森の奥深くに小さな墓がある。
石を積んで作った、今にも崩れそうな粗末な墓だ。一番上に積まれた石には、不恰好な字でこう彫られている。
——灰の森の魔女、ここに眠る
この灰はどこから降ってくるのだろう。
緑のベルベット生地を張った椅子に腰かけ、フィオナは窓の外を見つめた。窓枠にもたれた拍子に、銀灰色の髪が肩から落ちる。
眼下には石造りの砦が広がっていた。砦の上には雪と見まごうような白い灰が、絶え間なく降っている。
広い部屋の暖炉には、金色の火が燃えていた。薪の爆ぜる音がかすかに聞こえる。
この場所はまるで暖炉の中だ。それも火が燃える暖炉ではなくて、薪が灰になったあとの暖炉だ。
灰が降りつもる異様な光景を前に、フィオナは目を閉じた。
さむいなあ、と呟いたちょうどそのとき、膝の上に何かが登ってきた。
「おや、お前も寒くなったんですか」
閉じていた目を開けて、黒い獣の毛並みに触れる。獣は長い尻尾を上機嫌そうに揺らし、大きな口を開けてあくびをした。
「ここは寂しいところですからねえ」
獣の毛並みを撫でつけながら、灰色の髪の少女は目を細めた。
部屋の中には暖炉の火の色やベルベット生地の緑、カーテンの臙脂色など色に溢れていたが、窓を一枚隔てた向こう側は無彩色の世界だった。
城を囲む城壁の向こうには広大な森が広がる。
ここは灰の森。その中央に佇む灰の城で、魔女はひとり滅びの時を待っていた。
◇
灰の森から遠く離れた王宮の一角では、しかめっ面の若い騎士が王国騎士団の参事官の前で背筋を伸ばして立っていた。
「謹んでお断りします」
若い騎士はよく通る声で言い放った。その態度はまったく堂々たるものだった。
樫材の広い机を前に椅子にかけた参事官は、和やかな微笑みを崩さない。
「——これは、騎士団の規律を一度見直す必要があるね。上官の命令に逆らうとは何事だい」
「別の者にやらせればいいのです。私は辞退します」
「君だから頼んでいるんだ。騎士団の中でも指折りの実力者と褒めそやされている君だからね」
「褒められている気がまったくしませんが」
多分に嫌味を含んだ賛辞を変わらないしかめっ面で跳ね除けて、若い騎士はこう続けた。
「ご存知でしょう。私は魔女が大嫌いなのです」
「むろん、知っているとも」
「その私に魔女を迎えに行けというのですか。目にした瞬間、縊り殺してしまうかもしれないのに」
「いくら君でもそこまではしないだろう?」
無言を貫く若い騎士を見て、参事官の笑顔がほんのわずか引き攣ったように見えた。
大きくため息をついて顔を上げた後、彼の顔に笑みはなかった。幾多もの困難を乗り越えてきた強靭さが垣間見える。
「この頃、魔女たちに不穏な動きが見られる。個々の点でしかなかった彼ら彼女らが、集団として纏まりつつあるようだ」
若い騎士は無言で参事官の話を聞いている。
外では細かい雪が舞い始めた。
「こちらも戦力の増強をしたい。今、王宮にいる白花の魔女たちだけでは対処しきれない可能性がある。味方の魔女は一人でも多い方がいい」
水が冷気に当てられ薄氷を張るように、空気が鋭く冷えていく。若い騎士は眉一つ動かさなかったが、こめかみには冷や汗が滲んでいた。
「これは命令だ、ライリー・シュタイナー。灰の森の魔女を王都に連れ帰還せよ」
吹雪きはじめた外の景色を背負いながら、王国騎士団の参事官は優雅に微笑む。
「君にしか頼めないんだ。頼むよ」
ひとつひとつの言葉が鉛のように重く、まるで全身に鎖を巻かれているようだ。
ライリーは不承不承ながらも、その命に諾と返した。
この国は魔女に呪われている。
分厚い氷の板のように、絡まり合った糸のように、決して解けない呪いだ。
呪いは自然のあるべき姿を歪めた。
ある時は森に灰を降らせ、ある時は湖を枯らし、またある時は荒野に消えない炎を宿した。この国は魔女の呪いのせいでそこここに歪みがある。太陽の光は年々弱まり、今年は去年よりもさらに作物の実りが減った。
このままではこの国はいつか滅ぶだろう。
それを分かっていても、崩壊の道は止められない。魔女の呪いが解けない限りは。
ライリーは王宮から屋敷に戻り、すぐに支度を整えた。使用人に手伝わせ、略式の兵装に身を包む。足元は丈夫な革靴で固め、灰色のローブを羽織り、道中の水や食料など、必要最低限の荷物を持って二階の自室から玄関へ向かう。
エントランスに続く階段の途中で、下に小柄な影がいるのに気がついた。明るいラベンダー色のドレスに身を包んだその女性は、顔に黒い紗の布をかけていた。
「もう行くのですか」
「……はい」
ライリーは彼女から目を逸らし、低く返事をする。階段を降りてすれ違ったとき、彼女が何か言いたげに手を伸ばして、すぐに引いたのは見えていた。
見えていて、見ないふりをする。
「どうか気をつけてね」
「……ええ、母上」
顔も見ずにそれだけを言い置いて家を出る。
初めから目にするための顔などない。母は魔女の呪いのせいで、顔を失くしているのだから。布の下の顔は何年も前から黒く塗りつぶされている。
母が呪いをかけられてから、暖かかった屋敷は火が消えたように静かになったままだ。父は家に帰らなくなり、弟妹たちも部屋に籠るようになった。もう昔のようには戻らない。
呪いはそこにある幸せをたやすく砕く。呪う力を持った存在など、この世には必要ないはずだ。
呪いも魔女も、残らず消えてしまえばいい。
ライリーは本心からそう考えていた。
腰に提げた剣の柄に手を触れ、ため息をつく。
灰の森にいるという魔女。果たして、殺さずにいられるだろうか。
厩舎に立ち寄ると馬の用意はすでに済んでいた。馬丁と少数の使用人に見送られ、騎士は屋敷を後にした。
街道を馬で駆け、適宜休みを取ってはまた駆けて、二日ほどで目的地に辿り着く。
灰の森の最も近くにある村は、ひどく寂れていた。まともな宿屋も見当たらず、食事処もなさそうだ。村の者たちはよそ者のライリーを不審そうに見ていたが、近づいても逃げることはなかった。
「灰の森の魔女を知っているか」
端的に問うと、村人の男は露骨に話したくなさそうな顔をした。まるでその話をすると自分まで呪われるとでも言わんばかりだ。
「知らないよ」
一人目にはにべもなくそう言われ、逃げられてしまった。諦めずにそのあと何人かに話を聞いてみたが、結果はほとんど同じだ。
皆、魔女の話などしたくないとばかりに口を閉ざす。気持ちは分からないでもないので、ライリーも深追いはしなかった。
聞き込みを続けるうちに、ライリーにも少しずつ状況が呑みこめてきた。この村の人々は魔女について話さないのではない。話すほどのことを知らないのだ。魔女がどんな呪いを使うのか。年はいくつなのか。髪や目の色、身体的な特徴について。そういったことは全く聞き取れなかった。
唯一わかったことは二つだけ。
魔女は灰の森の中にある古城にいるということ。
村人はそれ以外のことは魔女について何も知らないということ。
騎士はため息をつき、灰の森の方を見た。遠目に見てもその森は異常で、上空は灰色にけぶっている。木々は黒々と捻じ曲がり、生物の気配はない。
この村で得られることはもう何もない。そう判断し、ライリーは立ち上がった。そばで待たせていた馬の手綱を引く。
魔女がいるという古城へと、足を向けた。
森の中には本当に灰が降っている。馬を連れてきたことをすぐに後悔した。ここは生き物が長く居て良い場所じゃない。
「すまない。もう少し頑張ってくれ」
馬の首を撫で、励ましの声をかける。灰の森はいよいよ暗くなりはじめ、足場が見えづらくなっていた。外套のフードを被り、上を見上げる。村にいたとき遠くに小さく見えていた城は、今はすぐ近くに大きくそびえていた。こうして見ると、王都の宮殿とは大きく趣が異なる。これは防衛拠点として使える城塞だ。だが、これは王家の所有する城ではない。それどころか、数年前までここに城などなかったはずだ。ある日何の前触れもなく現れた。
つまりは、この城も呪いの一部である。ライリーはこれから呪いの中に入ろうとしているのだ。
顔のない母の姿が脳裏にひらめき、すぐに消える。ついで、魔女が徒党を組み始めているという参事官の声が。
恐ろしくないといえば嘘になる。魔女を味方に引き込むことへの疑念や抵抗もある。それでもこれから苦しむ人を一人でも減らすためには、手段は選んでいられない。
頭上に覆いかぶさってくるようだった木々が不意に途切れ、視界が開ける。目の前に石造りの古城と、そこへ繋がる跳ね橋があった。
灰を避けるために被っていたフードを取り払い、そびえ立つ灰色の城を睨めつける。
まずは、灰の森の魔女が本当に味方となり得るのかこの目で見極める。
軋みを上げる跳ね橋を渡り、閉ざされた城門の前まで進む。しかし、重たげな門扉は無情にも閉ざされていた。この城の造りは要塞そのものだ。防衛のための城であるがゆえに、外からの侵入は困難である。ましてや単騎で門扉を突破することなどできはしない。門扉がだめなら城壁を登るかと考えたが、それも現実的ではない。跳ね橋の下には深い堀があるし、城壁の壁は鏡面のようになめらかで、足をかける場所などなさそうだ。
考え込んでいたそのとき、今しがた渡ってきた跳ね橋に灰が降り積もっていないことに気がついた。明らかに、誰かがついさっき跳ね橋を下ろしたように見える。
一体、誰が。
疑念を抱き始めたそのとき、何かを引きずるような音が聞こえた。跳ね橋に気を取られていたライリーはすぐに剣に手をかけ、音のした方を見る。そして彼は、自分の目を疑った。
先ほどまで閉ざされていたはずの門扉がひとりでに開いていたのだ。引きずるような音は門扉が地面をこする音と錆びた金具が軋む音だった。扉の向こうから風がやってきて、積もった灰を舞いあげる。たまらず口を覆い、目を細めた。馬が不快げにいななく。
「……なるほど、呪われた城か」
怯える馬をなだめ、城の中へ入る。門扉の裏に視線を走らせても、人影は見当たらない。大の男数人がかりでやっと開くようなこの扉は、本当にひとりで開いたのだ。見えない力に押されたように。
灰は城の中にも降り積もっていた。森の中であればどこであろうと降るらしい。
「何をしているのです」
若い少女の声がした。驚いて振り返ると、誰もいなかったはずの中庭に漆黒のローブを着た人物が立っている。
「早く戻って。あなたはここにいてはいけない」
彼女の顔は目深に被ったフードのせいで分からない。見えるのはせいぜい口元だけだ。
「……お前が灰の森の魔女か?」
半信半疑で問う。もっと年嵩の女を想像していただけに、拍子抜けだ。だが思い返してみれば、王宮に詰める白花の魔女たちも若い女性が多かった。何ら驚くことではないのかもしれない。
「早く出て行って」
魔女は問いに答えず、頑なに同じ言葉を繰り返した。
「顔を見せろ。話はそれからだ」
「だから……早く出て行けと言っているのが聞こえないのですか」
「何故そこまで追い出したがる? さては何か後ろめたいことを隠しているな」
少女が諦めたようなため息をつくのが聞こえた。ライリーは馬から降りて少女の前に立つと、彼女のフードを掴んで後ろへ払う。
思った通り、彼女はライリーよりも年下の少女だった。肌は白く、髪の色はくすんだ灰色だ。彼女はひどく蔑んだ瞳でライリーを見上げる。
馬がいななきを上げ、突然駆けだした。主人を置いて城の外へ駆けだしていく。
「なっ……」
馬が城を出るとほぼ同時に、強風に吹かれたように門扉が動き、森中に響くような轟音を立てて閉まった。
「あの子は賢かったようですね」
唖然としているライリーのそばで、少女は嫌味たっぷりにそう言う。彼女はライリーの前に手を差し出し、きれいに微笑んで見せた。
「はじめまして、愚かな騎士様。灰の森の魔女、フィオナです」
呪われた森に灰が積もる。その灰がどこから降ってくるのか誰も知らない。灰はただ静かに降り積もり、堅牢な城は扉を閉ざした。
その日、ひとりで滅びのときを待つ魔女のもとに、愚かな騎士がやってきた。
◇
災禍の魔女についての記録はほとんど残っていない。多くの者にとって、それはおとぎ話の中の悪者だ。
ライリーも幼い頃、寝物語に聞かされたことがある。
悪い魔女が国に呪いをかけて、自然の姿は歪んでしまった。
豊かな森は灰の降る魔境に。美しく澄んだ湖は水を枯らす巨大な穴に。どこまでも広がっていた緑の平野は燃え盛る荒野に。
大罪を犯した魔女は正義の騎士に討ち取られて死んだ。
だけど魔女が死んだあとも、呪いだけが消えずに残された。彼女の恨みはそれほどに深かったのだ。
美しかった景色は二度と戻らない。幸せだった日常は奪われてしまった。
国を呪った魔女の名は忌み名となり、今はもう知る人はいない。災禍の魔女という渾名が残るのみだ。
魔女を倒した絵本の中の騎士を見ながら、まだ幼かったライリーはぼんやりと考えた。
どうして魔女は呪いをかけたのだろう。
何かに怒っていたのか。悲しかったのだろうか。
そう考えたことすら、成長した彼は忘れていた。
◇
壁面に掛けた足がすべり、空を切った。態勢を整える間もなく、ライリーは城壁から投げ出される。
背中から地面に落ち、派手に灰を舞い上げた。舞った灰を吸ってしまい、軽く咳き込む。地面に寝転んだまま灰色の空を眺め、ライリーは悟った。
無理だ。
得体の知れない城の中に閉じ込められてからあらゆる方法で脱出を図ったが、何をしても効果はなかった。
門扉を押し開けようとしても、城中回って抜け道を探しても、果ては城壁を登ろうとしても。見えない力に防がれているようにうまくいかない。くまなく探しても、この城には一部の隙もなかった。本来ならばあり得ないことだ。難攻不落の城は数あれど、ここまで隙がないことは人工物ではまずあり得ない。そして最悪なことに、この城は劣化しないようだった。まるで昨日建築したばかりとでもばかりに、どこにも傷がない。一度、城の中に眠っていた斧を振るって壁に穴をあけようと試みたが、傷ひとつつかなかった。
物理的に城を破壊することや、脱出しようとすることは無意味だとさすがのライリーも悟った。
ここから出るためには、もっと違うアプローチがいる。
灰の中から起き上がり、ライリーは城の中へ戻った。
驚いたことに、この城には魔女以外にも人がいた。といっても、生きた人ではない。幻だ。
大広間の階段を上がる途中、数人の子どもたちが連れ立って駆けてゆくのを見た。廊下の途中で数人の男女とすれ違うが、誰も彼もライリーのことなど気に留めない様子だ。廊下の角を曲がろうとしたところで、壁際に子どもが蹲っているのに気づいた。
気配がないから分からなかった。あやうく蹴り飛ばすところだ。
子どもは手も足も棒きれのようで、体のいたるところに傷があった。髪はぼろぼろで艶がなく、裸足の爪先はかじかんで赤くなっている。まるで真冬の外に長いこと放置されていたかのように、震えている。
「……おい、どうした」
無駄だと分かっていても、声をかけずにはいられなかった。子どもの前にしゃがみ込み、細い肩に触れる。子どもは飛び上がらんばかりに大きく震えて、怯えた目でライリーを見た。
それで終わりだった。
子どもの形は崩れて灰になる。後には何も残らない。ライリーは立ち上がり、先ほどよりも足早に廊下を歩いた。
目的の部屋は城の最も高いところにある。その部屋の扉を叩きつけるようにして開けた。
部屋の中には、目を丸くした魔女がいる。窓際に寄せた椅子に座って、彼女はいつもそこで本を読んでいた。近くに置いたテーブルには読み終えた本や、これから読む本が山と積まれている。
「なんです、騒々しい」
「気が狂いそうだ」
乱暴に扉を閉め、魔女のそばまで詰め寄る。
「お前はよく耐えられるな。ここはおかしいぞ」
「それは、まあ。悪名高い災禍の魔女の呪いのただなかですからね。異常なことが通常かと」
平気な様子で本を頁を捲る魔女を、騎士は苦虫を噛みつぶしたような表情で見下ろした。そして唐突に糸が切れたようになり、何もかもどうでもよくなる。
暖炉の前に置かれた椅子に倒れこむようにして座り、長いため息をついた。
「ようやく諦めました?」
「何がだ」
顔も見ずに問い返す。
「この城から出ようとすることです」
「そうだな。正攻法では無理だと分かった」
「それは何より」
魔女の満足そうな様子に苛立ち、小さく舌打ちをする。
この城はおかしい。もう三日ほど留まっているが、奇妙なのは腹が減らないことだ。どうやらこの城の中で生命維持のための飲食は必要ないらしい。そのせいか、本や武器はあっても食べ物は見当たらない。
ライリーも次第に焦り始めていた。この城の中にいると、人間らしさが欠けてゆくようだ。
その証拠に、この城の中で唯一の生き物であるはずの魔女は、まるで幽霊のように掴みどころがなかった。
この城も、その中で平気な顔をして過ごせるこの女も。気味が悪い。
ふと膝のあたりに重みを感じ、目線をそちらに移す。黒い毛玉が膝の上によじ登っていた。
不覚にも驚いて固まる。黒い獣は我がもの顔で膝の上に丸まった。
「なんだこの図々しい……犬だか猫だか狐だかわからない獣は」
「その子はこの城に住み着いている魔獣です。この城では私よりも先輩ですよ」
「お前以外にも生き物がいたのか」
「私とあなたと、その子だけです。二人と一匹ですね」
膝の上で丸まった魔獣は、あろうことか寝息を立て始めた。これでは動けない。
暖炉の中では穏やかな音を立てて火が燃えている。火は熱いはずだが、これは熱を感じない。そういう炎なのか、それとも自分の感覚が麻痺しているのか分からない。
「お前はどうしてこんなところにいるんだ」
気を紛らわせるために話しかけただけだった。話し相手が一人しかいない状況でなければ、自分から魔女に話かけることなどなかっただろう。
「私は呪いを抑えるための楔です」
彼女は何でもないことのようにそう答えた。思わず彼女の方を見ると、彼女はいつも通り本の頁を捲っていた。その様子は特に楽しそうでもなく、ただそれが何かの義務であるかのように頁を捲る。今日読んでいるのは絵本のようだった。色とりどりの表紙がライリーのいるとことからでも少し見える。
「灰の森の呪いは数年前から急激に強くなりはじめました。灰が降る範囲が広がり、このままでは人里に被害が及ぶということで、私が」
「お前が魔女の呪いの中に入って、膨れ上がる呪いを抑えていたと?」
そんな話はキーツ参事官から聞かなかった。ただ連れ帰ってほしいと言われただけだ。
呪いを抑えるために呪いの中に幽閉し、状況がひっ迫すると王都へ戻れと命じる。それではまるで。
「生贄のようだな」
侮辱しているともとれる言い方に、魔女は不快そうな顔をするでもなく、いつものように感情の見えない顔で笑った。
「そうかもしれませんね。でも、私は望んでここにいます」
彼女は本を閉じて、それをそばにあるテーブルの上によけた。そのまま窓の外へと視線を移す。
「ここは私の罪の城ですから」
窓の外には灰が降り積もる森があるだけだ。毎日変わらないその景色は絵画を切って貼り付けたようで、ライリーは好んで景色を眺めることはしない。だが魔女はときおりこうして、どこか遠くを見る目をして窓の外を眺めているようだった。
◇
悪あがきは無駄だと分かったところで、無為に過ごすわけにはいかない。
何か脱出するための糸口はないかと必死に探った。城の壁面を念入りに調べたり、城の中を行きかう幻と意思の疎通を図ったりと様々なことを試したが、一向に結果は出なかった。
果ては城の中の図書室に通い書物を漁ってみたが、これも不発に終わりそうだ。
図書室の隅で埃をかぶっていた梯子を持ち出し、その上に座って本の頁を捲る。しばらく頁を捲ってから、ため息とともに本を閉じた。
わけの分からない文言ばかり並んでいる。恐らくこれは魔法書だ。図書室に所蔵されている本の大半はこういった魔法書か、ガワだけの白紙の束だった。
「こんなところにいたんですか」
開け放しにしていた図書室の扉の前に、魔女が佇んでいた。無意識に眉根が寄る。
「何の用だ」
「そんなに嫌そうな顔しなくても。あなた、私のこと嫌いでしょう」
「お前個人が嫌いなわけじゃない。魔女が嫌いなんだ」
「ああ」
魔女は何か諦めたような乾いた笑みを漏らした。
「そうですよね。そうでした」
確かめるように同じ言葉を繰り返す。ライリーはそんな彼女を不審そうな目で見た。
しかし、魔女は次の瞬間にはまた元通りの人形のような笑顔に戻る。彼女の笑顔を見るたび、ライリーは背中が寒くなるのだ。
「……外はどうなっている?」
「外?」
「俺がここに来てから一週間は経った。俺は勢力を増す魔女たちを押しとどめるためにお前を呼び戻しに来たんだ。早く戻らなければ」
魔女は不思議そうな顔をして、わずかに首を傾けた。
「それはそんなに大事なことですか」
その口元にはこんなときでさえも、穏やかな笑みが浮かんでいる。
その表情を目にした瞬間、こみ上げてきたのは怒りではなく落胆だった。この女は味方にはなり得ないと確信する。連れて帰ったところで無駄骨だ。
「どうして笑っていられる」
それでも、一縷の望みを捨てきれずに問う。彼女を頼ろうと思った上官の判断を間違いだとは思いたくない。
「だって、人が死のうが国が滅ぼうが、私には何の関わりもないことですから」
だが、望みは無残に断ち切られた。
この魔女にとっては、全てどうでもいいことなのだ。ライリーが必死に守ろうと思うものを、この女は理解しない。理解しようともしない。
当たり前だ。彼女は災禍の魔女と同じ。救う側ではなく呪う側なのだから。味方ではなく敵なのだ。初めから。
「お前がそうでも、俺は違う」
梯子から飛び降りて、図書室の出口へと向かう。ここでの調べものも潮時だ。また別の場所を調べようと思い、部屋を出た。
戸口に立っていた魔女とすれ違う。
「そんなに外が心配なら、ここから出してあげましょうか」
自分の耳を疑った。勢いよく振り返り、笑顔を浮かべる魔女を見下ろす。
「……は?」
「この城から出る方法、教えてあげますよ」
「出られるのか」
「はい」
魔女はあっさりと頷く。ライリーの頭の中は疑問符で溢れていた。その次にこのふざけた女に対する怒りが渦巻いていた。
「ならなぜ早く言わない」
「無駄な努力を続けるあなたが面白くて、つい」
「ふざけるなよ、魔女が!」
怒鳴られようともどこ吹く風で、魔女は何も言わずに歩き出す。どうやらついて来いということらしい。魔女の指示に従うのは業腹だが、他に手掛かりがないのも事実だ。不服に思いながらも、黙って彼女の後に続く。
回廊から見える中庭には、変わらず灰が降っていた。回廊を行きかう人々は二人のことなど見えないかのように談笑し、荷を運び、忙しそうに駆け抜けてゆく。庭では、何人かの子どもたちが無邪気に遊んでいた。
「あなたが来てから、城の中が明るくなりました。どうやらここは閉じ込めた者の記憶が元になっているようですね」
魔女は振り返らずに歩く。この方向からすると、城門の方へ向かっているようだ。
「前はもっと、泣いている子どもが多かったのですけど」
曲がり角の向こうに、いつかのようにうずくまっている子どもが見えた。彼女はその子どもには目も留めず、中庭で遊んでいる子どもたちの方を見ている。わずかに見えた横顔に、憧憬のようなものが垣間見えた。
「お前もあんな風に泣いていたのか」
何気なく聞いただけだった。記憶が元になっているというのなら、あの図書室の本についても納得できる。それならば、あの日寒さに震えて膝を抱えていた子どもは、彼女自身ではないのか。
今までこちらを見もしなかった魔女が、立ち止まって振り返った。黒いスカートの裾と灰色の髪がその動きに合わせて揺れる。折よく回廊には雲間から漏れた光が差し込んでいた。
「さあ、どうでしょう」
魔女はやはり感情の読めない笑みを浮かべているだけだ。まるでこの城のように、彼女には一切の隙がない。
◇
門扉を開くための機構は、城門の両脇に備えられている側塔にあった。軋む扉を開けて狭い階段を上り、塔の最上部へとたどり着く。塔の内部は埃っぽく、光が入らない構造になっていた。採光のためにある小さな窓を即座に開け放ち、換気を行う。
「まずは跳ね橋を下ろさなくてはいけません」
彼女に言われて塔を形作る石の隙間から外の様子を伺うと、来たときは下りていたはずの跳ね橋がご丁寧に上がっている。
魔女は部屋の中央にある装置を指さし、笑顔で言った。
「これが跳ね橋を下ろすための装置です。持ち手を掴んで回してください」
円盤に棒状の持ち手がついており、この円盤を回せば連動して跳ね橋も動く仕組みだろう。持ち手は左右に二つ伸びており、どう見ても二人がかりで動かすものだ。だが魔女は一向に動こうとする気配がないので、ライリーは仕方なく持ち手を掴んで力を込めた。
「……おい、動かないぞ」
どれだけ力を込めても動く気配がない。まるで石を削って作った飾りのようだ。
「ああ、やはり動きませんか」
「まさか騙したんじゃないだろうな」
「とことん信用がありませんね……これならどうです?」
魔女が装置に触れると、その手の下から淡い白銀の光が溢れた。その光は少しづつ装置全体に行きわたる。石のように固まっていた装置から、確かな手ごたえを感じた。力を込めると、先ほどまでの様子が嘘のようにすんなり動く。
しかし、それでも一人で装置を動かして跳ね橋を下ろすのはなかなかの重労働だった。最後まで跳ね橋を下ろした頃にはすっかり息が上がっており、たまらず床に崩れ落ちる。
「まだへばってはいけませんよ」
「まだ何かさせる気か……」
「門扉の外側に格子戸が下りているはずです。そちらも上げないと扉が開きません」
恨めし気な視線を向けても、魔女は爽やかに微笑むだけだった。
「できますよね。正義の騎士様ですもの」
「この……性根の腐った魔女が……」
反対側の側塔へ出向き、もう一度同じような作業をして格子戸を上げた。
しかし当然のことながら、門扉には何の変化もない。
塔から出て門扉の前に立ったライリーは、遠い目をして上を見上げた。
「これも俺に開けろというのか」
「いいえ、これはあなたには無理です。私が開けましょう」
拍子抜けした。てっきり門扉も力技で開けろと言われるのかと思っていたのだ。
しかし、門扉についてはライリーも何度も開けようとした。だが、押しても引いても門扉はびくともしなかった。まるで石のように固まっていた。
そこまで思い返し、ライリーははっとする。
門扉の状態は側塔の装置と似ている。であれば、人の力だけでは動かすことはできない。魔女の力を借りなければ、この城からの脱出は不可能なのだ。
「この城は一度閉じ込めた者を外に出さないようにできています」
ライリーの隣に立つ魔女は、まっすぐに門扉を見ている。
「外から内へ押し込めようとする力が、今も働いている……扉を開けていられるのは、もって数十秒です」
「ああ、分かった」
であれば、跳ね橋も落とし格子もそうもたないだろう。彼女の力と城の力が拮抗している間に、跳ね橋の向こう側まで渡らなければならない。
魔女は両手で門扉に触れ、目を閉じた。その両手の下から白銀の光が滲み出し、瞬く間に門扉全体へ拡散する。
閉ざしていた目を開けて、彼女は城に命じる。その瞳は白銀色に燃えているようだった。
「――開け」
門扉が軋みを上げ、かすかに動く。彼女の両手に押されるように、扉はゆっくりと外側へと開いていった。光が強くなり、門扉は完全に開いた。彼女の力が城の力を押しとどめたのだ。
ライリーは信じがたいその光景を見て呆然とした。
これが魔女の力か。
腕力ではどうにもならなかった扉をたやすく開いてしまうほどの。
「早く行ってください!」
魔女の声に背中を押され、ライリーは我に返って外へ出る。後はこのまま向こう岸へと走るだけだ。
「おい、お前も早く来い」
手を差し出すが、魔女は門扉に手をついたときの態勢のまま微動だにしない。
「私は行けません」
「何を」
「ここであなたのために扉を開いていなければならないから」
彼女の呼吸が乱れていることに、そのとき初めて気がついた。こめかみから流れた汗が頬に伝い、顎から落ちる。
愚かな騎士を嘲笑うように、魔女は口の端を吊り上げる。
「二人とも出られるなんて誰が言いました?」
一度は開いた門扉が閉じていく。頭上で軋みを上げる音を聞き、慌てて上を振り仰ぐと、鉄の格子が今にも落ちそうになっている。
もう時間がない。脱出するのなら今すぐ走り出さなければ間に合わない。彼女を置いて。
「いつか魔女の呪いを解いてくださいね」
閉じていく扉の向こうで、彼女は微笑んでいる。こんなときでさえも、変わらずに。
「私はそれまで、この城で待っていますから――いつまでも」
重々しい音を立て、城の扉は再び閉ざされた。
灰はただ静かに降り積もっては、かつての豊かな森を消していく。残るのは歪な形をした枯れ木のみだ。