019|みえざるもの
我々の部隊は、孤島の丘に陣を構え、ここを最終防衛地とし、迫る兵隊と対峙していた。が、もうだめだった。数日のうちに丘は敵軍に取り囲まれ、あとはもう明日にでも、我々が死ぬか、否かだろう。ならばもう、死なばもろとも。そういう状況だった。確定した死があった。わたしは眠れなかった。眠れるはずがなかった。明日には死ぬ。終わるのだ。意識されてどうにもならなかった。身体がこわばって仕方なかった。銃を抱えるしかなかった。塹壕の中で項垂れていた。周囲の連中もそうだったろう。
夜になって、あたりが蒸し蒸しとしてくる。雨が降る。ぽつ、ぽつ、ではなく、大雨だ。ものすごい雨だった。雨音でなにも聞こえなくなった。この最中を敵が攻めてくるのではないか。わたしは怯えながら、気を張りめぐらせるしかなかった。そのときだ。なにかが、なにかが向こうのほう、雨の壁のむこうのほうで泣いたのは。
光はなかった。姿もなかった。けれどもそれは、雨音を通り越して、ものすごい声を発した。生きものなのか、なにかの兵器だったのかはいまでもわからない。けれども、音だった。音があった。そして現れたのが、地響きだ。どすん、どすんと地面を踏みならし、それは次第に、遠く、海のほうから、丘のほうへと向かってくる。そう思えた。
雨の中、丘の麓で、なにかが瞬いた。敵兵たちが、迫るものを見据えて、攻撃をしたのだと思う。その光、だったと思う。光は雨の中で瞬いたが、ひとつ、またひとつと、足音と共に消えていった。終わっていった。それがこちらへ迫ってくる。得体の知れないなにかが。わけのわからないなにかが。降り続ける雨の中。光もなく、姿もなく。
覚えているのはそこまでだ。目覚めるとわたしは横たわっていた。激痛があった。片腕がなかった。隣には巨大なくぼみがあった。丘のうえでなにかが、そこに鎮座したようなくぼみがあった。………わたしはたまたま生き延びた。だからこの話をお前にできる。だれも信じてはくれなかったこの話を。それがいま、おそらくはきたんだ。この街に。おまえたちの暮らす世界に。わたしの側に。あの人おなじ、けたたましい雨の中、死なせ損ねた老いぼれを迎えに。―――
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020|
罠にかかったくっころ騎士を野に返した。ほかの動物と違って、食べられないからだ。もうここへくるなよと何度も何度も念を押して、かかるたびに野に放つのだが、気づけばやつは戻っている。勝手に。おれの家の付近に。そうして畑を荒らしたり、勝手に家に這入ったりする。ベッドにもぐりこんでいたこともある。くっ、殺せ、などと云って。殺人をするようにと、求める。どうしてこんなにも面倒なのか。
くっころ騎士は、そのへん山とか、茂みとかに、たくさん生息をしている。なぜこんなにも不死者が存在するのかはなんともわからないところがあるが、わたしの世界では、わたしが生まれたときからこのようにして、野生のくっころ騎士がそのへんを跳梁跋扈するのが常だ。あまりにも当たり前の光景すぎて、くっころ自体に新鮮味がない。ある、という感覚に至ることがまずない。
ではいったい、だれが最初にこれら存在を「くっころ騎士」などと呼称したのか、だが、それについてわたしは、わたしが学生になったころ、気になって調べたことがある。するとそれは、わたしの読んだ本、ある学者先生の記した、エッセイ的な文言の云々由来でしかないが、
「くっころ騎士がなぜ、くっころ騎士と呼ばれるようになったか。―――それは、遠い昔、この世界にやってきた、年端もいかない青年(この国のさいしょの王さま)が、わたしの世界に存在する、野生の不死者の云々の姿形、様相を見据えて、『くっころ騎士だ。くっころ騎士がいるぞ』などと、街中の人間に響き渡る大声でのたまったから」
なのだそうだ。
やつらは常々、口癖として、くっころ、くっころと口走る。くっころ騎士はくっころ「騎士」という呼称であるが、みんながみんな騎士の装飾をしている、というわけではない。最初にきちんと呼称されたときに、呼称された存在、というか、初代王さま興味をしめした存在が「女騎士」だったために、それが定着したのだという。
先生はほかにもこの本の中で、くっころ騎士という存在についての見解を示している。それは何年にも及ぶ記述で、読みものとしてはかなり応えがある。いろいろの旅や、出会いのたのしさ、別れの寂しさを書かれた挙句、先生はこう締めくくる。
「―――思うに、やつらが求めているのは、死だ。なぜ死を遠ざけた連中が死を求めるのかと、この本を読んだ方は思うかもしれない。死によっての終焉が訪れない=この世の理からはずれる。それはつまり、状態として本来あるべきものを、逸脱してしまうということだ。
不死身とは在るはずのない状態だ。人間に本来ないものだ。死なないものというのでエルフ族を思うものもいるだろうが、彼らにだって死はある。我々と時間の流れが違う、というだけだ。不死身になって生きすぎた人間は、どのような過程を経るにせよ最終的に頭がおかしくなる。あまりにも長すぎて、だめなのだ。
不死は死を恐れる人間の到達点として、ひとつの幸福ではある。が、死から遠ざかり、それを永遠に得られない、となった挙句にあるのは、永遠の無。飽きだ。はじめこそ、無限の時間の中で、可能性や意義を感じて、活動をしたこともあるのかもしれない。が、彼らは思う。わたしはこれをいつまで続ければいいのか、と。全うする必要があるのかと。自分は存在をしているが、歯車のようになっている。死なないわたしは、わたしによって、わたしを見殺しにしている。終わりが訪れないために。
意識だけが持続して、脳が記憶としての限界を迎えて、知能も知性も崩壊する。だのに生きられてしまう。飲まず食わずでも無問題で、ただ存在をできてしまう。その挙句にあるのが、最初にあれだけ遠ざけたかった死に対する、いきものの本能的な渇望。それのみになったのが、あの、野生に無数に蔓延っている、くっころ騎士たちの姿なのだと。
その果ての光景、雑感に、わたしはまだ至っていない。いや、至ってしまえばもう、このようなものは書けない。感じることもできない。毎日働いた挙句に訪れる夕日を眺めて、美しい、素晴らしい、生きていることの大切さを、光景から思うこともない。わたしはまだ、ここにいる。生きることを見据えている。けれどもそこはどこまでゆくのか。わたしは覚えていられるのか。いずれこれがなくなると思うと、わたしがわたしの意思で求めたものだが、なんと残酷か、と思う。その日が来たらわたしは、わたしではなくなる。だからここに記しておく。どうもありがとう。さようならと。………(注:このコラムを執筆されました先生ですが、先日とうとう、くっころ騎士となられました。執筆から461年後のことでした。いまは大学の裏山にありますくっころ公園にて、さまざまな偉人のくっころ騎士たちと共に、野原を、『くっころ、くっころ』と、自由に、奔放に、駆まわられておられます)」
わたしの前に現れてはくっ、殺せ、くっ、殺せと、念仏のようにくっころを唱える彼ら。彼らの求めた果ての末路。光景。それを目撃する我々。退治するわけにもいかない彼ら。彼らにもいろいろの物語があったのだろうと、わたしが死んだあとも、その抜け殻だけがあるのだろうと、ぼんやりわたしは思うのだった。ただ、やはり、間違って罠に「くっころ」と、かかるのだけはやめてほしいものである。………
ひとまずここまで。
印刷して、見直します。
どうもでした。