「肥前の?」
 おるかえ、と控えめに呼ばわる声に是を返した。ゆっくりと引かれた襖の向こうから顔を出した陸奥守は、ハンドクリームの容器を手にしている。
 肥前がこの本丸に来て、早二ヶ月が経とうとしている。以前いた本丸の主が審神者を退くことになり、どうしたいかと聞かれて他の本丸に移ると答えた。肥前と同様に次の本丸への移籍を望むもの、本丸の終わりと共に鋼の塊に戻ることを望むもの。それぞれの考えがあり、主はそのどれをも否定しなかった。次の本丸へ移った刀たちと一応連絡をとってはいるが、皆新しい環境に慣れることに精一杯なようだった。
 そのような経緯でこの本丸にやってきた肥前を、陸奥守はいたく構いたがった。案内役をかって出、ことあるごとに、否、何もなくとも話しかける。極めつけが、荒れた肥前の手にわざわざハンドクリームを塗り込めに来ることだった。
 新しい本丸には、肥前忠広がいなかった。ついでに南海太郎朝尊も。発足してからそれなりに時間は経っているらしいから、単にこれまで縁が無かっただけなのだろう。つまり、この陸奥守にとっては肥前が初めての同郷の刀というわけだ。ほとんどとまではいかずとも肥前忠広や南海太郎朝尊がいる本丸は珍しくないから、他の本丸を見て、待ちわびていたのかもしれない。年下の昔馴染みで、更に自分より人の形を得てからの時間が短い刀に世話を焼かれるのは気恥ずかしくもある。けれども、同郷の刀が来たことへの歓喜を隠さない陸奥守を無下にすることは躊躇われるのだった。
 白いクリームを陸奥守の指が掬い上げる。人差し指から垂れるほどたっぷりととるものだから、肥前の手はいつもべとべとになる。たっぷりのクリームが手の甲に乗せられ、陸奥守の両手が手全体を満遍なく擦る。指の股から爪の先、間接の皺に至るまで丁寧に塗り込められる。陸奥守のお陰で、この本丸へ来てから肥前の手は乾燥と無縁だ。
 酔狂なことだ、と思う。毎日元気に外へ飛び出し水に触れることも多い陸奥守の手こそあかぎれで痛々しいというのに、当刃はそのことに全く頓着しないのだ。今日も今日とて、肥前の両手にクリームを塗り終えた陸奥守は早速部屋を立ち去ろうとしている。
「貸せ、塗ってやる」
「えっ」
 鳩が豆鉄砲を食ったよう、と形容するのが相応しい顔をされた。自分のことを全く考慮に入れていないことに腹が立つ。そのクリームもどうせ肥前のためだけにわざわざ用意したのだろう。腹が立つ。腹が立つが、偉そうなことを言っても使うのは陸奥守が持参したハンドクリームなので何も言わないでおいた。今度はきっちり用意した上で言い聞かせる。
 クリームを思いきり掬って手の甲にぼたりと乗せる。陸奥守の手が逃げるように少し引かれたがお構いなしだ。あちこちささくれだった皮膚に指の腹が引っ掛かる。血が滲んでいるというのにどうして放っておくのか。これくらい、とでも思っているのだろうか。よく塗り込めた後、追加でクリームを足そうとしたところでもういいと止められた。まだ足りないくらいだと思うが、クリームの所有者は陸奥守なので大人しく手を解放する。
「ありがとう、ございました……?」
「おう」
 手をクリームまみれにした陸奥守は引き手にかけた手を二度滑らせた。先ほどと同じくゆっくりと閉まる襖を眺めて、さてどのようなハンドクリームが良いのかと思考を巡らせた。これまで大して気にしたこともなかったので、ハンドクリームについてはまったくの専門外だ。
 やはりここは、餅は餅屋だろう。加州や乱に聞くのが早い。どうしてそんなことを聞くのかと要らぬ追求を受けそうだが、それも甘んじて受け入れようと思った。
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橋間
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ハンドクリーム塗るひぜむつ
初公開日: 2020年11月28日
最終更新日: 2020年11月28日
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