「ハネムーン?」
独房の寝台で壁に背を凭せ掛け、片膝を立てた姿勢でスレインは鸚鵡返す。
「結婚もしていないのに?」
当然の疑問をぶつける。デスクと揃いのスチール椅子、背を右側に座る伊奈帆は、隻眼を微かに細めて口を開いた。
「この間、結婚については同意を得たと思ったんだけど」
監獄通いも二〇年。面会室でのルーティンワークと化したチェスの合間、スレインがふと聞いた。お前、独身か?の一言。ほとんど毎週、雨の日も雪の日も、春夏秋冬を貫き訪れる伊奈帆に家族はいないのだろうか、とふと気になったのだ。彼の私生活について、スレインは知らない。軍を続けて、階級が上がり、面会時間の融通が利くようになった。気付く変化はそれくらい。スレインは極秘施設で変わり映えのしない日々を送り、伊奈帆が時々会いに来る。面会室で、または独房で、チェスをし、話し、時には無言で本を読む。厳粛なしきたりのように、彼は繰り返しスレインの元にやって来て、数時間で帰っていく。例えば妻や子どもがいるならば、頻繁に極秘施設のA級戦犯に会いに行くような行動を、好意的に捉えることはあり得ない。
不思議だなあ、と思ったのだ。こいつ一体、どんな生活してるんだろうと。
「結婚する?って聞いたら、いい、って君は言ったじゃないか」
やや憮然と見える表情で、伊奈帆は言って右手のひらを天井に向けた。節くれだった硬そうな手を眺めつつ、スレインは、先日の問答を思い出す。
結婚する?と伊奈帆が聞いて。
誰が?とスレインは聞いた。
君が。誰と?僕と。
その後、確かこう言った。
「そりゃあいい、とは言ったけど」
愛想が皆無の朴念仁が言い放った冗談にしては、気が利いていると感じた。だから笑ってそう言った。
「まさかお前、僕のことが好きなのか?」
スレインは前のめりに体を起こし、情緒もへったくれもない物言いで伊奈帆に問う。伊奈帆はぱちりと大きく瞬いて、首を大きく縦方向に動かした。
「好きじゃない人に、プロポーズしないよ。僕」
そして呆れた風に微笑んだ。目の端に寄る笑い皺。いつからこんな風に笑うようになったのだろうと今更思う。
プロポーズ。ムードもロマンも全くない、あの台詞が、愛の告白だったとは。
伊奈帆が笑みの形で口を開く。
「まさか、知らなかったの?」
僕が君を好きだって。
スレインはぽかんと開いたままで停止していた口を閉じ、左右にゆるく首を振る。
「知らなかった」
伊奈帆は掛けた椅子の背に肘を置き、頬杖をついた。椅子の四本脚の間で軍靴の爪先が揺れ、高窓からの光の線がちらちら途切れ床に踊った。
思い当たることは、言われてみれば無いではない。過ぎた献身に思えるような様々な彼の挙動の全てが腑に落ちた。
「君ってさ、自分の事には無頓着というか…。鈍感だよね」
僕も人のことは言えないけどさと、伊奈帆は言ってからりと笑う。
「この歳になるまで、好きの一言も言えずにいたんだから」
揺らす靴の動きが止まり、使い込まれた軍靴の踵が床を踏んだ。伊奈帆は立ち上がり、彼にしてはゆっくりとした動作でベッドの端に腰を下ろす。軍服の階級章の細かな模様や襟のデザイン、癖の強い栗毛に交じった白い髪に初めて気づく。
伊奈帆が大きく息を吸い、背筋を伸ばして向き直る。同じ目線で、こんなに近くで顔を見るのも初めてだ。
「スレイン」
君、お前。二人で会う内気安く呼び合うようになり、他の誰からも呼ばれることが無くなった名を今改めて声に出す。伊奈帆以外に、面と向かって、何の悪意も衒いもあらずに呼ぶことはない死人の名前だ。それは特別な響きを持ってスレインの耳に届く。
伊奈帆が右手を差し出した。胼胝のできた、少し歪んだ指の形と疎らに色の違う皮膚。戦いを知る軍人の手。
僕の命も、この手が守ってきた沢山のものの一つなんだろう。
「好きです」
僕と、結婚しませんか。
見つめる右目の褐色は、戦禍の炎によく似ていると昔は思った。
今は、少し違う。
差し出された手に右手を重ねる。
「僕でよければ」
幼い頃に寒い街で住んでた家の、暖炉の炎を思い出す。
伊奈帆の右手がスレインの手を強く握った。
指先は冷えて肌は固い。強く握って白く張った指の腹、接した部分の血管で鼓動の速さが伝わる。
「君がいい。一緒になろう」
くしゃりと笑う彼を見て、僕もずっと好きだったんだな、とようやく気付いてスレインも笑った。