台風前夜に無風となることがある。
遠くで風の音すらせず、嫌に星空が美しい夜が広がることがあるのだ。確かな雨の気配にコウモリは飛ばず、波が寄せることすらない。ハインは蛾の眼の風を流してみたが、湿度が高く温い空気は重かった。
それでも夜の桜は美しい。
朧月夜に花弁が透け、ちらりちらりと舞い落ちる。息を止めれば遥かに遠い夜空の奥で線香花火が弾けたような、そんな星の音が聞こえてくる。そして緩く枝垂れた先端で、僅かに開く新芽の艶やかさに月の光が映り込み、また一片の桜が落ちる。この海にこんな平和が残っていたとは…と、つい感嘆のため息が零れた。
時間がゆっくり進んでいるのか、獣の一匹すら居ないからなのか。もしくはつい先程まで騒々しかったせいなのか。
話し合い兼酒盛りが終わり、人々が引き上げて行った桜の島はどことなく寂しげだ。しかしそれがハインにとっては安堵できる環境だった。花見をする訳でもなく、星を見るわけでもなくそこに立つだけのハインにとっては、ただこの静か過ぎる空気が心地良かった。
思い返せばいつも誰かしらが近くにいたし、誰かしらが死んでいた。煙を見ない日はなかったし、書類に触れない日もなかった。騒々しく時間に追われ、あれもこれもと目が回る日常。朝から夜まで、誰かしらの声が聞こえていた。おはようの挨拶から、命に関わる応援要請まで。その中で考え事をして、文字を読んで書いて、言葉を零して…の生活だ。
こんなにも静かで、急かされることのない時間を過ごすのは久し振りな気がする。
願わくば、このまま時間が止まってくれたら。願わくば時間が緩やかになってくれたら。少しでもいいから、この島の平穏を世界が見習ってくれたなら。
願わくば、全てが夢であったなら。
と、そんな幻想を抱くことなどしない。そもそも世界を振り回すことになった原因の、その一端を担っているので文句は言えない。だが本音を零しても良いのなら、願ってもいいのなら、思うことはある。
切に真摯に願うから、時間を止めてくれと頼みたい。
「…時間は戻らないな…流れるばかり。」
流れ出た血は戻ってこない。
過ぎた時間は帰ってこない。
彼らとの話し合いも終えてしまった。意外にもすんなりと話がまとまってしまった。しかもあっさり帰られてしまった。
提案した側としてこう言うのもおかしいのだろうが、それでいいのか?とは思う。長年かけて作り上げた現状を、身の回りの人々をそんなにも簡単に捨てていいのか?と。
弱すぎる蛾の眼の風を流すハインは、彼らの座っていた場所をじっと見詰めて悩み始める。樹齢何百年かも分からないゴツゴツとした巨木には、似つかわしくない可憐な桜が咲いている。
却下だと言えば、却下できた。
今回の要は相手側の名声と命であり、ハインにとって失う物はない。代償を払うのは相手側で、ハインは代償を払えるような場所を整えるのみだった。
使うのが相手の命なのだ。
となれば却下するのも相手の権利である。
「…場が、悪かったか。」
これは感覚的な話だが、今日のような特異な夜に人は判断が甘くなる。台風前夜の快晴な夜、溢れるばかりに咲く桜の下、幸せしかない空間で命を掛けろとの提案。
狐の嫁入りでもいい。夜明け前の僅かな時間帯でもいい。もしくは部屋が真っ赤に染る、夕暮れ時でもいい。
何でもいいが、いつもとは何かが違う雰囲気の中で人は妙に冷静となる。冷静なのか覚悟が決まりやすいのか、やはり判断が甘くなるのか。よく分からないが、いとも簡単に命を掛ける程度には正気でなくなる。
時間さえ止まれば、戻れば、こんなことをする必要もないのに。
命を掛けてくれ、と。
言い換えたなら…死んでくれ、と。
家族が多く、守っているものも多く、幸せだろう本人にそう伝えるこちらの身にもなってほしい。断ってくれたならば…と少しだけ期待していたのだから、断れば良かったのに。
すると、急に風が強くなり始めた。
ようやく台風が近付いて来たのだろう、桜が一斉に舞いあがる。満月には雲がかかり、朧月夜の海には、世界の今後を示すかのような跡白波が一筋揺れている。
流石は情報局員とでも褒めればいいのか、早くも居場所がバレたらしい。別に迎えに来なくても帰れるのに、わざわざ荒れ始める海に船を出してくれる。
そのせいで、一人過ごせる時間が消えたのだが。
まぁ…流れる時は戻らない。
流れる血も戻らない。
仕方がない、と言うことだ。
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風が無くなりそうな夜に
初公開日: 2020年08月30日
最終更新日: 2020年08月30日
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コメント
少しばかり遠い話。割と近いとも言う。大戦前の物思い。
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