オムファタールはその時を待つ 幕間③
男は娘に固執するようになり、一族からの再三の忠告も虚しく、他の妻を取らない有様だった。他所で火遊びでもしていればまだ良かったものを、男が毎夜娘を手篭めにし続けるものだから、頭を抱えたのは彼の一族の方だった。男の後継者は、娘が産んだあの男児一人きりなのである。万が一のことがあった時、この家にどれほどの血が流されるかは、火を見るより明らかであった。熱砂の国の歴史は、この国を裏で牛耳る豪商たちの歴史でもある。その歴史とは、家督争いのため流されてきた、彼ら豪商たちの血で書かれていると言って過言ではない。商人たちの間で、男の一族は孤立し始めていた。
ある夜のことだ。
男は娘と、給仕の三人きりしかいない豪奢な部屋で晩餐の席にいた。シルクのテーブルクロスで整えられた机には、銀の燭台が煌々と炎を揺らめかせており、弾けそうな瑞々しさで光る果実の収まった器が周囲を飾るように並べなれている。男と娘の前には贅を凝らした夕食が次々と運ばれており、娘もそっと肉や魚を切り分けて小さな口元に運んでこそいたが、その瞳は焦がれた人のもとへ魂が飛んでいってしまったかのように、ぽっかりと熱を失くしたままだ。あの従者に引き合わせて以来、もうずっとだ。この日に限って虫の居所が悪かったのか、はたまたいよいよ我慢の限界を超えたのか、男は激情に任せテーブルの上の食器を払い除けるように叩き落とした。繊細な紋様の描かれた陶器がかん高い音を立てて割れ、赤黒いソースに彩られた肉が嫌な音を立てて床でへしゃげていた。「なぜだ」娘はそれに驚きもせず、重い首をもたげる様な緩慢さで、男の瞳を仰ぎ見た。
「なぜ分からない!お前を愛している。愛しているんだ、ユウ」
男はついぞ気付くことは無かったが、これが初めて、彼なりに娘へ愛情を告げた瞬間だった。言葉も無しに交わされた娘とあの従者の熱情に
狂わんばかりの嫉妬を覚え、夜ごと娘の体を支配してきた男だったが、それでもなお愛情らしいものを、言葉を尽くして捧げるということはしてこなかったのである。自己とは命令する者であり、他者とは命令される者である。自己とは他者のため、多くを愛し、多くの命を残す責務を負うものである。出自から長らくそう信じて生きてきた男にとって、愛に尽くすべき言葉など無用だったのである。それがここに至り、行き場を無くした怒りと支配欲がないまぜになった激情が、思いもよらない言葉を男に口走らせた。それは娘にとっても驚くべきことで、魂の抜けた抜け殻のようだった黒曜石の瞳に、生の煌めきというべき意志の炎が微かに舞い戻ってきたのが男の目にも分かった。
「わたしを愛しているのですか」
男のシャツの襟元が、皺になるほどの力で握り締められる。「そうだ、そうだとも」そのささくれ一つない整えられた指先を、男の厚い掌が握り返す。閨で愛する度、何度も握り込んだ冷え切った指先はしかし、今は燃えるような熱さで男に縋り付いている。胸のすくような気持ちだった。これだ。この熱さを、この世に二つとない異世界の女の生きた姿をこそ、俺は閉じ込めておきたいのだ。我がものとしたいのだ。誰のものでもなく、標本のように。俺のものだけに!
「なら、ここから自由に」
煮え滾っていく男の脳髄に、氷を流し込まれたようだった。あれほど喜びに狂乱した胸と頭の奥が急速に冷えていくのが、男には分かった。娘の瞳の奥には、男が初めて直視した意志の炎が小さく、けれど確実に、熱く揺らめいている。「だめだ」この娘を自由にするわけにはいかなかった。
「それだけは聞いてやれない」
炎が、風に吹かれたようにふっと消えたのが分かる。「わたしを軽蔑するか」問うた男に、娘は首を横に振った。そこに、生きる意志を取り戻した鮮やかさはもはやない。妙に落ち着き払ったくたびれた色香が、諦めからくることを、男は知らない。その細い腕が、植物の蔓のように男の首へ絡みつく。「あなたのお側に」微笑んで、心にも無い口付けを強請るような仕草で男の耳元に唇を寄せた女は、言った。
「そう言って欲しいんでしょう?」
視界の端が赤く染まるような、猛烈な怒りをおぼえ、男は衝動のまま娘を床に引き倒していた。美しく結い上げられた髪は男の手で乱され、大理石の床に扇状に広がっている。胸元のボタンを引きちぎるように娘を包む衣服を剥ぎ取ろうとする男は、怯えたように二人を見つめる給仕に気付き、「なにを見ている」悋気に震える声で叫んだ。「さっさと出て行け!」慌てて走り去る給仕を横目に、娘はくつくつと身を捩らせて笑っていた。おかしくてたまらないとでも言いたげなその姿に、なぜか、あの従者の姿が重なる。娘と同じ漆黒の黒髪、その奥にある切れ長の瞳が半月に歪みながら男を嗤う、幻を見た。あの従者に笑い方まで仕込まれたかと問い詰めかけて、男はあと一歩のところでとどまった。もし、否定されなかったら、自分が正気でいられるか分からなかったからだった。だから男は最後まで理解出来ない。この時、娘が笑っていたのは、こうでもしないと正気を保っていられなかったからだということを。
以来、娘への執着はいっそう増していき、男は遂に、自身の市場からアジームを締め出すことになる。どのような商談、どのような取引の場においても、アジームの現当主が最も信を置くあの従者が最後には出てくるがゆえの暴挙だった。あの漆黒の長い髪、切れ長の瞳が娘を捕え続けることを、男は何よりも恐れたのである。
そのために、アジームはおろか、かの一族と親密な者たち、ひいては熱砂の国の中でさえも孤立を深めていっていることに、男は未だ気づけないでいた。
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オム・ファタールはその時を待つ 幕間③
初公開日: 2020年09月24日
最終更新日: 2020年09月24日
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