街道とは名ばかりの、ただ土が踏み固められてできただけの茶色い線をたどって歩く。
ここはログレスの辺境。とある小国と小国の境をつくっている小さな山脈を、陸路で越える唯一の道。曲がりくねりながら横断する山道に、二つの人影があった。
先に立って進むのは、がっしりとした体格の長身の少年だった。名をティームスと言い、黒く塗られた盾を背負っているが、騎士ではなく魔女の少年だ。
彼のうしろに続くのは、対照的に小柄な少女。レーティアという名の彼女は、ティームスの背負っている盾の所有者であり、一応、黒騎士として叙任されている身分だ。
「……仮にも国境越えの街道だってのに、ほとんど獣道だね」
道に横倒しになっていた腐りかけのブナの木を踏み越えながら、レーティアがこぼした。
朝に街を発ってから、三刻ほど。太陽がもうそろそろ中天に差し掛かろうかという頃合いだが、進むにつれてどんどん道は細く頼りなくなっていた。町を出たころは舗装こそされていないものの、しっかりと草を抜かれて手入れがされていたのだが、もうそろそろ稜線を越えようかという今となっては、もうほとんど消えかかっているようなところもあって、彼女の言うように獣道と大差なかった。
「仕方ないよ。このあたりじゃ、海路の方がずっと賑わってるみたいだし」
振り返ったティームスの視界には、木の葉のカーテンの向こうに青と白のきらめきが映っていた。良く晴れた空の下で、二つの青色が水平線を描いている。小さく見える白い点は、交易船の帆に違いなかった。
金持ちや商人は、皆海路を使っているようだった。先日宿を取った港町の賑わいを思い出しながら、お世辞にも状態がいいとは言えない粗末な道を踏みしめて歩を進める。
結局、こんな道を選ぶのは貧乏人だけなのだ。だが、それでも捨てたものではないぞ、と思うティームスだった。
陸路には、海路には無い楽しみがあるのだ。
(楽しい理由は三つ。一つは、草花の彩が目を楽しませてくれること。一つは、鳥や虫の歌声が耳を楽しませてくれること。最後の一つは――)
そこまで考えたところで、ふと違和感に気付いた。
突然足を止めたティームスの背中に顔をぶつけて、ふぎゅ、とレーティアが情けない声を漏らす。
「ちょっと、突然止まんないでよ」
「……」
「ティームス?」
「……おかしい」
何かがおかしい。足を止めたティームスは、そろりと背中の盾に手を伸ばしながら、周囲に視線を巡らせた。
目に映るものに違和感はない。あたりには、晩夏の瑞々しい緑色の葉が揺れているばかり。ただ木の葉が風に鳴る音が響くだけだ。
(……風の音、だけ?)
先程、自分は何と考えていただろうか。
(聞こえない……聞こえないんだ。鳥の声も、虫の声も。もうすぐ秋が来るのに!)
「ティームス、上!」
ティームスが違和感の正体に手をかけたとき、相棒の鋭い声が飛んだ。
視線を向けるより先に、背負っていた盾を頭上に掲げる。真上に掲げた漆黒のカイトシールドに、がつんと重い衝撃が加わった。
「ぐっ……!」
靴底が、土にめり込んでいく。膝を曲げて吸収してもなお重い一撃が、真上から叩き下ろされていた。
「だああああっ!」
荷袋を投げ捨てたレーティアが、気を吐きながら跳躍した。ティームスの盾の上を、鋭い蹴りが薙ぐ……が、空振り。立ち上がって上空を見上げたティームスの目に、黒い影が飛び込む。
大きく翼を広げた、黒々とした影。大型の猛禽類のように見えるが、爪と嘴に金属のきらめきが見えた。
「グルアアアアアッ!!」
咆哮が、静かな山道に響き渡る。鳥には似つかわしくない、大型の肉食哺乳類のような声。しかしそれは、間違いなく上空に浮かぶ影から発されたものだった。
ただの鳥ではない。魔物だ。
「あいつ、爪が鉄でできてる! くちばしも!」
レーティアが叫ぶ。ぐっと拳を握って、低く腰を落とし、じっと上空を睨みながら。
「切れ味は良さそうだ……!」
盾の表面に付けられた傷を睨んでから、ティームスは盾を構え直した。魔物は木々の上を飛んでいるが、どこかへと飛び去ってしまうような素振りはない。ティームスたちを中心にして旋回を続けている。
襲うつもりだ。最初の一撃が防がれても、諦めてはいない。
(いつ来る……?)
ティームスの額に、じわりと汗がにじむ。鉄の蹴爪の切れ味は、生半可なものではないだろう。盾で受け損ねれば、ざっくりと肉を抉られかねない。
警戒を強めるティームスの視線の先。黒い影が太陽と重なったとき、ふっと揺れた気がした。
「……ッ!」
盾を構える。しかし、衝撃は来ない。かわりに、隣で強く土を踏みしめる音。首を巡らせたティームスの目が、土に爪痕をつけた黒い影を捉えた。
「だあっ!」
盾を構えたまま、影に突進する。が、手応えはない。横に跳んで攻撃をかわしていたらしいレーティアも、魔物に向かって飛びかかっていたが、靴の先端が突き刺さるよりも魔物が羽ばたく方が早かった。
「ああ、もうっ!」
「早い……!」
上空からの一撃を受けて、あるいは躱してから攻撃に移るのでは、魔物の動きには追い付けそうになかった。
「グルルル……」
幸いなのは、魔物もまた決定打を欠いていることだった。急降下して放たれる蹴爪の威力は侮れないが、軌道は直線的で読みやすく、捌ききるのはさして難しいことではない。
故に、睨み合いとなった。魔物は太陽を背に、悠々と二人の頭上を旋回している。レーティアとティームスのどちらかが気を抜いた瞬間に、襲い掛かってくることは明白だった。
「どうする、レーティア」
常に上方を警戒し続けながら山道を歩くことなど、できるわけがない。何かに躓いてしまったら、そこでもうおしまいだ。
「んー、なんとかしないと、だよね」
空を横切る影を見上げるレーティアは、そっと左手を動かした。
華奢な少女の手が、腰に佩いた剣の鞘に触れる。黒騎士に叙任された際に下賜された、魔女殺しの宝剣。普段はほとんど抜かれることのない剣を、使うべき時が来たようだった。
「奥の手その一、かなぁ」
「いいね。……ところで、その一ってことは、その二があるの?」
「うん。ティームスの魔法」
「よし、その一だけで決めよう」
魔女であるティームスは魔法が使えるが、その効果はティームス自身にも作用する。できることなら、頼るのは避けたいところだった。
大丈夫。なんとかなる。盾を握り直して、深く長く息を吐く。
……魔鳥は、それを好機と見たようだった。
「――!」
音もなく、滑るように巨影が落ちる。黒い大鳥の体が、自由落下の倍の速さでティームスの上に落ちていく。
器用に大きな翼を畳んで高度を下げ、激突寸前で体を捻って鉄の蹴爪を叩きつける。人間の体程度なら容易く骨まで砕くような一撃は、しかし重厚な金属の前には歯が立たない。
山中の静けさに似つかわしくない、金属同士の甲高い衝突音が響き渡る。危なげなく魔鳥の攻撃を受け切ったティームスだったが、その表情は芳しくなかった。
「く、ぅ……!」
重いのだ。
魔鳥の巨体もさることながら、その降下速度が侮れない。大質量に超加速が加わった一撃は、ティームスの体に少なくないダメージを与えていた。全身が軋む。久しく感じることのなかった重く鈍い衝撃に、骨が、関節が悲鳴を上げているのがわかる。
何度も受け切れるものではない。
「ぅ、おおおっ!」
気合を吐いて己を鼓舞し、魔鳥の体を押し返す。その勢いも利用して魔鳥は上空へと飛び上がり、そしてすぐさま再度の急降下を試みた。
ティームスの体が、延々と攻撃を続ければいずれ耐え切れなくなることを、この魔物も察してしまったらしい。
三度、衝突音が響く。
「ギアアアアッ!!」
魔鳥の威嚇音が、鋭く尖った小さな牙の並んだおぞましい嘴から飛び出した。このまま押し切る。そういう意思がはっきりと表れている咆哮だった。
たしかにこのまま同じことを続ければ、先にティームスが力尽きるのは明白だった。しかしこの場には、人間がもう一人いる。
「……」
レーティアは、じっと魔鳥を見続けていた。既に抜き放たれている剣を、右手に構えて。
だが彼女が魔鳥の急降下の瞬間に合わせて踏み込んだとしても、翼を広げた魔鳥が急制動をかけるほうが早い。どうやっても、彼女の剣は空を舞う翼に届かない。
それが分かっているからこそ、レーティアの視線にさらされ続けてもなお、大胆な連続攻撃を魔鳥は繰り返し続けていた。
そこに、唯一の活路がある。奥の手その一は、単に剣を振るうだけではない。
魔鳥が、何度目かの急降下に入った。瞬時に距離を詰め、体を捻り、構えられた盾に蹴爪を打ち付ける、その直前。
「――!」
レーティアは、渾身の力で、右手を振りかぶった。
全力で振られた鉄の塊に、大きな遠心力がかかる。それは華奢な少女の握力を容易く振り切り、剣は見事にレーティアの出せる最大速力で魔物へと向かって飛び出した。
ぐるぐると回転しながら。
「――ギッ!?」
意表を突かれたらしい魔物が、その場で大きく翼を広げた。
今日はここまで。