美しい獣を見つけた。
朝焼けの地平線の色と同じ金色の毛並みを持つ狼だ。雪の上に赤い血を散らして倒れ込むその姿があまりに美しくて、一瞬で心を奪われた。
私のものにしたい。
腹の奥から込み上げるような欲望に突き動かされ、魔女は獣を橇に乗せて連れ去った。引き手はまじないで誘き寄せた鹿だ。魔女の家まで橇を引き、無事に仕事を果たしおおせた鹿には餌を与えて野に帰した。
魔女は甲斐甲斐しく狼の世話を焼いて、つきっきりで看病した。この美しい獣の瞳はどんな色なのだろうと想像しながら。
そのおかげか、狼の傷は少しずつ癒えて、長引いていた熱も下がり始めた。
そうしてとうとう、日曜日の昼下がりに獣は目を覚ました。魔女が獣を拾ってから、昼と夜を四回づつ繰り返したあとのことである。
死んだようにベッドの上に寝ていた獣が、目を開ける。瞼に隠されていた瞳の色を見て、魔女はすっかり息を呑んだ。
獣の瞳は、水晶のように美しいすきとおった紫色をしていた。
よかった。目を覚ましたのね。
魔女だってそんな月並みな言葉をかけようとしたのだ。だけど喉から転がり落ちたのは別の言葉だった。
「——きれい」
獣の瞳を食い入るように見つめる。だけど瞬きをひとつする間に、魔女はその瞳を見失ってしまった。
「それは光栄だ」
頭上から声がする。ベッドのそばに跪いていた魔女は呆然と顔を上げた。
金の毛並みの狼は、いつの間にか人に姿を変えていた。
「どうもありがとう。小さな魔女殿」
金色の髪に薄紫の瞳を持つ青年は、柔らかな微笑みを口もとに浮かべる。
今まで獣の姿を取っていた彼は、当然のように裸だ。下半身は毛布で隠れているものの、目のやり場に困る。視線を泳がせた魔女を見て、青年はおかしそうに笑い声をこぼした。
「そうだな。まず着るものをくれるかい」
といっても、森の中で一人暮らしをしている魔女の家に男物の服があるはずもない。魔女は急いで町へ行き、古着屋で適当な服を見繕った。
古着屋で買ったものなどを彼に着せるのは気が引けたが、彼は特に頓着しない様子で受け取った。もとより治療中の身なので、あまり華美なものより簡素なものの方がいい。
魔女は持てる知識のすべてをもって青年の治療をした。彼は顔には傷一つなかったけれど、体には新しい傷も古い傷も残っていた。
苦労してきたのだろうな、と傷に薬草を当てながら考える。
人狼は群れで行動するものだ。だが、彼に仲間らしきものはいない。はぐれ狼だろう。人狼は仮にも魔物なので簡単に死にはしないが、はぐれ狼が生き延びるのは簡単ではない。
「君は僕が人の姿になっても驚かなかったね」
ベッドにうつぶせになって大人しく手当てを受けていた青年が、ふとそんなことを言う。
「人狼だということは気づいていたから」
「そう」
「……これ、けっこう沁みる薬なんだけど、痛くないの」
青年は肩越しに振り返って、薄紫の瞳を細めてほほ笑んだ。
「全然」
その言葉が嘘なのか、それとも本当に痛みを感じていないのか分からない。
彼はいつも笑顔を浮かべていたけれど、本当の感情がまるで読めなかった。
何を考えているか分からない。
それは少し不気味だったけれど、魔女は特に何も言わない。
彼は綺麗だ。
それだけで魔女にとっては充分だった。嘘をついていようがいまいが、どうでもいい。
拾ってから三日が過ぎると、彼の傷はだいたい塞がった。
薬草を押さえていた包帯を取り払うと、傷は薄赤い皮膚に変わっている。これなら外に出て動くこともできるはずだ。
「さすが人狼ね。もうほとんど治ってる」
「君の薬がよく効いたんだよ」
「そうかなあ」
魔女は苦笑いで答えた。薬学は少しかじった程度なので、それほど効いたとは思えない。これは彼の自己回復力の賜物だろう。
「それで、僕を拾った目的は何?」
「え」
「僕に何かさせたいことがあったから拾ったんじゃないの」
青年はいつもと変わらない微笑を浮かべていた。ベッドの端にこしかけた彼を見下ろし、魔女は首をかしげる。
「あまり考えてなかったわ」
というか、何かをさせたくて拾ったわけじゃない。
「ただ、綺麗だと思って。私のものにしたくなったの」
「僕はもう君のものだよ。それからどうしたい?」
魔女はしばらく思案して、力なく首を振った。
「したいことは……ない、と思う」
「……そう。変わってるね、君」
青年はどこか拍子抜けした様子でそう言った。変わっていると言われても、本当に思いつかないのだから仕方がない。
「何か命じてほしい?」
「それを僕に聞くのかい」
「だって分からないんだもの」
青年は長い足を組み、ほんの少しの間だけ考え込んだ。
「だいたいの魔女は僕を連れて夜会に赴いたり……狩りをさせたりしたけど」
「狩り」
その言葉を繰り返した魔女に、青年は今までよりも少し冷たく見える笑みを浮かべた。
「そう。目障りな魔物や、気に喰わない人間をね」
「そういう使い方も考えないではないけど」
彼は今までどこかの魔女の使い魔だったのだろう。使い魔を用心棒として使う魔女は少なくない。人狼は魔物の中でも特に近接戦闘にたけているので、用心棒としては一級品だ。ポンコツな魔女にはもったいないほど。
「決めた。最初の命令」
「何なりと。ご主人様」
怪我をしていることを感じさせない優雅な動きで立ち上がり、青年は胸に手を当てて軽く頭を下げた。
外見だけでなくその仕草も、彼は美しい。魔女はすっかり満足してほほ笑んだ。
「買い物に行きたいわ。付き合って」
◇
冬の市場はたくさんの人で賑わっていた。
厚手のコートを着込んだ商人たちが、鼻の頭を赤くしながら客の呼び込みをしている。露店の売り物は食べ物よりも織物や刃物などが多く見られる。食べ物は見かけたとしても乾物がほとんどで、新鮮な肉や魚は貴重だ。野菜にいたっては、カブの他にはほとんど見かけない。
肉は山で鹿を獲るから必要ない。今日買いに来たのはパンにするための小麦粉と青年のための服や外套だった。他には切らしかけていたインクと羊皮紙をいくらか買い足して、荷物は小屋から引いてきた橇に乗せた。
積もった雪の上に、二本の平行線が引かれていく。橇を引くのは青年の役目だった。
衣類は重いはずなのに、涼しい顔で橇を引いている。
「人狼って本当に力持ちなのね」
「元が獣だからね」
「いつもは鹿に引かせているの」
「鹿が見つからないときは?」
「自分で引くか、買い物に行くのをやめるわ」
これを聞くと、彼はおかしそうに笑った。声を立てるような笑い方ではなくて、冬の星のような静かな笑みだ。
「それにしても、買い物がほとんど僕のものとは。こんなに良くしてもらっていいのかな」
「ずっと古着じゃああんまりでしょう。せっかく綺麗なんだもの、服もいいものを着せたいわ」
といっても、手持ちが少ないのでそう良いものを用立てられるわけでもない。今まで金には頓着してこなかったが、初めて大金持ちでないことを口惜しく思った。
「綺麗、ね」
かたわらに立つ青年が、聞こえるか聞こえないかの声で呟く。見上げると、彼の薄紫の瞳はまっすぐ前を見ていた。無意識のうちの言葉だったのかもしれない。それでも、その言葉には何か含むところがあるように聞こえた。
何か声をかけようと口を開いたそのとき、右手で何かが倒れたような大きな音が聞こえた。
なんだろうと思ってそちらを見やる。人だかりの向こうで悲鳴が上がり、市場は一瞬で騒然と化す。我先にと逃げ惑う人から庇うように、青年が魔女の前に立った。
「何の騒ぎ?」
「魔女の使い魔が暴走したようだね」
「分かるの?」
「人の姿でも耳がいいのは変わらないから」
彼は自分の耳を指さしてそう言った。確かに、獣の聴覚は人のそれをはるかにしのぐ。
「どうする? 素通りしようか」
試すような聞き方に、顔には出さないようにしたが、少し狼狽した。薄紫の瞳がこちらを見ている。
「様子を見に行きましょう」
見栄を張ったのはちゃんと自覚していた。美しい彼に少しでも見合う人間になりたいと思ってしまった。
普段なら間違いなく見ないふりをして家に帰っていただろうに。
人波に逆らって進み、騒動の中心に出る。半人半馬の魔物が逃げ惑う人々に蹄を振り上げ、露店の天幕や商品を蹴散らしていた。
破れた天幕が風に吹かれてはためいているのが緊迫した空気と裏腹で、やけに場違いに見えた。
「人馬だ」
隣に立つ青年が感心したように呟いた。暴れる人馬を見つめる目は、物珍しいものを前にした少年のようだ。
魔女は彼とは違うものを見ていた。市場の片隅に、当惑した様子で立ち竦んでいる少女がいる。フードを目深に被っているので表情までは見えなかったが、うろたえている様子だ。恐らく人馬は彼女の使い魔で、そしてこの状況は彼女が望んだものではない。
魔女はそれを見て取ったあと、隣に立つ青年を見上げた。
「あなた、あれを大人しくさせられる?」
「できるよ。殺しても構わないなら」
「殺しはしなくていい。大人しくさせて」
青年は魔女を一瞥し、涼やかにほほ笑んだ。
「まあ、やってみよう」
橇を引いていた革紐を手放し、彼は興奮に息を荒くした人馬の前に進み出る。人馬は蹄を振り上げ、目の前に現れた邪魔者を蹴り飛ばそうとする。勢いよく振り回された蹄は、しかし呆気なく空を切った。青年が身軽に後ろに避けたためだ。
人馬は力任せに敵を追い払おうとし、青年はこれを躱し続けた。
はたから見ていても分かる。彼は遊んでいるのだ。
「大人しくさせてって言ったのに……」
魔女は呆れてため息をつく。彼が人馬と遊んでいる間に露店が二棟ほど倒れ、道の脇に積んであった木箱がなぎ倒された。通りには踏みつぶされた食べ物や無残に破れた織物が散乱し、ひどいありさまだった。
魔女が見かねて声をかけようとしたとき、それを察したかのように青年が動いた。
「大丈夫?」
「……何が」
言おうか迷ったけれど、結局は口にした。
「とても怯えているように見えたから」
水を打ったような静寂が広がった。彼が何も言わずに俯いているので心配になり、思わず手を伸ばす。
触れられるのを拒むように、彼はその手を掴んだ。手首を折られそうな力の入れ方に、悲鳴を呑みこむ。
「――誰が怯えているって?」
「……あ」
声が出ない。こちらを見る彼の目はこれまでに見たことのない炎を宿していた。憎悪と嫌悪。心からの侮蔑。
今まで巧妙に隠されていただけで、きっとそれは最初から彼の中にあったものだ。
「君、僕を綺麗だと思ったから助けたんだろう」
「そう、だけど」
「見た目で判断する奴は信用しないことにしているんだ。ろくな奴じゃないからね」
存外に鋭い言葉に息が詰まる。喉元にナイフを突きつけられているみたいだ。
「綺麗だと言われるのも、誰かの所有物になるのも怖気が走る。僕は誰のものにもならない。僕を欲しがる奴のものになどなってやらない」
ああ、最初から憎まれていたのだ。
それが分かっても、落胆したのは一瞬だけだった。
薄紫の瞳が燃えている。遠く輝く星のように、水の中に落ちた火種のように、光の粒を散らして燃えている。
それを美しいと思って見惚れてしまうようでは、彼の心は永遠に手に入らないのだろう。
次の日の朝、彼はいなくなっていた。
寝室はもぬけのからで、彼がそこにいた気配すらない。残されていたのはつい最近買いそろえたばかりの衣類だけだ。
魔女が与えたものを、彼はすべて置いていった。家の外に出て周囲の様子を伺ったけれど、争った形跡はどこにもない。
彼は自分から出て行ったのだ。あの女に連れ去られたわけじゃない。
だとしたら、追いかけないほうがいいのだろう。
そんなことしたところで無駄だ。
彼は彼の見た目にこだわらない人を見つけて幸せになるべきだ。彼が望んでいる人は、決して私ではない。
そう分かっていても、腹の奥底から沸き立つような欲望が邪魔をする。
「拒絶されてもまだ欲しがるなんて……最低だわ」
あの美しい獣を私のものにしたい。
最初に感じたその欲望は燃え尽きるどころか、まだ心の中で明るく燃え盛っている。
今までは綺麗な鉱石や花や、動物のはく製で満足していたからよかった。でも、生き物を綺麗だと思ったのは初めてだ。何を犠牲にしても手に入れたいと思ったのは。
彼の言う通りだ。
魔女は自分に呆れ、ため息をついた。
彼の言う通りだ。
私はまるで彼を生き物として見ていない。モノとして扱って、はく製のように綺麗なまま保存したいと思っている。
ヒトである彼に対して、こんなことを思うのは間違っている。
――彼を追いかけるなんてバカなこと、やめるんだ。
知らないうちに力の入っていた拳を下ろし、魔女は家の中に戻った。
木製の扉が閉まる重々しい音が雪の森にこだました。
この女はどこまでも屑で醜くて――自分によく似ている。
彼女のそばにいると安心するけれど、同時にひどい吐き気を覚える。醜い自分を許容されると代わりに、自分の醜さを見せつけられるから。
僕は綺麗なんかじゃない。綺麗だというのなら、それは外見だけのまやかしだ。
綺麗なものというのは、もっと純粋で、高潔で、輝いているのではないだろうか。
「どうして来たの?」
彼は薄笑いを浮かべて、牢屋の中に囚われた魔女を見下ろした。
「あの魔女は君じゃあ倒せないよ。下手を打てば殺される」
「そんなの分かってるわよ」
「多少は恩義を感じていたから、君に危険が及ばないようにしたのに」
「あなたは今も私のものなの。私のものを奪い返すのは当然のことだわ」
「そのために殺されても構わない?」
「奪われたままでいるよりずっとマシよ」
「分かった。君がご主人様でいいよ」
「妥協で選ばないで」
「今の君じゃ積極的に仕えようとは思わないなあ」
「この僕の主人になるのだから、半端な魔女で終わることは許さない。ここで無様に死ぬこともね」
「当然よ。あなたを連れてこの檻から逃げる」
それを聞くと、彼は満足そうに笑った。薄紫の瞳を細めて、挑戦的に口の端を上げた顔は、これまでとは違う輝きを宿していた。まるで見るたびに色が変わる魔法の石のようだ。
「いい心意気だ。それじゃあ、こんな辛気臭いところはさっさとお別れして、外に出ようじゃないか」
「……で、なんでこうなるの」
小さな声で不満をもらす。
魔女は後ろ手に縄をかけられ、縄の先を青年に握られながら冷たい石の廊下を歩かされていた。
「仕方ないだろう」
彼は悪びれもせずに囁き返す。
「彼女との契約書を燃やさなくちゃいけないんだ。あれがある限り、僕は彼女の所有物のまま」
「僕はもう君のものだって、前に言ってなかったっけ」
「そう? 忘れたな」
白々しい返答をしながら、彼は魔女に繋がる縄を引っ張って物陰に隠れた。魔女はよろめいてたたらを踏む。手に縄が食い込んで痛い。もっと緩めに縛ったっていいだろうに、どういうわけか彼は罪人にするように固く縄を縛った。
これから差し掛かろうとしていた廊下を魔女の使い魔らしき魔物が通り過ぎていく。