正直なところを言えば、嫌な予感は最初からしていた。
ただきっと何か一つだけ問題点を洗い出せと言われれば、そんな予感なんてかなりの昔から慣れ親しんだものへと変わってしまっていて、今更気にも留めやしなかったこと。特に、二人同じ屋根の下で暮らすようになってからは。
二人揃っての夕食を終え、愛猫達と戯れながら洗い物やら片付けをして、入浴し、ソファで隣に並びながら自分が撮り溜めしていたアニメ番組を消化する。彼女の方はといえば基本は服飾雑誌なりブランドのカタログを読んでいるのだが、存外しっかり話を追いかけていたりして油断ならない。
興味の方向性がかつてと比べて多方向へと矢印が伸びるようになっているような気がするが、それだって、きっと己が関わることについてだろう、なんて思ったりすることは自惚れに含まれるのか否か。
ともあれ、そんな普段通りの日常を、時折気まぐれに膝上に乗ってくる猫の機嫌などを取ったり、時にはその心地良い毛並みを撫でさせてもらったり愛らしい肉球を愛でさせてもらったりしながら心穏やかに静かに過ごし、さて、明日も大学の講義があるからと就寝の準備を始めた時だった。
優木せつ菜が、朝香果林の不穏な動きを察知したのは。
洗面所にて歯を磨こうと思いソファから立ち上がった時、目的地である筈の洗面所から果林が出て来た。普段通り、貌の造形が無駄に良い。それは後は就寝だけを残すような状況になった、夜の深くに手が届きそうな時間帯でも、同様。彼女が纏う寝間着が二人で近くのデパートで買った、安っぽい色違いのお揃いのものであっても、彼女の発する魅力がそれで減退することはない。
だが、だからこそ違和を覚えさせる何かが、彼女の手に握られている。
歯ブラシ。せつ菜が普段使用している赤い歯ブラシだ。それを何故か手に持って、朝香果林が洗面所から姿を現したのだ。しかもご丁寧に歯磨き粉まできちんと塗布済みのものを片手に。
優木せつ菜は、今更そのような彼女の突然の奇行程度で驚くような、朝香果林ビギナーではない。
故にこそその判断は、早かった。満面の笑みを相手に向け、大きく一度、首肯してから。
「おやもうこんな時間ですねそれじゃあおやすみなさい果林さん良い夢を」
「ちょっと待ちなさいせつ菜まだ歯を磨いてないじゃない虫歯になるわよ」
即座に身を翻して寝室に逃れようとした己の肩を、彼女が掴んで引き留める。
無駄に早い。そしてやたらと力が強くて振り解けない。そして横目で盗み見れば歯磨き粉を乗せた歯ブラシは全く微動だにせず安定を保って、いつでも使用可能状態でスタンバっている。相も変わらず無駄に器用な、と感嘆しかけるが、それでこの馬鹿が止まるわけがない。なんてことを考えていたら、綺麗に足元を刈られて先程まで座っていたソファの上に寝転がる形にされる。
衝撃はほとんどない。だって、彼女が空いた手を背中に差し入れて支えることで、己が受けるだろうそれらをほぼほぼ全て殺してくれているから。
朝香果林は優木せつ菜を傷つけない。それこそ臆病的なまでに。
変なところで無駄に器用な癖に、これまた変なところで不器用だ。色々な、意味で。
「そしてその器用さとか不器用さとかがどうして今この瞬間にこんなわけのわからない形で発露してるんですかそしてその凶器を今すぐ手放してください……!!」
「ふふ、変なことをいう子ね。こんな歯ブラシが凶器になんてなるわけないじゃない」
「行い!! 自分の過去の行いというか所業を胸に手を当てて思い出してください!!」
馬鹿が言葉に従い、優木せつ菜の胸に手を当てて深く深く考え始め、何なら軽く揉んできやがったのでノータイムで手元にあったクッションを掴んでその側頭部を打撃した。
とてもとても良い音が鳴る。快音という概念に何か一つの理想形があるとするなら、きっとこんな音なのだろう。
もしかしたら彼女の頭の中に何も詰まってないのではと不安にすらさせるぐらいの快音で若干引いたのは、自分の中だけの秘密だ。
殴打された当の本人は、普段通り、先の突然のクッション打撃に対して全く腑に落ちていない不満そうな表情を向けてきて。
「……せつ菜、一体何をするのかしら。少し痛いし驚いちゃうじゃない」
「誰が私の胸に手を当てろと言いました自分の胸でやってください!?」
「嫌よ。自分の胸に手を当てるよりもせつ菜の胸を揉む方が楽しいもの」
「誰も楽しむために胸に手を当てろと言ってるわけじゃないですからね!?」
「楽しむため以外で一体何のためにせつ菜の胸を揉みしだくというのよ!?」
「だから私の胸じゃなくて自分の胸に手を当てろって言ってるし勝手に揉みしだくとかいう行為に書き換えないでくれますか!!」
「……………………?」
「どうしてそこでキョトン顔するんですか――――――――――――っ!!」
「本当にああ言えばこう言う子ね」
「その言葉そっくりそのままお返ししますよ!?」
「―――ちょっと待って、せつ菜」
瞬間、不意に彼女の声と表情が真剣の色を帯びる。
思わず己の側も僅かに呼吸を詰めて、じ、と視線を返したのは、最早条件反射に近い。
綺麗な貌。普段より無駄に貌が良いだとか宝の持ち腐れなのではと密かに思っているその綺麗な造形が、深く何かを思案するように数秒沈黙し。
そして、形良いその口唇を、これまた涼やかに艶やかに微か開いて。
「ああ言えばこう言うと、いつだってフォー・ユーって語感が似てない?」
「……っ、もうっ、このっ、こう……! ……ッ、馬鹿――――――――っ!!」
「えっ、嘘……、語彙力なくなったせつ菜可愛過ぎない……? まさかの新発見……?」
「それはそれとしてエマさんには一回謝っといた方がいいと思います」
「エマに謝罪入れるとそのまま彼方も出て来て超絶怒られるから嫌よ」
「だから一回怒られとけって言ってるんですよこの馬鹿――――――――っ!!」
「はい、それじゃあ歯をキレイキレイしましょうねー」
「毎度のことですけど少しは人の話聞いてくれますかひゃ――――――――っ!?」
口腔内に問答無用で歯ブラシを突っ込まれた。
反射的に口唇を歯列ごと閉じるが、返るのは硬質なプラスチックの感触のみ。
抗議の意味も込めて二度三度と牙を立てるように強く噛んで見せるも、それだって、痛みを伴わなければただ単純に彼女を視覚的に楽しませるだけの行為であるのは重々承知。それでも、やらずにはいられない。これが歯ブラシなどではなく彼女の指だとして、痛みを伴うものであったとしても悦んだのかもしれないが。
されど、思考の時間はそれまで。押し倒すかに覆い被さった彼女が、手にした歯ブラシを前後に動かし始めたから。
「っ、ふ、ァ」
「せつ菜。歯ブラシは噛むものじゃなくて歯を磨くものよ? 教育と躾、どっちが必要?」
好き勝手な物言い。だが、躯は事ここに至って彼女の言葉に素直に従う。
抵抗しても無駄と悟ったから。そう、己に言い聞かせる。だから、そう、決して。
彼女の言う教育だとか躾なんて言葉に、心の何処かで期待しているわけではない。
自分こそが最も信じていないようなそんな言い訳を、胸中に並べ立てる。
少し強めに噛み締めていた歯を、顎の力を緩めると、彼女が短く「いい子ね」と囁いて。そして本格的な、歯磨き、が始まった。
はじめは繊細に、柔らかく。短く往復する動きで一つ一つの歯の形を確かめるように。
しかし、やがて徐々に動きのストロークが大きくなっていけば、歯を本数単位ではなくエリアごとに磨くような大胆な動きとなっていく。
他者に触れられる感触というものは根本的に自己が触れるものと異なる。
それが、肌だとか比べて敏感が過ぎる粘膜、口腔粘膜であるならばなおのこと。
無論、キスも知らない無垢な乙女だとかを気取るつもりはない。眼前の相手に数えきれないほどしてきた。
それでも、この感触は初めての体験に他ならなかった。
敏感な口腔粘膜、歯列を己の手にて操られていない歯ブラシが無遠慮に刺激していく。
時には繊細に。時には大胆に。時には執拗に。時には素っ気なく焦らすように。
二人の体勢は、押し倒した側と押し倒された側のそれのまま。いっそ膝枕でもした方が楽だろうにと思うが、彼女は決してこの姿勢を崩そうとしない。
一種の捕食行為。生殺与奪の権利を握られて弄ばれているようで、でも、それが快い。
口内で歯磨き粉が唾液と混ざり合い、ミントの香りと味を立ち込めさせながら白い泡を生じさせる。濃く、密度が高く、粘度すら有するそれは、別の何かのよう。
嗜虐の色。上から見下ろす彼女の青の瞳が、その色を映す。
対する己はどうだろう。呼応するように被虐の色でも浮かべているのか。
或いは、己の方が先に浮かべた色に彼女の方こそが呼応しているのか。
わからない。わからないけど、その眸の色が、その感情の色が、とても気持ち良い。
「…………ひ、ぅ、……ひゃ」
「はいはい、もう少しで終わるから暴れちゃ駄目よ、せつ菜。……えーっと、こういう時にお母さんが歌う曲が何かあったわよね。……確か……、」
ああ、そうそう。
彼女がそう短く置いて。鈴を鳴らすような声で、その曲の一節を歌い上げ。
「仕上げはお母さーん」
誰が誰のお母さんだ。寧ろ普段の日常で言えば自分の方が彼女のお母さん的役割をしている場合の方が多い。主に朝起こす時とか朝起こす時とか部屋の掃除をする時とか。
上機嫌に何やら聞き捨てのならない台詞を吐く彼女に対して、普段であれば何かを言い返してやっているが、今はその言葉が出ない。
洗い流される。磨き落とされる。物理的にも、精神的にも。
されど、やがて口内を占める白い濁りが許容量を超えかけた瞬間、そのタイミングを過たずに見極めていた彼女が歯ブラシを引き抜いて己の上から離れて。
呆気にとられる一瞬。その間隙に彼女の手が伸ばされ、己の腕を引いて立ち上がらせ。
何処か熱っぽく、有り体にいえば蕩けたような意識の中、それこそ母親に導かれる子供のように手を引かれて洗面所に赴けば、口内に溜まったものを吐き出して。
二度、三度、口内をゆすげば、残るのは清涼感。
されど、―――それ以上に残るものも。
身に燻るような熱と、意識に未だ残る甘い痺れ、そして何よりも。
その様を後ろから上機嫌そうに、そして意地悪く見守る彼女の貌への不平不満を喉元で溶かしてしまうような、蕩けるような名状しがたい何か。
それを劣情と認めるのは癪だったので、振り返り様、此方から彼女の口唇を奪えば。
「……ほんっと、あの手この手で悪いことする人ですね」
「あの手この手でいじめたくさせてくれる貴女のせいよ」
ミント味は十秒と経たずに、彼女の味に塗り替えられた。