災禍の魔女についての記録はほとんど残っていない。多くの者にとって、それはおとぎ話の中の悪者だ。
ライリーも幼い頃、寝物語に聞かされたことがある。
悪い魔女が国に呪いをかけて、自然の姿は歪んでしまった。
豊かな森は灰の降る魔境に。美しく澄んだ湖は水を枯らす巨大な穴に。どこまでも広がっていた緑の平野は燃え盛る荒野に。
大罪を犯した魔女は正義の騎士に討ち取られて死んだ。
だけど魔女が死んだあとも、呪いだけが消えずに残された。彼女の恨みはそれほどに深かったのだ。
美しかった景色は二度と戻らない。幸せだった日常は奪われてしまった。
国を呪った魔女の名は忌み名となり、今はもう知る人はいない。災禍の魔女という渾名が残るのみだ。
魔女を倒した絵本の中の騎士を見ながら、まだ幼かったライリーはぼんやりと考えた。
どうして魔女は呪いをかけたのだろう。
何かに怒っていたのか。悲しかったのだろうか。
そう考えたことすら、成長した彼は忘れていた。
◇
壁面に掛けた足がすべり、空を切った。態勢を整える間もなく、ライリーは城壁から投げ出される。
背中から地面に落ち、派手に灰を舞い上げた。舞った灰を吸ってしまい、軽く咳き込む。地面に寝転んだまま灰色の空を眺め、ライリーは悟った。
無理だ。
得体の知れない城の中に閉じ込められてからあらゆる方法で脱出を図ったが、何をしても効果はなかった。
門扉を押し開けようとしても、城中回って抜け道を探しても、果ては城壁を登ろうとしても。見えない力に防がれているようにうまくいかない。くまなく探しても、この城には一部の隙もなかった。本来ならばあり得ないことだ。難攻不落の城は数あれど、ここまで隙がないことは人工物ではまずあり得ない。そして最悪なことに、この城は劣化しないようだった。まるで昨日建築したばかりとでもばかりに、どこにも傷がない。一度、城の中に眠っていた斧を振るって壁に穴をあけようと試みたが、傷ひとつつかなかった。
物理的に城を破壊することや、脱出しようとすることは無意味だとさすがのライリーも悟った。
ここから出るためには、もっと違うアプローチがいる。
灰の中から起き上がり、ライリーは城の中へ戻った。
驚いたことに、この城には魔女以外にも人がいた。といっても、生きた人ではない。幻だ。
大広間の階段を上がる途中、数人の子どもたちが連れ立って駆けてゆくのを見た。廊下の途中で数人の男女とすれ違うが、誰も彼もライリーのことなど気に留めない様子だ。廊下の角を曲がろうとしたところで、壁際に子どもが蹲っているのに気づいた。
気配がないから分からなかった。あやうく蹴り飛ばすところだ。
子どもは手も足も棒きれのようで、体のいたるところに傷があった。髪はぼろぼろで艶がなく、裸足の爪先はかじかんで赤くなっている。まるで真冬の外に長いこと放置されていたかのように、震えている。
「……おい、どうした」
無駄だと分かっていても、声をかけずにはいられなかった。子どもの前にしゃがみ込み、細い肩に触れる。子どもは飛び上がらんばかりに大きく震えて、怯えた目でライリーを見た。
それで終わりだった。
子どもの形は崩れて灰になる。後には何も残らない。ライリーは立ち上がり、先ほどよりも足早に廊下を歩いた。
目的の部屋は城の最も高いところにある。その部屋の扉を叩きつけるようにして開けた。
部屋の中には、目を丸くした魔女がいる。窓際に寄せた椅子に座って、彼女はいつもそこで本を読んでいた。近くに置いたテーブルには読み終えた本や、これから読む本が山と積まれている。
「なんです、騒々しい」
「気が狂いそうだ」
乱暴に扉を閉め、魔女のそばまで詰め寄る。
「お前はよく耐えられるな。ここはおかしいぞ」
「それは、まあ。悪名高い災禍の魔女の呪いのただなかですからね。異常なことが通常かと」
平気な様子で本を頁を捲る魔女を、騎士は苦虫を噛みつぶしたような表情で見下ろした。そして唐突に糸が切れ、何もかもどうでもよくなる。
暖炉の前に置かれた椅子に倒れこむようにして座り、長いため息をついた。
「ようやく諦めました?」
「何がだ」
顔も見ずに問い返す。
「この城から出ようとすることです」
「そうだな。正攻法では無理だと分かった」
「それは何より」
魔女の満足そうな様子に苛立ち、小さく舌打ちをする。
この城はおかしい。もう三日ほど留まっているが、奇妙なのは腹が減らないことだ。どうやらこの城の中で生命維持のための飲食は必要ないらしい。そのせいか、本や武器はあっても食べ物は見当たらない。
ライリーも次第に焦り始めていた。この城の中にいると、人間らしさが欠けてゆくようだ。
その証拠に、この城の中で唯一の生き物であるはずの魔女は、まるで幽霊のように掴みどころがなかった。
この城も、その中で平気な顔をして過ごせるこの女も。気味が悪い。
ふと膝のあたりに重みを感じ、目線をそちらに移す。黒い毛玉が膝の上によじ登っていた。
不覚にも驚いて固まる。黒い獣は我がもの顔で膝の上に丸まった。
「なんだこの図々しい……犬だか猫だか狐だかわからない獣は」
「その子はこの城に住み着いている魔獣です。この城では私よりも先輩ですよ」
「お前以外にも生き物がいたのか」
「私とあなたと、その子だけです。二人と一匹ですね」
膝の上で丸まった魔獣は、あろうことか寝息を立て始めた。これでは動けない。
暖炉の中では穏やかな音を立てて火が燃えている。火は熱いはずだが、これは熱を感じない。そういう炎なのか、それとも自分の感覚が麻痺しているのか分からない。
「どうしてお前は一人でこんなところにいるんだ」
気を紛らわせるために話しかけただけだった。話し相手が一人しかいない状況でなければ、自分から魔女に話かけることなどなかっただろう。
「私は呪いを抑えるための楔です」
彼女は何でもないことのようにそう答えた。思わず彼女の方を見ると、彼女はいつも通り本の頁を捲っていた。その様子は特に楽しそうでもなく、ただそれが何かの義務であるかのように頁を捲る。今日読んでいるのは絵本のようだった。色とりどりの表紙がライリーのいるとことからでも少し見える。
「灰の森の呪いは数年前から急激に強くなりはじめました。灰が降る範囲が広がり、このままでは人里に被害が及ぶということで、私が」
「お前が魔女の呪いの中に入って、膨れ上がる呪いを抑えていたと?」
そんな話はキーツ参事官から聞かなかった。ただ連れ帰ってほしいと言われただけだ。
呪いを抑えるために呪いの中に幽閉し、状況がひっ迫すると王都へ戻れと命じる。それではまるで。
「生贄のようだな」
侮辱しているともとれる言い方に、魔女は不快そうな顔をするでもなく、いつものように感情の見えない顔で笑った。
「そうかもしれませんね。でも、私は望んでここにいます」
彼女は本を閉じて、それをそばにあるテーブルの上によけた。そのまま窓の外へと視線を移す。
「ここは私の罪の城ですから」
窓の外には灰が降り積もる森があるだけだ。毎日変わらないその景色は絵画を切って貼り付けたようで、ライリーは好んで景色を眺めることはしない。だが魔女はときおりこうして、どこか遠くを見る目をして窓の外を眺めているようだった。