私はもう眠っているのだと、氷室さんにはそう思われている。
 実際、気を緩めたら今にも寝入ってしまいそうだった。汗に体温をうばわれていく体は全身がだるくて、下半身がとりわけ重い。散々に擦れた場所と散々に吸い付かれた場所がジクジクと痛む。それでも寝たふりをしながら、眠気に抗っている。
 氷室さんが、私達でわけあっていた布団をそっと抜け出るとき、彼の指が私の髪を通り抜けていくのが好きだ。そのあと、彼は投げ捨ててあった服をぞんざいに身に着けて、煙草とライターを掴む。ソフトパックの外装ビニールが縒れて、ごく小さく、くしゃっと音を立てた。気配だけの足音は、ひたり、と聞こえる。カーテンがじりじりと開けば、外の明かりがぼんやりと目蓋に触れてくる。少し離れた場所にある街灯の、白々しい光。ベランダに続く窓がするするとサッシを滑り、気配が出て行き、また窓が元の位置に戻る音が聞こえた。そこでようやく、私は光の方に顔を向ける。寝ぼけたように目蓋を持ち上げる。窓の向こうに立つ氷室さんの背中を見る。
 眠っていると思っているのなら、何を気にすることがあるんだろう? そう思う。眠っていることになっている私は、もちろん、訊いてみたことはない。ここで私が目を覚ましてみせて、「別に気にしなくていいんですよ」とか、そんなようなことを言ったとしたらどうだろう。氷室さんはきっと何気ない顔で「そうか」と言って、次からは私の前で吸うようになる。それでもいいかもしれない。変に気を使わせているより、その方がむしろいいのかもしれない。けれど、不可逆であることは、惜しい、とやはりそう思う。失くすには惜しい絵なのだ、事後に煙草を吸う氷室さんの後ろ姿は。
 ボタンの留められていないシャツは、ささやかな風を受けて翻る。青白い光に透けるその布地をすりぬけるように、まっしろの煙は流れる。煙草の先端から風に乗って、或いはこの人の吐く息のかたちをとって。そして、髪が揺れるごとに、その表面は月光をくだいた色にまたたく。窓枠でほとんどモノクロに切り取られたひとつの立ち姿、その気高い獣の毛並みのような、息をする流れのひとかたまりを見ているのが、好きだ。
 そうしてその美しい男がフィルターの際までを一本灰にして、灰皿に落とすのを見るや否や、彼が振り返る前に私はそっとまぶたを閉じる。眠っていることになっている私は、努めて深くゆっくりとした呼吸をする。フローリングに、ひたり、行ったときと同じ足音が帰ってくる。そして、氷室さんが衣類を元通りに落とすと、彼にまとわりつくように付いてきた煙草のにおいも床にわだかまるような錯覚がある。持ち上げられた布団の角、体温より冷えた空気がすっと入り込んで、しかし氷室さんの体温がその間隙をすぐに埋めた。隣に横たえられた体には、肌の上に、また、髪の上に薄く、焦げたにおいの層がある。彼が寝入ると、体温が上がるにつれてその香りが立ちのぼってくる。けれどもそれは夜明けまでに、夜明けのように溶けて消えている。なかったことになっているし、私も知らないふりをする。知らないふりをして、おはようございますと言う。
 運動をしたあとに一本、寝起きに一本。彼のその習慣を喜ばしく思ったことはないとはいえ、疎ましく思ったこともない。氷室さんが気を遣って私から遠ざけようとするほどには、私はそれに興味がない。興味があるのは、一本の煙草が灰になるまでの時間にだけ現出するあの後ろ姿にだけ。
 ただ、誤解とはいえ氷室さんのそのいじらしさは嫌いじゃない。それもあの絵に負けず劣らず、大層きれいなものだと思われるので。
(了)
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kngn氷金「メルティードーン」
初公開日: 2020年08月31日
最終更新日: 2020年08月31日
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