寒い、と、思って目を覚ます。聞こえてくるのは古文単語の呪文で、俺は上げかけた顔をもう一度腕に埋めた。三限、古典。これを終えたら昼休み。夏服の裾から出た肌を撫でる空気は夏の匂いをしているが、なんだか寒くてゴソゴソと縮こまる。九月半ばは確かに夜は少し寒い。けど、昼間はまだ暑い。じゃあなんでこんな寒いんだ。体の表面に篭もる熱、上履きの底から逃げる訳ないから日差しの熱も相俟って暑いことには暑いのだけれど、なんだか……寒い、ような。指先が少し冷たい。よく分からない思考を置き去りにして、もう一度意識は眠りの底へと沈んで行く。あと十数分で、とびきりうるさい太陽が来る。
 さて。
 世間一般で言う「恋人」とかいうのが具体的に何を指すのか知らないけれど、一応俺と日向の関係性はそれに当て嵌る。と、思う。喧嘩みたいな告白の投げ合い、競走の延長線上で触れ合った手、あとなんか、勢いのキス、とか。イマイチ恋人というものをやっているような自覚は無い。一日で一番濃い時間を過ごしているから当然なような気がするが。
 帰り道、二人きり、もしくは一番後ろ。ちょこっとだけ指の先を触れ合わせればまろい頬はほんのりと赤みを帯びて、十数センチ下の目元が少しだけ緩む。へへ、と空気の漏れた笑い声と共に柔らかい手のひらが指先を包んで、俺はなんにも言わずにその手をぎゅうと握るのだ。体の中心のとこを掴まれたみたいな苦しさの名前、心臓の痛みを愛おしさとかいうやつなのを最近知った。辞書のページ、わりと最初。愛の項目。六個に分かれた意味を指先でなぞって、ひとつひとつに紐を結ぶ。愛、愛、愛と呼ぶらしい。これは、この感情は。愛と呼ぶのだ。あたたかくてやわらかくて、ふわふわの、ほわほわの、毛玉みたいな何か。
 愛、と呼ぶ、らしい。
「……やま、……影山!」
 聞き慣れた耳触りの良い声に引っ張り上げられる。瞼から透ける陽の光に眩しさを感じながらそっと目を開けると、目の前に日向が居て、飛び退いた。ガタンと椅子が鳴る。
「……!? い……ッ!」
「影山やっと起きた! 椅子から落ちてないで、昼休み!」
 ぱちくりと瞬き数回。あくびがひとつ。濡れた視界で向こうの時計を見ればてっぺんで重なった針が少し、ズレていた。ボールと弁当箱を持て余して既に背を向けた日向が「お前窓辺の後ろの癖に目立つよなぁ」と独り言ちる。ふわふわの髪は日向が動く度にすこぉし揺れていた。鞄の中から昼飯を取り出していつものように部室へと向かう。
「四限の記憶ある?」
「ねぇ」
「お前中間大丈夫かよ……」
 窓ガラスの向こうで夏らしい日差しが木々の隙間から地面を照らしてざやざやと鳴っている。数十センチ先を弁当箱振り回しながら歩く日向に転ぶぞ、とてきとう言いつつ廊下の角を曲がれば、不満そうな顔がくるりと振り向いた。膨らんだ頬へ人差し指を突き刺す。ぷすぅと抜けた。ほんのりつり上がった目元、暑いのか開けられたワイシャツの第二ボタンと、両手で回されているバレーボール、いつも通りの日向。眠気のせいかいつもより動きの鈍い手のひらにぐぅと力を入れると、じんわりと熱をもったそれらが夏の空気を揺蕩う。九月半ばは確かに夜は少し寒い。けど、昼間はまだ暑い。そろそろ夏が終わるのだ。残った夏の匂いが秋特有のそれになって、雪が降って、冬が来る。夏すらすこし寒いのに、これで秋とか、冬が来たら。部室のドアをパタリと閉める。……と。
 突然ぐい、と掴まれる首元。十数センチ下まで引っ張られて、それからくちびるに熱。頬をやわらかな髪がなでる。見開いた視界いっぱいに広がるオレンジ色と、甘ったるい匂い。ふらふらで、くらくらして、はくりと息を吸って。
 パッと離されたところでフラついた。柔らかくもない廊下にボスンと尻もち。コンマ一秒挟んだ後に俺の体温はぐわっと沸点を振り切れて、ぼぼぼっと空気中へふわふわ飛び出していく。喧騒が数十メートル先。ありふれた日常が少し向こう。日向はストンと腰を下ろして、しゃがみながら俺の顔を覗き込んだ。
「ふは、変な顔」
 そうして笑う。俺の心臓はばくんと跳ねた。部室の籠った熱を窓を開けて追い出す日向の後ろ姿を見ながら、体の中心がぎゅぅと掴まれた感覚を得ながら、あぁもう、こんなのって。こんなのって、悶えながら。
 その首元を引っ掴む。やられたらやり返さなくては気が済まない。寒いなんて感覚はもう無くて、指先から指先まで全部暑くって、熱くって、ただどうせ日向も俺と同じだろうから、もう一回って、言う暇も惜しくてそのくちびるに噛み付いた。
 愛と、呼ぶらしい。
 恋とも呼ぶけれど。
【か】
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影日小話
初公開日: 2020年09月21日
最終更新日: 2020年09月21日
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コメント
一人称の書き方忘れた
稀によく止まる