○EX面ボス 閉じた恋の瞳
 古明地こいし(こめいじ こいし)
 Komeiji Koishi
 種族:さとり
 能力:無意識を操る程度の能力
 古明地さとりの妹。
 彼女もさとり同様、心を読む妖怪であった。
 しかし心を読む事で嫌われる事を知り、こいしは心を読む第三の眼を閉ざしてしまった。
  それにより心を読む能力を失ったが、代わりに無意識で行動する事が出来る様になった。
 地底の住人からは嫌われる事は無くなったが、同時に恐れられる事も動物たちに好かれる事も無くなった。
 心を読む力は、自らの心の強さでもある。
 それを嫌われるからと言って閉ざしてしまう事は、ただの逃げであり、結局は自らの心を閉ざしたのと変わらない。他人の心を受け入れないで完全にシャットダウンする事なのだ。
 彼女は大した目的もなく、あちこちをフラフラ放浪するだけの妖怪となってしまった。彼女としては別にそれが楽しいのだから、何の問題もないのだが。周りから見ると少し可哀想にも見える。
 姉のさとりも閉ざされたこいしの心だけは読む事は出来ず、いつも何処で何をしているのかよく判っていない。ペットの猫のように遊んで帰ってきては、また遊びに出て行ってしまう。
 さとりはそんなこいしを不憫に思い、最近ペットにこいしと遊ぶようにと命令し、何匹か専属のペットを与えた。ペットを飼う事で少しずつ目的が生まれ、他の人の心を受け入れる事も出来る様になると考えていた。少しずつだが、ペットを飼い始めてからこいしも変わってきた様だった。
 『東方地霊殿』キャラ設定より
 ふと、古明地さとりは違和感を覚えた、気がした。
 音が鳴ったような気がする。しかしその音色は杳として知れず、ただ耳の奥に居座る残響にさとりは眉をひそめた。
 ここは彼女の居城たる地霊殿の書斎だった。事務作業や執筆の仕事場。無駄に凝ったシャンデリアとステンドグラスの外から漏れる光が室内を照らし、書架が左右を囲う中で、紅茶セットが仕舞われた食器棚に作業デスクと来客用のソファーと机があるのみ。
 この部屋には来客などの用向きがない限り、基本的に他者が入ることはない。ペットはそのような言い付けを律儀に守っているし、怨霊は彼女といることを嫌がり、そもそも客は来ない。
 現に、さとりが見回しても誰が見当たることもない。では外の廊下に、と当然のように思い付き彼女はその能力――心を読むことができる異能で探るも、やはり誰もいない。
 気のせいか、と普通なら思うだろう。誰だってそれを、そのようなあったということを、無意識の忘却へと放り捨てる。
 だが。さとりはそう思わなかった。
 もはや反射的に、さとりは自身の眼を――周囲に漂っていた第三の眼をひっ掴まえ、眼を合わせる。条件付けされた機械的反応。すると第三の眼はにわかに光を発し始め、その明滅と共に、無意識の棚に仕舞い込んでいた類似した出来事を無理矢理引きずり出す。
 一連の出来事は、わずか数秒のことであった。
「……お帰りなさい、こいし」
 ふっと脱力した彼女は、そう言葉を虚空へと投げかけた。
 誰もいないはずの室内であるのに。
「あら。ただいまー、おねえちゃん」
 まるで最初からそこにいたかのように、その少女はさとりの背後に立っていた。
 華奢な体躯に黄色の上着に黒のスカートを身に付け、それにさとりと似た第三の眼とその管がまとわりついている。女優帽をかぶった、色が抜けて野放図な髪の間から、洞のような瞳がさとりを映した。
 彼女はくすくすと、向日葵のように笑った。貌のない、のっぺりとした向日葵のように。
「またわたしを忘れてたのね? なんてひどいおねえちゃんなのかしら。しくしく」
 そう、からかうように宣う妹――古明地こいしに、さとりは振り向きもせずに鼻で笑った。
「私のせいじゃなく自業自得よ。あんたが変なことするから、私が手間をかけなきゃいけなくなったんじゃないの。いやだったらちゃっちゃと眼を開いたらどう?」
「えー、無理よぉ。だってそんなこと、忘れちゃったんだもん」
 こいしもさとりに軽口を返す。おおよそ、嫌味の一つや二つを交わすのがふたりの常であった。
 そもがそも、ふたりの種族――覚妖怪という存在が嫌味そのものである。心を読む妖……それが何を語ろうと語るまいと、心ある者にとっては嫌味にしかならない。
 だが故あってこいしは心を読めなくなった。同時に、さとりはこいしの心を読めなくなった。その心を無意識に沈めてしまったのだ。
 それから時が流れ、ふたりはそのことを問題視しないで済むようになっている。新しく互いへの距離感を測るには充分な時間があった。
 あるいは、そうして嫌味を交わすのが、覚としてのコミュニケーションなのかもしれなかった。
「ところで、何か用かしら。わざわざこんなところまで来るなんて」
 少しばかり長いふたりの間の挨拶が終わったところで、さとりは水を向ける。
 この地霊殿の住人である以上、こいしもさとりが書斎に籠っている理由は知っている、はずだ。これまで書斎に現れた時も、一応大体は用件があった……もっとも、彼女が無意識に浸っている以上、用がなくとも入ってくることもあるし、さらにいえばあっても忘れてしまうこともしばしばあった。
 そんな、とりあえずといったさとりの質問に対し、
「あ、そうそう、こんなの拾ってきたよー」
 こいしは上機嫌そうな跳ねた声でそんなことを宣言してきた。
 はて、また拾い癖か。今度は何ぞと、やや渋さをにじませたさとりはようやく振り返る。
「……」
 そこには、夜が立っていた。
 夜闇のような、喪に服するような黒の袍服。大拉翅に九もの月を浮かべ、星の如く散りばめられた黄金が、それを夜だと思わせのだろう。
 それを――その少女を目にした瞬間、私事への没頭で切ってあった警戒心が警報を鳴らした。
 これは、目の前の奴は、危険だと。
 半ば反射的な、しかして経験に裏付けられた確信に、思わず腰が浮きかける。
 だが、それの目はさとりを捉えておらず、茫と虚空を眺めるばかり。
 ……害意は、ない。今のところは。
「……こいし。何でもかんでも拾ってこないの。どこで拾ってきたの、それ」
 少女の内心を読んで当座の危険性がないことを知ったさとりは、眉根を揉みしだいて苦言を呈す。
 彼女がこうやって何かしら拾ってくるのは一度や二度ではない。物や花や動物が主ではあるものの、人や妖怪が持ち帰られることもままあった。
 こいしのそれは蒐集癖ですらない。面白そうだから、かわいいから持ち帰った、だけ。拾ったあとのことなど考えてもいないし、飾りもしない。
 そんなだから熱心に自慢したものであっても大体は一日と経たずに部屋に放置されることになる。「ちゃんと世話するから」という定型句は破るためにあると言わんばかりの、子供よりもひどい拾い癖と口約束だった。
「んー? どこ? どこでだっけ?」
 当の本人はやはり自らの所業にも首を傾げ、あろうことか隣のそれに問いを投げかけた。
 が、その呼びかけにさえそれは反応を示すことがない。
「なんか分かんないけど急に攻撃されてさー。やられたらやり返せーって弾幕ごっこしてたら急に攻撃止めて着いてきたの」
 こいしの言うことの訳が分からないのは常であるのだが、今回は訳の分からなさが二倍である。こいしの説明が分からなければ、少女のやっていることも分からない。
 どちらかといえば彼女にしては珍しく平易な説明なのだと経験上思いはするが、説明中の少女の行動が台無しにしていた。
 どうしたものか。兎角、これ以上こいしに訊いても進展はあるまい。そうした流れで、さとりは少女の心を覗き込んだ。
 その心は虚ろで、けれども空っぽではなかった。ただ、こいしの言葉はどこにも見当たらず、これまでの会話も聞いていたかどうかさえ怪しい。
 まるで倫敦で形容される濁った霧のようだという印象をさとりは抱いた。エンドウ豆スープに譬えられるほどに濃厚な倫敦の霧に似たその重い靄の正体は、外部の刺激を極力カットしているために反応が鈍くなっているのだと気付いた時、さとりはそれを知覚した。
 ……下。下が揺れている。一枚板の下から、泡が湧き立ち、熱が漏れ出ている。そんな心象風景と共に。
 ――憎悪が。奥底で伏していた膨大な憎悪が、さとりに牙を剥いた。
「――!」
 憎い。怨めしい。殺す。憎い。怨めしい。殺す。憎い。怨めしい。殺す。憎い。怨めしい。殺す。
 ――殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す――
 ――殺す。
 莫大な感情の激流にさらされたさとりは、瞬時に対応を取った。
 先と同じように第三の眼を引っ掴み、自身に己が術をかけると、さとりは引き攣った叫びを上げ始め、その場でうずくまった。
「――ぁ、っ、は、ぁ――」
 まともに呼吸すらままならなず、唾液を呑み込むこともできなくて垂れ流しにしているさとりに、
「あらー」
 しかしこいしは急に倒れ込み喘ぐさとりを笑顔で覗き込むばかりで手を差し伸べることもせず、
「……」
 少女はそもそもさとりを見向きもしなかった。
 汚い嗚咽から数分ほど経った頃。さとりは徐に立ち上がった。
「おろ。終わった? コラージュ」
「……全くあんたは。面倒なのを拾ってこないでちょうだい」
 バックアップを己の心に流し込み終えたさとりは、こいしの言葉に受け応えながら手拭いを取り出して口元を拭う。
 ……対覚用爆弾を持ち込んでくるとか、本当に何考えてんのこの娘。いや何も考えてないのか。
 そうさとりが露骨な渋面を浮かべ向けても、こいしは意にも介さず飄々と流す。
「面倒なのってひどいのー。偏見だわ。ひとの心だけ見て判断しちゃって」
「……いや、間違ってなくない? それ。心だけ見れば判断付くでしょう」
「だってこんなにも大人しいんだもの。面倒なんてないじゃない。ちょっと殺されるかもしれないってだけで」
「充分面倒よ」
 ……これだからこいしは。
 わずかに湧いた憤りも相手がこんな調子では胡散霧消する。無意識相手ではどれだけ罵詈雑言を浴びせようとも右から左へ馬耳東風だ。やるせなさは大きな溜め息へと姿を変えて口から漏れ出た。
 ともかく。
「……とりあえずお座りください。お茶を用意しますので」
 どのように対応するにせよ、彼女をこのままというわけにはいかないと、さとりは少女をソファーへと促した。
 どう反応するのか、内心さとりは気を引き締めていたが、少女はさとりの提言を受けてしばらくはそのまま突っ立っていたものの、やがて不意に滑るようにして歩き始め、ちょこんとソファーに腰を下ろした。
 緊張の面持ちでそれを見守っていたさとりは小さく安堵の吐息をこぼし、紅茶の用意を始めた。
 ……確かにあの娘の言う通りではある。
 ポットに淹れた茶葉を蒸しながら、さとりは現状を整理する。
 ……ああいうタイプは一度心を読んだだけでそのひととなりは分かり得ない。殊、心が鈍い者は。
「んー祁門!」
「はい正解」
 ちょっとばかりの隠し味を投入して、来客用テーブルの上にカップを並べて橙色の紅茶を注ぐと、上品な蘭の花香が広がる。茶葉は地底では生育が非常に悪いので少々贅沢ではあるが、この際四の五の言ってられない。些末であろうと機嫌を取る意気込みであった。
 ……だが全く言葉が素通りしているわけじゃない。刺激に対する反応も生まれるはずだ――彼女の場合、それにこそ細心の注意を払わねばならないのだろうが。
 さて、と彼女の対面に座ると、端正な顔立ちが、ゆるりとさとりへと視線を落とした。
 ……やはり。全くの無反応ではない。ただ、その様はまるで機械じみているが。
「どうぞ、お口に合えばよいのですが」
 さとりが紅茶を勧めると、少女はやはり緩慢な反応で、ややあってからカップを手に取り、口に付ける。
 ……まだ熱いはずだけれど冷ます様子もない。これも鈍さの表れか。
「さて。遅くなりましたが、私は古明地さとりというものです。こちらは妹のこいし。まずは妹が失礼をいたしました。申し訳ありません」
 まずは対話を試みるべく、さとりは最初に頭を下げた。ついでに犯人の頭を管で抑え付けて一緒に下げた。
 無論というべきか少女はカップの水面を見つめるばかりで、反対にこいしが首の力だけで顔を上げてぶぅとむくれる。
「えー、わたしむしろ被害者じゃない?」
「そちらのお名前をお伺いしても?」
「普段はあんなにわたしを求めてるのに都合が悪くなったら無視するのね? ひどいわ、いけず!」
 隣でこいしが笑いながら茶々を入れるので、やむなしさとりは管を首に回してきゅっと絞め上げる。するとこいしは急に勢いをなくして、すんと黙り込んだ。
 わずかな間、書斎に沈黙が下りた。
「純狐」
 さとりが静かに待っていると、ふと少女が口を開いた。
 初めて聞いた彼女の声は、低く大人びていて、淡々としたものだった。
「純狐。それがわたしという墓標。仇への布告。友への標。それ以上の意味などなく、だから私に名などない」
「なるほど、純狐さんというのですね。そうお呼びしても?」
「名前、あるじゃーん」
 再び茶々を入れ始めたのでさとりはもう一度、こきゅっとした。
「失礼。しかし妹の言う通り、それこそが名と言えましょう。何故ならその名があなたを縁でもって縛り付けているのだから」
 彼女――純狐は答えなかった。嫌われ者のさとりにとってはよくあることではあるが、しかし彼女の場合は嫌っているからなどではなく、かけた言葉がすでに心から抜け落ちてしまっているのだ。
 聞いていない、というよりも。反射的な――自己防衛的な反応によって聞き流したのだとさとりは分析する。
 ……橋姫と似て非なる存在だ。どちらも激しい情動が自身を焦がし、燃え盛っているが、あれはそれを隠すことなく喜々として発露しているのに対し、これは一応程度に――その自覚が、あるいは本心がどうかは別として――節度を弁えている。
 うずりと。覚の悪い癖が疼く。ひとの瘡蓋をついついほじくり返したくなる覚の性が咽喉元までせせり上がったが、堪える。
「地の底は初めてでしょう、付き人を付けてお送りいたしますよ。どちらにお住まいで?」
 努めて柔らかい調子でさとりが訊ねる。こんな悪目立ちするような存在が地底にいれば、さしものさとりも耳にしないはずがない。少なくとも、上の住人だろう。
 相変わらずテンポのずれている少女はじぃと黙りこくっていたが。
「月」
 唐突に、言葉をこぼした。
「月?」
 不穏な単語に警戒を強めたさとりの言葉を遮って、純狐は勢いよく立ち上がった。
「月。そうだ。月に行かねばならない。奴をあの売女を嫦娥をあの牢獄から引きずり出し引き回し肉の一片足りとも残さずひき潰し叩き潰して殺し殺して殺さねばならない、奴の罪科を死でもって苦痛でもって贖わせねばならぬ、罪に報いを罰を凌辱を必ず必ず殺してやる、嫦娥――嗚呼憎らしや我が怨敵よ」
 あれほどまでに重かった口が、驚くほど滑らかに憎悪を吐き出す。生気の欠片もなかった瞳が、殺意に爛々と朱く輝いている。彼女のその心から
溢れ出す激情が、ピシとステンドグラスに罅を入れた。
 それに止まらず、剥き出しの憎悪はさとりの心をも呑み込もうとする。
 憎悪。憎悪。憎悪。
 憎い。憎くて堪らない。ただひたすらに憎くて憎くて憎くて憎い。尽きることを知らず、次から次へと湧いてくる。
 そして、憎悪に埋もれた心の中で、かすかに流れてくる見知らぬ記憶。きっとそれは、彼女の過去。
 ――否、それは他の誰でもない「わたし」の記憶。「わたし」の感情もの。
 彼女の憎悪が、さとり自身の憎悪へと刷り込まれる。自身がさとりであることを、流れてくる記憶と激情が押し潰し、取って代わろうとする。
 他者との心の区別をなくすことで読み取る他心通は、故にこそ他者の心が己そのものとして心に映される。
 ――そう、「わたし」は、憎いのだ。
 我が子を殺した羿が。唆し裏切り月へと逃亡した嫦娥が。匿う月の民が。
 ……憎い。憎い。故に殺さねばならぬ。
 ……まだ嫦娥の奴めは生きている。罪を犯してなお、のうのうと監獄の中でくつろぎ嘲笑っている。それが赦せるか? 赦せぬ、赦せるものかよ。
 だから、「わたし」は――
「月、ですか。流石に私どもでは、そこまでお送りできませんね」
 さとりは空惚けるような表情で、指を組みながらゆると首を振った。
 ひくと純狐の瞳がわずかに震え、ゆっくりと、しかして鋭い殺意と共にさとりを射抜く。
「何故。……よもやお前も」
「あなたの仇に与してなどいませんよ。単純に、私どもには月へと至る手段がないだけです」
「……そう」
 先んじて否定すると、彼女の殺意はなお蜃気楼の如く揺らいでいたが、ややあってふっとその感情が抜け落ち、再び能面じみた表情でソファに腰を下ろした。まるで別人かと思うほどに急激な変化。
 ……なるほど、こういう性質ね。
 これはスイッチが分からないタイプの爆発物だ。他の誰かに理解しようがない、ともすれば自分でも分からない怒りのスイッチ。
 何故なら常に怒っているから。たとえその単語や文脈がかけ離れていたとしても、彼女は常に怒っているからこそ、何もかもを憎悪の火種へと結び付けてしまう。刺激を薪にして延々と燃え続ける。焔そのものが彼女の本質。
 表面上ではいかに貞淑に見えようとも。心の表層では茫と濁り切っていたとしても。他の反応や感情を示してみせたとしても。その根底には確かな憎悪がある。決して消すことのできない憎悪が。
 ……最初の不意打ちの時からあの嫉妬女橋姫と同じ対策しててよかったわ、ほんと。
「……ところで、不躾ではありますが。何故妹に攻撃を仕掛けたので?」
 純狐の人物像をある程度把握してきたところで、さとりは疑問を投げかける。
 理由は分からないが、妹が何かしでかした可能性は充分にある……無意識に動いてしまう彼女は理性のストッパーがないのだから、何をしでかしてもおかしくない。
「む、おねえちゃん、わたしを疑ってない?」
 と、こんな時だけ勘が働いたのか、こいしがさとりの膝へと身を投げ出して、むぅと膨れっ面を向けた。それをさとりは睥睨して嘆息する。
「疑わざるを得ないわ、あんただし」
「たったひとりのかわいい妹の言うことを信じられないって言うの?」
「日頃の行いよ」
「ホントだもん、わたし被害者よ!」
 なおもぶーたれるこいしの口をさとりは手で塞いだ。抵抗のつもりなのか掌をべろべろと舐め回されているが気にしない。
 ……だがそれは同時におかしくもある。
 何故、彼女は――純狐はこいしを認識できた?
 いや、実際にこいしが全く認識されないことはない。ただ、意識に上らず無意識の内に認識が処理されるだけ。たとえ見えていたとしても見落としてしまう。そういう、胡乱な存在。だから目撃情報が皆無ではないが、多くもないのだ。
 だがそれはなおさらのこと彼女と相性が悪い。見つける可能性は限りなく低いはずだ。……かといってゼロと言い切れない辺りが無意識の厄介なところなんだけども。
「……純粋、だったから」
 少女は初めて首を傾げて考える素振りを見せると、非言語的な思考の荒波から拙い言葉を掬い出した。
「わたしと全く違う在り様。わたしとは異なる純粋。だから、気になって」
 意識を放り投げて無意識に浸るこいしと。意識から無意識までの全てが憎悪に塗り潰された純狐と。
 どちらの在り様も純粋そのもの――存在の本質として、そしてただ一つでしかないものとして。
 ……だから惹かれた、と。偶然が引き金となって、ということかしらね。
「気になったからって攻撃するぅ? フツー」
「あんたひとのこと言えないわよ」
 ……妹が「気になったから」で攻撃を仕掛けた結果、苦情がくるのは私だというのに。本当に、何で自分のこと棚上げにして言うのかしらね、この娘は。
 ふたりのそうしたやり取りに、純狐は――さとりにとっては非常に意外なことに――わずかに表情を緩めた。
「……嘘吐きね、ふたりとも」
「あら、おねえちゃんもうバレちゃってるじゃん。はっやーい」
「あんたも言われてるよ。……失礼、嘘、とは」
 すっかり涎でべとべとになってしまった掌と、ついでにこいしの口回りもを手拭いで拭き取りながらさとりは訊ねる。紅茶で咽喉を潤した純狐は、相変わらず濁った目でふたりを見据えた。
「心配してなくはないのに誤魔化している。それに気付いていながら乗っかっている。似たものね」
「そうなの?」
「何で当事者あんたが疑問系なのよ……」
「ふーん。似てるって初めて言われたわ」
 カップから湧き立つ湯気を吐息で弄びながらこいしが言う。さとりはそれに言及することはなかった。
 やや不自然に会話が途切れ、室内に沈黙が垂れ込める。
「でも。あなたは違うのね」
 けれど。その微妙な空気をまるで気にする様子もなく、純狐がさとりへと視線を向けた。
「はぁ。違う、ですか」
「心配をしているのは間違いないけれど。それはどこまで本物?」
 低い声色の変わらない、機械的な問いかけに。
「……」
 さとりは、答えなかった。
「あなたが彼女に向ける感情は本物の皮をかぶせた張りぼてに見える」
 純狐は座ったままだというのに。微動だにもしていないというのに。
 圧がある。問い詰め、追い詰めるかの如き言葉の圧力プレッシャーが。
「あなたのそれは義務感に近い。純粋じゃない。でたらめ。ぐちゃぐちゃ。……なのに確かに本当に心からその娘を想っている。嘘を吐いてなければ罪悪感もない。……二律背反ですらない。本心だというのにその心自体が浮付いている。だからその想いも地に足が着いてない。葛藤もなければ表面ばかりのメッキでしかない。存在そのものが歪で歪んでいる。何故?」
 彼女の宙を彷徨っていた眼が、真正面から、ひたりとさとりへと定まった。
 そこには、憎悪の焔ではない、好奇があった。
「……あぁ、わたし、あなたのことも気になってるみたいね。その娘も気になったけれど、あなたも。わたしとは正反対だから。……ねぇ、どうして?」
 かくん、と首を倒しながら純狐は重ねて問いかける。
 ……厄介なことになった。
 胡乱な意識が、わずかばかりの好奇に気を取られている。それまでの彼女はほとんど独り言のようなものだった。外部からの刺激を摩耗した識で辛うじて受け入れ、他者へ投げかけるのでなく自己完結した言葉であったのが、さとりへと不意に投げかけられた。
 ただでさえ危ういというのに、胡乱なままであれば見逃していたものも、中途半端に意識し始めると余計に火種へと変換してしまう。その時、彼女の発する激情と攻撃に耐えられるかどうか。
 だが。
「……この娘のため――この娘を忘れないためですよ」
 さとりはそうした打算を抑え込んで答えた。
「忘れない、ため。何故」
 至極当然の疑問。さとりからすれば誰であろうとも話したいものではなかったが、適当に言いくるめようにも、この手の輩は嘘に敏感だ。書斎で暴れられたくはなかった。
 ……それに。どうせ、忘れるでしょうし。
 彼女にとって外部の刺激は全て薪なのだから。いずれこの記憶も憎悪の焔に焼き尽くされ、跡形もなくなるに違いない。
「この娘は現在、他者の無意識に潜んでいるようなもので……つまり認識していても意識しない状態になるのです。六根が正常に働いていたとしても、眼識耳識鼻識舌識身識意識、いずれにおいてもこの娘の存在に、残滓に気付けない」
 さとりは純狐と視線を交わしながらこいしの髪を梳き始める。こいしは茶々を入れなかった。
「だから。私は何か違和感に気付いた時、自らに想起の術をかけます。何に対しての違和感か分からずともそう条件付けているのです。……そもそもこの娘のことさえ忘れてしまっていることもある。大体そんな時はこの娘のせいだから。そうして無理矢理意識させることで、ようやく見つけることができる」
 無意識に潜むのであれば。意識でその領域を減らせばいい。全てをなくすことはできずとも、そうすることで炙り出すことはできる。
 だって心という機構はそう複雑なものではない。その反応は快と不快で、流動し、連鎖する。古明地こいしというキーワードを思い出せれば、あとは芋蔓式に想起し、意識する。
 違和感に対し、思考では辿り着けないならば、逆にそれを条件付けして機械的に自らに決まった術をかけることで、さとりはこいしを認識できるのだ。
 だが、逆に言えばそうまでしなければさとりでさえもこいしのことを認識どころか記憶することさえできない。
「私はこの娘の楔。本当に消えてしまったり、あるいは誰にも気付かれなくなることのないように」
 目を逸らすこともなく言い終えたさとりに。
「……それだけ?」
 純狐はなおも問いを募らせた。
 ふ、と。さとりの口角が、わずかに緩んだ。
 刹那の静寂。
「自分のためだよねー」
 沈黙を破ったのは、問答していたふたりではなく。
「わたしのことをまるで思いやってるーみたいに恩着せがましく言ってるけどさー。結局自分のためだよねーおねえちゃんは。ほんっとーにジコチューなんだから」
 退屈そうに、なおもさとりの膝上に頭を預けながら、こいしはけらけらと嘲笑った。
「鏡が欲しいなら出すわよ?」
 動揺することもなく皮肉を返すさとりに、しかし無意識は取り合わない。
「自分の心が怖かったんでしょー? 眼を閉じて心を読めなくなった妹が、こんなにもかわいい妹が、それまでと同じように好きでいられなくなったことが、怖かった。だってわたしたちは覚だもん、姉妹愛じゃなくてナルシストだって気付いてさ、その醜さに耐えられなかったんでしょー?」
「覚を止めた妹妖怪が心について語るの?」
「だから好きという感情を風化させないために、大昔の感情を引っ張り出して来る。でもそんなんじゃー上滑りしても仕方ないよねー、だってズレてんだもん。今の自分の感情を有耶無耶にしてる。覚ともあろうものが、自分の心から目を逸らしてるなんて滑稽よ滑稽。そんな、曖昧な継ぎ接ぎだらけのコラージュこそ、おねえちゃんの心。そりゃー純粋なわけナイナイ!」
 けらけら。けらけらと、無意識が評して嘲笑する。
 正面から見つめるこいしに、しかしさとりが目を合わせることはない。
「それはこちらの台詞。あんたこそ自己中の極み、自己陶酔ばかりで配慮もない、だから心も読めなくなった。心を棄てたなんて悲劇のヒロイン気取ってるけど、本当は眼を逸らしているだけ。そんなあんたが純粋だなんて、笑えるわ」
「ひっどーい、陰湿ー、ってーか配慮がないのはおねえちゃんでしょー。だから嫌われんのよー」
「嫌われて結構。それと、先に仕掛けてきたのはそっちよ」
 好き勝手な物言いの末に、奇妙な沈黙が垂れ込めた――つまるところそれぞれが意固地になりかけていた。悪罵には痛罵を、言い返すためだけに半ば臨戦状態であった。
 その中でふたりは互いに嘲り笑い合う――けれどもふたりは、膝を枕にし、また膝を貸している状況を止めようとはしない。
 結局のところ、お互いをどう思っているのかなど、ふたりにはよく分からないのだから。
「何故?」
 ほんのわずかな間に流れた沈黙。その冷戦状態に、蚊帳の外になっていた純狐が首を傾げた。さとりは再び緊張感を取り戻すが、先程よりはそう強いものではない。
 ……また変なスイッチが入ったようね。
 見開いた目の瞳孔が収縮している。心象風景に圧力がかかり、動きを止めている。
 思考を半ば停止させているというのに、彼女はしかし自ら答えを求めた。
「分からないな。何故感情が風化する?」
「だってさ?」
 間髪入れずにこいしはさとりへと振った。流石のさとりも、じろりと半眼をこいしへと差し向ける。
「言ったのあんたでしょ」
「眼を逸らしてるから分かんなーい」
 何がそんなに面白いのか、笑いながら宣う妹に、呆れた息をこぼしたさとりは改めて純狐と目を合わせた。
「……維持できないのですよ。同じだけのエネルギーを。何故なら時間という鑢にかけられるから。鮮度がなくなるから。感情にも、心にも、鮮度というのはある」
「それはおかしい。どうして維持できない? どうして摩耗などする? どうしてそのようなことを赦せる?」
 ず、と。勢いよく立ち上がった純狐は、再び感情を燃やし始める。朱い瞳に殺意と共に生気が灯る。
「否、否。してはならない、風化などあってはならない。どうして忘れられるものか、不倶戴天の仇敵を」
 ……ずっと一つのことを繰り返し繰り返し、何度も何度も自らに刷り込むようにして想起し、その度に憎悪の焔を滾らせる彼女にとって。忘却という心の機構は果てしなく赦しがたいものなのだろう。
 もし。その憎悪が翳るようなことがあれば。彼女は自身の存在意義を失ってしまう――生きる意味を失って、消えてしまうのだろう。
 だから彼女はそれを赦さない。自らの忘却さえも。
 復讐というよりもその姿は、まるで自罰や自傷じみていた。
 ……あぁ。でも。
「でも。そういうあなたはどうなんです?」
 ひくりと純狐の体は動きを止めた。そうして、錻力のように軋みを上げながら、さとりへと視線を移す。
 変わらず、さとりを映しながらも彷徨う瞳は、しかしほんの一瞬だけ揺らぎを見せる。
 にぃ、と。
 さとりの口は、わずかに、だが確かな笑みへと形を歪めた。
「あなたのその復讐心は、憎悪は、憤怒は、どこまで純粋なのですか――本当に、最初のままのものですか」
「……愚弄するつもりなら応じましょう」
「いえいえ愚弄などとんでもない。むしろ私はあなたに敬意を抱きましたとも。それだけ長い間、復讐の焔を燃やし続け、挑み続けるのは並大抵のことではない。……しかしですね、諸行無常は絶対の真理。変化のない存在などありはしない。では、あなたは? 憎悪が一片たりとも欠けがないと、言い切れますか?」
 純粋たろうとしているからこその自己防衛機構は、つまるところ欠落から目を背けるものだ。妹と同様に。
 それを、こんなにも必死に自身を壊し、取り繕う姿を見てしまえば。
 ……やっぱりこんな据え膳、何もしないというのもねぇ。
「わたしは……」
「忘れない、などと。そんなことはないのです。どれだけ憎しみを抱いていても、それを忘れる瞬間はある。……よい友がいるのでしょう。友といる時は? 侍従の妖精といる時は? 地上の兎といる時は? 最近、増えてきたのではないですか? 憎悪の焔が途切れることが。純粋な憎悪以外の思いがよぎることが」
 それが、覚の性なのだ。
 嘘を暴き立てるのと同じように。目に見えた地雷であろうとも。そこに心の瘡蓋があれば、爪を立てて毟り取り、傷口を暴き立て、どれどれと覗き込み、その程度を評するのが。
 そうして痛い目を見るのも一度や二度ではない。ましてや、純狐という歩く爆弾を前にすればどうなるか。
「……」
 だというのに。純狐はすぐに反応できなかった。もうすでに、刺激の全てを憎悪へと転換するスイッチが入っているはずなのに。
「ほら、今も。思い出した。憎悪の焔が途切れた。思い知ったでしょう? 感情の無常さを。あなたといえど、真理に逆らうことはできない」
 畳みかけるようにさとりは言葉を重ね、誘導する。
 もしかして、という自らへの疑念が。純粋を、自ずから不純へと貶める。本当は盛っているはずの火勢を弱める。そう見えるように嗾ける。
 ……地雷原であるが故に、その心は隙だらけ。どこから攻めても爆発は免れ得ないものね――私でなければ。
「――いいの、それで。本当の意味で純粋な存在になることはできなくとも。完全な純粋なんてありえないのだから。あなたは無理に純粋になる必要はないの」
 だから、さとりは甘言を弄す。一転してさとりは柔らかい調子で純狐に言葉をかける。
 いつの間にか、さとりが純狐の存在感を抑え込んでいた――呑み込んでいた。
「本当は、辛いのでしょう? 苦しいのでしょう? だってあなたの生は全て憎悪の糧になってしまった。これまでもこれからも、全部が無意味になる……それが純粋という在り方。だから純粋で在り続けようとすることが、本当は虚しくて、でもこれまで犠牲にしてきたものを振り払えないから必死に目を背けて」
 小さな瑕疵を、言葉のメスでゆっくりと、丁寧に広げていく。
 普段であれば恐らくそれでも気付かない鈍感さと、同時に相手を殺して口を塞ぐ反射機能があったはずだ。それが、好奇心によって鈍さと反応が薄れている。だから、この程度の軽口がこうも瑕口に沁み込んでいく。
「あなたは狂え切れていない。だって賢く、きちんと分別あるお方ですもの。自らを律しておられる。だから思考を止めて、純粋で在ろうとする。復讐だけを果たす機能であろうと。でも狂い切れないから、復讐以外の思いも去来する。それが邪魔で、申し訳なくて、純粋になり切れない自分までをも憎悪する」
 強者を傷付けるためでもなく。強大な力を手中に収めるためでもなく。復讐を否定するのでもなく。説き伏せようとするのでもなく。
 その心を陥れるために。高次にある心を、その高みから引きずり下ろす、その小さな快感のために。
 目的に小さな傷を付ける。致命傷ではない、けれど二度と元には戻れなくなる決定的な瑕疵を。
 心を弄び、それを楽しみながら、言葉巧みに、少女の程度を落としていく。
 これが、古明地さとり。これが、覚という妖怪だった。
「いいの。それでも。誰もあなたを責めはしないわ。ねぇ……?」
 ――焔が、揺れる。憎悪が、揺らぐ。
 純狐が努めて停止させていた思考が、回り始める――
「えー、別にいいじゃんそれでも」
 わずかな間隙――それを抉じ開けるように横槍が入った。低く欝々としたさとりのものではない、甘ったるい声がふたりの間に流れた空気を引き裂く。
 ふたりが発生源へと思わず目を向ける。
 変わらず姉の膝枕を占領していた古明地こいしはふたりの視線に臆しもせずに、なんてことないといった様子で言葉を続けた。
「ずっと同じなんてことないならさー、新しい形の憎しみにすればいいのよ。息子の仇だとか縛られずにさー、憎しみって形だけで中身を更新していきゃいいって。自分の好きなようにさ。だって、復讐できたらおんなじことでしょ? 完全とか純粋だとか、そんなもん最初っからいらないのよ」
 何に拘っているのかまるで分からないといった風に「そうでしょう?」とこいしは笑顔を浮かべる。
 まるでこれまでの彼女を否定するかのような言葉の数々。
 逆鱗に触れ、途中で殺されていても不思議ではない。だというのに。
「……」
 言葉は遮られず、ましてや害されることもなく、純狐は最後までそれを聴き終えた。
 そうして――受け入れた。
 さとりの第三の眼が、わずかに驚愕を彩る。
 ……まさか、こいしの言葉を聴き入れたの? 彼女が?
 言っている内容の本質は、さとりとこいし、どちらも変わらない。
 完全でなくても、純粋でなくてもいい。それは無理なことなのだから。それでも復讐していいのだと。そう、全く同じ意味合い。
 けれどもさとりのそれは元々内側にあったものを増幅させただけ。一方、こいしの場合は内側にない、全くの他者からのもの。
 だというのに。さとりの言葉で罪悪感や自己嫌悪といった類の負い目が顔を出したはずが、こいしの言葉を受け入れたことによって意味が転じて前へと向く。
 同じことが、認識の転換で劇的に変化していた。
 純狐が、純粋で在ろうとする者が、他者の意見を聞き入れるとは考えられなかった。純粋とは究極の自己完結だというのに。
 ……いいや。逆? 純粋だから受け入れられた、のかしら。
 逆にこいしの言葉によって雑分を排斥できたことになるのだろうか。
 それは、何も他の思いを取り除くといった意味でなく。
 そうこう悩んでしまう不純を。
 目的を純粋なものとし、その過程――自身の不純には目を背ける。
 とどのつまり、それはこれまで通りではある。さとりがほじくり返した瑕痕が、こいしの言葉によって再び瘡蓋に戻っただけ。
 ただ。それまで無自覚だったことに対して一つの答えを得たというのは、彼女が純粋を邁進する活力となるだろう。
 ……もう一押しだったんだけど。仕方ない、ここまでね。
 内心でさとりは引き際と悟った。
 さらに言葉を捲くし立てて今度こそ心を折ることもできただろうが、一度立て直った以上、如何せん手間がかかる。というよりも、立ち直ったということは自己防衛の反射機能も復活している可能性が高い。
 希少な茶葉と誘引性のある隠し味が無駄になったけれども、リスクとリターンが見合わない以上、趣味嗜好の一環としては割に合わない。
「あれー、ナニナニ? ふたりともおねむなの? しょうがないにゃあ、わたしのパンチはよく眠れるってペットにも評判なのよ」
「お茶が冷えてしまいましたね。淹れ直しましょうか?」
 噛み締めていた純狐とその腹を探っていたさとりの間で再び流れた沈黙に何も考えていないこいしが適当を抜かし始めたところで、さとりは遮るようにして仕切り直した。
 純狐の反応は前の如く鈍さを取り戻し、ややあってゆっくりと首を振った。
「……いいえ、結構。お邪魔なようだし、そろそろ出るとするわ」
「私は何も言っていないのですが」
「えーもう出てっちゃうの? 家出? 反抗期?」
「嗾けたのあんただしそもそも飼ってません」
 ぺしりとさとりはこいしの額をはたき、こいしは奇妙な悲鳴をあげる。
 そんなふたりのじゃれ合いを、立ち上っていた純狐がじっと眺めていた。
「何か?」
「いや……そうね。余計なことだけれど」
 一度は切り上げようと立ち上がり踵を返した純狐だったが、やおら振り返るとふたりを再び一瞥して。
「互いに素直になってはどうですか」
 そう、言い放った。
 何を言われたのか理解できないとばかりに虚を突かれた表情でふたりはきょとんとして。
「……私たちは素直にしているつもりですが?」
「このひと目も頭も悪いんだわ、おねえちゃん」
 銘々首を捻りながらも好き勝手遺憾の意を表明した。
「きっと、あなたたちにはそれが何よりも分からず、難しいことでしょうけれど」
 純狐はその反応を気にすることもない。やはり自己完結している言葉がただ投げかけられるだけで、けれども彼女はただ独り言ちるようにして険しく結ばれているばかりだった口元を、ほんのわずかに緩めた。
 それが何を意図したものなのか、さとりは思わず心を読もうとしたが、無意識なれば叶わず。ついつい憶測の泥沼に片足を突っ込んでしまいそうになったが、状況を思い出すと呼び鈴へと手を伸ばした。
「では案内を」
「必要ないわ。誰か忘れて殺してしまうでしょうから。……では」
 そう短く別れを告げて、純狐は書斎の扉から出ていった。
 さとりはなおも純狐の動向に気を配っていたが、彼女の心が館から出たのを確認して、ようやく警戒を緩めた。同時に、どっと疲労感が押し寄せてきたさとりは、大きな溜め息をこぼすと力なくソファに寄りかかった。
「……はぁ。何だったのかしら、もう」
「あーあ、出てっちゃった。やっぱり死体にしなきゃダメだったのかなー。何でおねえちゃんは引き留めなかったのよ、もう」
 唐突に、腹の辺りから批判の声が上がった。不意を打たれたさとりは、すわ聞かれたかと一瞬体を強張らせる。わずかな間とはいえ純狐に意識を注力したため、膝を枕にしている存在が無意識へと追いやられていた。
 が、すぐさま思い出して不平不満の内容が理不尽なものだと気付くと、なおもぶーたれる頭の両側を拳でぐりぐりと痛め付けた。
「子飼いにしようと思わなくはなかったわよ。あんたが邪魔しなけりゃね。おかげで喰べ損ねたし」
「あら大変。ただでさえガリガリなんだから体もたないわよ?」
「あんたのせいよ。全く、余計な手出しして」
「喰べる気もなかったクセによく言うわ。どうせお腹壊しちゃうんだし」
 どれだけ力を込めてもこいしにはまるで効いている様子がない。彼女は疲れも、痛みさえも意識しない。感覚器官の訴えを、意識の前で門前払いしているのだから。だからお仕置きも全く意味をなさない。
 ……本当のところ、その言がどこまで正確なのかも疑わしいのだけれども。
 分かっていたこととはいえ、さとりは腹の底からの徒労を吐き出すと魔の手を解放した。
「で? どういう風の吹き回し?」
「んー? 何が?」
「いや、分かってるけどね。どうせあてつけでしょ。嫌味ったらありゃしない」
「そんなんだから友達も味方もできないのよ、おねえちゃんは」
「いいのよ。そんなのいないんだし」
 嘲笑するこいしに、さとりもまともに取り合うことなく受け流す。
 誰もが――覚の力を厭い、疎み、嫌い、畏れ、遠ざける。心を読まれることは、忌むべきこと故に。誰であろうとも本心を見られたくなどない。加工されない心は醜く、また鏡は心を丸裸にする。
 どれだけ傍におろうとも、それを抱かない者などいない。たとえ公正公平な巫女や閻魔だろうと、仕えるペットだろうと……それが妹であろうとも。
 であれば、さとりは他者に心を開くことはない。本当の意味で彼女に味方する者など、どこにもいないのだから。
 心を読む力を閉ざした妹は、敵はいなくなったものの結局は味方がいない状況に変わりなかった。……果たしてそれは、どちらが先に見限ったのだろう。
「まぁ確かに半分くらいは嫌味だけども」
「そらみなさい」
 精々が、籠絡するしかない。利用するしかない。
 彼女が築ける関係性は、できてもそれ止まり。友達や味方といったものはさとりにとっては夢物語ファンタジーだった。
 しかしこいしは、そんなさとりの反応にもめげずに言い募る。
「残りの半分も分からないんじゃ、覚失格だわ。でしょう?」
「……つまり、やっぱり嫌味なのね」
「さー?どーでしょー? ふふーふ」
 それでもなおも不敵に笑うこいしに、さとりは幾許か思考を巡らせる。
 すると、こいしは急に起き上がると、軽薄な笑顔をさとりへと向けた。
「まぁわたしにも分かんないんだけどさ」
「……無意識あんたに答えを求めた私が馬鹿だったわ」
「そうよ? わたしに何を期待していたのかしらねーおねえちゃんは」
 額を抑えるさとりを見て、きゃらきゃらとこいしは哄笑をあげる。
 と。
「それにしても、あれって幸せじゃなさそうよね」
「そうでしょうね。それを目的としていないもの。目的を――復讐を果たしさえすれば他はどうでもいい。自らが幸せに生きる必要がないのよ」
「ふーん。じゃあわたしたちって幸せなのかしら?」
「まぁ? おねえちゃんはわたしと目を合わそうともしないし? しょーがないよねぇ」
 姉をからかってきた甘ったるい声が、鋭い棘となってさとりを責め立てた。
 閉じていた両の目をさとりは開く。だがその視線がこいしのそれと交わることはなかった。
「……」
「あらやだ図星? ダメよーおねえちゃん、覚妖怪が黙り込んじゃったりしちゃ。面目が立たないわよ?」
「それこそあんたに言われたくないんだけど? 寝坊助」
 はぁ、と嘆息しながらさとりが言い返すと、こいしはより一層笑い声をあげた。
「ハァイわたし寝坊助。眠気覚ましの一杯が怖いわ」
「起きる気なんてないクセに図々しいわね」
 そう言いながらさとりはこいしの頭をようやく膝からどけて立ち上がる。背を向けて歩き出すさとりに、こいしはとびっきり甘い声を投げかけた。
「でもそんなこと言いながらお茶淹れてくれるおねえちゃん、わたしは好きよ?」
「はいはい、私も好きよー」
「心が籠もってなぁーい、やり直しー」
「そりゃあんたでしょうよ」
 ……抱え込むには大きすぎる爆弾ね。
 このまま子飼いにするかと一瞬だけ計算が思考をよぎったが、即座に却下する。
 それに。覚としてもこういう存在は橋姫しかり、あまり近くに置きたくないものだ。
 大きすぎる感情を――それが他を呑み込み、一つのようになる純粋な感情を腹の内に飼っている者の心を読むというのは、それだけ危険なのだ。
 何故ならば。その感情は、烈しすぎるあまりに読み取る側さとりをも呑み込んでしまう。
 憎悪で。嫉妬で。その心が構成されてしまっているから。
 他心通で取り込んだその心が、己をそうあれかしとしてしまう。他心通とは、自他を分けないからこそ――他者の心を自身のものにできるからこそ――可能な神通力なのだから。
 そうなれば己の心は燃え尽き、読み込んだはずの他者の心へと塗り潰されてしまう……畢竟じて妖怪的な死となるのだ。
 憎悪に焦がれるような赤い明星アンタレス。
 アンチアレス火星に対抗する者火星に似た者
Latest / 1,074:30
14:02
夏野陽炎
こんなサービスがあったとは!書いてる時の思考が見える感じがして、新鮮ですね〜
15:59
ヒトガタ
お疲れ様ですー。4月頃についったで回ってきて、一度利用したことがありまして。ちょっとまた書こうかなと久し振りに使っています
チャットコメント
文字サイズ
なんかかく
初公開日: 2020年10月30日
最終更新日: 2021年01月14日
ブックマーク
スキ!
チャットコメント表示
こいしが純狐を拾ってさとりのとこに連れていく話が書けたらいいなぁって
本丸初日系タグ話を書いていく枠
当本丸話&タイムラインで見かけたとうらぶタグ小説第二弾。この枠から配信する新作では「同系統の複数のタ…
トウレン・シラバノ
【連載】BLEACH鬼滅二次創作 8話
BLEACH鬼滅の二次創作を書きます。8話です。 ハーメルンないので日間ランキングに載りました。 8…
菊の花の様に