幼い頃の想い出なんて、朝比奈まふゆには存在しない。
いや、存在しないというよりも、忘れてしまったというべきか。
忘れてしまった――忘却して、しまった。
忘れたくないはずなのに、憶えていたいはずなのに、失い、喪い、うしなってしまった。
幼少期、まふゆは、まふゆの母親によってまふゆから『朝比奈まふゆ』にされた。
まふゆが『都合の良い操り人形』に成る過程で、余計なモノは削ぎ落され、削り切られ、散った。
そして、まふゆの都合なんて関係なく、1体の『操り人形』が出来上がった。
母親の粗末な理想を叶えるための『人形』。
クラスメイトの理想の姿としての『人形』。
塾仲間にとっての理想とあるべき『人形』。
まふゆはそういう『人形』となった。
それは、ある意味では仕方がないことであったのかもしれない。齢10にも満たない少女が両親に逆らうことなど不可能で、1度両親の言うことを聞いてしまえば、『正しさ』のレッテルは少女の無意識領域に刻み込まれてしまうのだから。
『他の子と差をつけるチャンスだから、まふゆは勉強をしましょう?』
『まふゆにはこっちの洋服の方が似合うと思うわ』
『まふゆなら将来お医者さんにもなれる思うわ』
『まふゆ』、『まふゆ』、『まふゆ』。
パブロフの犬、あるいは学習性無力感、か。
いつの間にかまふゆは1本道を歩いていた。脇道は落石によって塞がれ、後方はいつの間にか崖になり、座り込むことは許されなかった。
抵抗する気力は、――無くなっていた。
――――――そんなまふゆを変えようと努力しているのが、『25時、ナイトコードで。』のメンバーだった。
『わたしが作り続ける。雪が自分を見つけられるまで――ずっと作る』
宵崎奏は、『理想』の『操り人形』に過ぎないまふゆを人間にしようと努力している。
――――――まだ、奏の曲はまふゆを救えていない。
『才能があるなら、才能がない人の分まで苦しんで、作りなさいよ!!』
東雲絵名は、『理想』の『操り人形』に過ぎないまふゆに『本気』で怒ってくれた。
――――――どうして、絵名があんなにも怒ったのか、まふゆは真の意味では理解できていない。
『だからボクは……雪がいなくなったら、ただ寂しいって思うよ』
暁山瑞希は、『理想』の『操り人形』に過ぎないまふゆが『消えて』しまったら『寂しい』と、そう言った。
――――――その感情に、まふゆは共感できなかった。
『そんなの、もうひとつ呪いを増やすようなものじゃない!』
まふゆは変わりたかった。
『見つかるまで、どれだけかかるかもわからない。見つからないまま終わるかもしれない。それでも………………本当に、やるの?』
まふゆは変わりたかった。
『はは、そんなに必死になって馬鹿みたい……』
まふゆは、嫌いだった。
『なら、もう少しだけ……探してみるよ……』
まふゆは、『朝比奈まふゆ』が大嫌いだった。
『本当に――ずっと作り続けてくれるんだよね』
だって、『朝比奈まふゆ』は偽物で、虚像で、幻想で――『本当』は『何処にも』、いない。
いない、いない、いない。イナイイナイイナイ。
愛に踊らされて出来上がった空隙の『理想』。
汚く澱んだ世界の中で破滅を望む泥人形。
嘘に塗れた、人間嫌いの、そういう屑人形。
だが、人間は人形にはなれない。
いくら人形を演じていても、人間は人間でしかない。
人魚姫は人間になるために声を喪った。
であれば、まふゆは『操り人形』になるためにどれだけのモノを喪った?
人魚姫は王子様を殺すことができず、泡となって消えた。人魚姫にとって、王子さまは愛しい人で、とても殺めることなどできなかったのだ。
であれば、まふゆは?
まふゆはどうなのだ?
まふゆは、
喪ったモノを取り戻すために、王子様を殺めることができるのか?
きっかけは、大したことがなかったのかもしれない。
家族と共に食べる夕食は、いつも通り味がしなかったし、
自室で行っていた勉強は、いつも通り簡単であったし、
作詞活動は、いつも通り何も感じはしなかったし、
本当に、今日が昨日までと特別な変わっていたかと言えば、そうではないだろう。
昨日までと同じ今日だった。昨日と変わらない今日だった。
だけど、ふと、箱が開いた。
パンドラの箱が、開いた。
開いてしまった。
だから、全部終わった。
何もかもが、『消えた』。
我慢、我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢していたことが、
耐えて、耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えていたことが、
いつも、いつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも気づかないふりをしていたことが、
唐突に、溢れかえって、氾濫した。
それはまるで、ダムが決壊するが如く。
その日、何の前触れもなく、
『朝比奈まふゆ』が心の底に封じていたはずの朝比奈まふゆが、
わずかに、しかし確実に、蘇った。
だから、後は転がり落ちるだけだった。奈落の底の、その果てまで。一直線に。
「あ」
呆然と、両の手を見る。
その手は、酷く醜く染まっていた。
『まふゆ?こんな遅くに、どうかしたの?』
茫然と、思い出す。
思い出すのは、先ほどまでの自分の行動。
その、狂気。
『お母さん――――――死んで?』
呟きに色はなく、その行動はまるで呼吸と同じくらい当然に、無感情なままに行われた。
背にまわしていた料理包丁を、突き刺した。
深く、重く、強く、
そして、――――――捻った。