時点で凄まじい深さの穴をぶち開けてくれていたのだが、それが内部で凄まじい勢いで拡大化していく。
そもそもかすみさん鍋というものの存在自体が何なのかさっぱりわからないが、それ以上に恐ろしいのが、しずくがまるでその謎なかすみさん鍋なる存在を冬の風物詩のように語っていたことだ。何だかすみさん鍋って。毎冬やるものなのか。幼少期の頃から親しんできたものなのか。お前と初めて遭遇したのがこの学園に入学してからなのでまだ一年も経過していない筈なのにどうして毎年かすみさん鍋を嗜んでいるような風に語れるんだ。改めて思考の中で言語化したがやっぱりかすみさん鍋って何なんだ。念のためにもう一回言っておくが、かすみさん鍋って何なんだ。もし万が一にもまだ足りなかった時のためにさらにもう一回だけ置いておくが、かすみさん鍋って何なんだ。
わからない。わからないことがわからないということではなく、わからないことが何かは極めて明瞭なのにそのわからないものが本当に何なのかわからない。
もっと言ってしまえば今も自分の隣をにこやかに歩いている桜坂しずくの頭の中もよくわからない。何だ。今の発言の中に何か引っかかるところはなかったのか。もしかしたら彼女の中ではかすみさん鍋とは世界共通に普遍的に認識されるものなのか。その頭の中に存在する普遍性はどうしてそこまで一般人と共有できないものなんだ。
そこまで考えて、不意にまた別の恐怖が脳裏をよぎる。
万が一にかすみさん鍋が郷土料理とかになっていたら自分はどうすればいいのだろうか。
芸能雑誌よりもアイドル名鑑よりも先にるるぶとかの観光本に載りたくない。
中須かすみが平然を装いながら歩みを進めているものの、その脳内では凄まじい勢いで思考が回転している。だが悲しいかなどれだけ回転したところで、その回転力を他へと伝導する歯車がなければ外部にその動力は一切伝わらない。そもそもこの回転の力学が外部に伝達されたところで桜坂しずくの中に存在するかすみさん鍋なる謎の存在を消し去れるとは到底思えないわけなのだが。
だが、だからといってこのまま何もせずに白旗をあげることなどできようはずもないと、かすみが必死にかすみさん鍋の謎を解明するために思考を巡らせているその瞬間、そんな彼女の胸中など知る由もないしずくが、不意にかすみの制服の袖をそっと伸ばした指先で掴んだ。
心臓が跳ねる。
申し訳ないがときめきとかではない。狩人に銃口を突きつけられた獲物の心地だ。ただでさえ心臓の縮むような思いのする仮想シチュエーションだが、今回はそれに追加でかすみさん鍋とかいう謎の概念まで追加されている。怖さで言えば倍率ドンという奴だ。
だってそうだろう。自分でもその存在が何なのかを知らない自分の名前を冠した鍋を季節の風物詩としているような女に袖を掴まれたら、人は何を思うのか。答えは何処までもひどく単純。だからこそたった一言で、その思考は表現することが出来る。
喰われる。
あまりにも単純であるが故に何処までも真っ直ぐに突き刺さる感想。或いは思考。またまた或いは警鐘。
ならばそこに大盤振る舞いで、もう一言だけ付け加えておこう。
桜坂しずくに、喰われる。
「ひっ、ひい――――――――――――っ!!」
「か、かすみさん!? どうしたの突然!? やっぱり寒さで頭の結構大事なところとかに致命的なバグとか起こってない!? 大丈夫!? 背中をさするついでに胸も揉んでおこうか!? もしくはすぐ近くにあるホテルで休憩する!?」
「善意か下心かわからない提案をどさくさに紛れてするな――――――――っ!!」
怯えながらでもきちんとツッコミを入れるべきところではツッコミを入れられる。中須かすみはやればできる子だ。やらなければ自分がヤラれるとかいう厳しい現実は今この瞬間には見ないこととしておく。
だが、それが何であれこの状況で鋭く的確なツッコミを入れられたという事実は重要だ。そうでなければどさくさに紛れて三時間四千円とかいう料金設定で貞操が危機にさらされるところだった。というか何でこの付近にそんなホテルが存在することを認知しているんだ。調べたのか。調べてたんだな。一体何のためにとはやはり怖いので訊かないでおく。
この事実を成長と見ればいいのか適応と見ればいいのか良い意味で染まって来たのか悪い意味で染まってしまったのかは、かすみにはわからない。
でも、中須かすみにもわかることはある。それは。
「ご、ごめんっ、しず子っ。い、今のはちょっと驚いちゃっただけで……」
彼女に、謝ることだ。
かすみさん鍋が何なのかは、正直未だにわからない。今後も折に触れて考えて謎を解こうと思うし、るるぶも定期的に確認して郷土料理認定されてないかを確認しておこうと思う。機会があれば鎌倉の郷土館にも足を運んでおこう。桜坂しずくに直接訊くのは滅茶苦茶怖いので、極めて遠回しにかすみさん鍋の真実に近付いていきたいと思う。それはそうとして。
ただ己の袖を掴んできただけの彼女を、自分の勝手な想像からの恐怖によって、拒絶するかに叫んでしまった。中須かすみにとって、そんなことは許されない。そんなことを己に許す、中須かすみではない。
桜坂しずくが何処までも中須かすみに対して真剣で誠実であるように。
中須かすみも可能な限り桜坂しずくに対して真剣で誠実でありたい。
だから、謝った。慌てて頭を下げ、今の物言いを謝罪する。
どさくさに紛れて人の胸を揉もうとしていたりホテルに連れ込もうとしていたことに対するツッコミを謝っているわけではない。それについては後でしっかり問い詰める。桜坂しずくに対して可能な限り真剣で誠実でありたいから、彼女の不適切発言にはあまりに怖すぎるものを除いてきちんと問い詰めていくスタイルだ。
そしてそれについても真剣であることと同様に、今この瞬間の謝罪に対しても、真剣そのもの。
悲鳴めいた叫びへの、謝罪。
それを受け、しずくは、寧ろ何処か虚を突かれたような表情をして。
だが、すぐに、おかしそうに、面白そうに笑い出す。かすみのその様を何処までも心地良さそうに喜ばしげに見据えながら、目を弓にして笑う。
「ふふ、変なかすみさん。急に叫んだり謝ったり、本当、今日はちょっと変だよ」
「……色々と抗議したいところも物申したいところもあるけど、とりあえず、ごめん」
「いいよ。……ううん、こっちこそ悪いの。ただ、明日は学校もお休みだから、急だけど今日うちに泊まりに来ないか誘いたかったんだけど、あんまり直接伝えるのも恥ずかしくて持って回った言い方になっちゃったんだ。驚かせちゃって、ごめんね」
「しず子……」
互いに、思わず笑い合う。
こんな寒風吹き荒ぶ帰り道の中、往来のド真ん中で一体自分達は何をやっているんだろうかと。そんなおかしさに思わず笑みが零れ、されど、この笑いの衝動がとても心地良くて、笑い合った。うら若き乙女が大口を開けて笑うのははしたないとマフラーで口元を隠しているが、そんな互いに揃いの所作でさえ笑いの種となる。
そもそも今までの会話の何処に彼女が言うような泊まりに来ないか要素が紛れていたのかは謎だが、それでも、今この瞬間に笑い合えているのだからそんな瑣末事にこだわるのはやめておこう。
未だに風は冷たく、空気は肌を刺すかのよう。それでも、心はあたたかい。
己の制服の袖を掴んでいた彼女の指は、気付けば自分の手指に絡んできていて。かすみもまた、しずくのその求めに応じるように自ら彼女の指に己の指を絡める。
互いの指先は、冬の外気に晒されて等しく冷たい。だが、触れ合う皮膚の下で流れる人の熱が、否、そんな物理的な何かなんて無粋と思わせるような心だとかに起因する何かが互いの熱を高めさせ、すぐに絡む指すらあたたかくなる。
彼女の誘いへの答えは、もう、言葉にする必要もなかった。
「……じゃあ、流石にちょっと急だから、一回家に帰ってママに話してから、荷物纏めてしず子の家に行くね」
「……うん、待ってる。―――あ、それとかすみさん、一つだけお使い頼んでいい?」
不意のお願い事。だが、一宿一飯の恩を受けるのだ。どうぞ、と先を促す。
中須かすみは義理堅い女だ。彼女にこれから何かに恩を受けるというのなら、先に自分にできることを惜しむような女ではない。
するとしずくは、今日一番の、それこそ春の先触れみたいな柔らかな笑みを見せて。
「かすみさん鍋の材料に使う長ネギ買ってきて頂戴ねっ、かすみさん♡」
「カモにネギを背負って来させるな――――――――――――――――ッ!!」