安寧の泥
トレイ・クローバーは非道い男だ。恋をした身でそう思う。監督生は彼が眠る、真夜中の寮に忍び込みながら考える。トレイという男と出会い、心を交わすことが出来たのは、彼女にとってほとんど奇跡だった。トレイ・クローバーという男との出会いそのものが彼女にとって、好きになった人が自分を好きでいてくれる、初めての体験だったからだ。
初めての恋人にしては、トレイは存分に優しい男だったのだろう。十代、それも彼と出会うまでは好きな人に好きになって貰えなかった身の傲慢とも思いつつ、監督生はそう感じていた。トレイは彼女に、何一つ強いることは無かった。手を繋ぐ時も、二人でどこかに出かける時も、果ては肩が触れ合うような近さで隣り合う時にすら、彼女の意思と気持ちを慮っていた。いっぱいいっぱいな彼女が口先だけの強がりをして見せる時、彼はじっと彼女の目を覗き込む。「大丈夫だから」彼はいつでもそう言ってくれるから、ごめんなさい、と視線さえ合わせられずにいた彼女にも変化が訪れた。
手を繋いだ時、自分から彼へ指を絡ませるようになった。二人で出かける時、どちらか一方ではなく二人の視線が交わるようになった。隣り合った時、彼に触れた小さな肩は飛び跳ねなくなったし、そっと身を任せることさえあった。同じ年頃の女の子たちと比べ、亀のようになんと長い道のりだろうかと思う。それでもトレイは笑った。監督生の望まないことはしないよ、と笑って側にいてくれた。
彼の忍耐は口付けなど最たるもので、口付けるどころか、監督生はまず彼と抱き合う練習から始めねばならなかった。やっと手を繋げるようになった頃、トレイは未だ頬を染めることを止めない彼女へ手を伸ばしたことがある。けれど彼の指先でそっと頬に触れられた時、やっぱり彼女は驚いた猫のように飛び跳ねてしまったのだった。そのために、まず彼女はトレイの腕の中にすっぽり収まる練習から始めなくてはならなかった。服の下に隠れた、実は逞しい腕に触れ、そっと頭を彼の胸に預けるところから練習は始まった。その間、トレイは降参したように両手を上げておく事しか出来ない。衝動のまま彼女を腕の中に閉じ込めてしまえば、羞恥を超えてパニックになってしまうからだ。好きな男が自分を好きでいてくれる、なにより彼女自身がその事実を受け止め、混乱ではなくせめて羞恥を、そして羞恥を超えて安堵を覚えるようにするまでがトレイの仕事だった。
しかし、彼が遂にこの仕事を終えた時。彼は、決してそれより先に進もうとはしなかった。共に出かけ、手を繋ぎ、肩が触れ合う近さで二人一緒にいた。腕の中に互いを閉じ込めあい、口付けを交わすようになった。それでも彼は最初からずっと監督生に伝え、行動してきた通り、彼女の言葉と意思により望まれない限り、先に進もうとはしなかった。そうしているうち、彼と見つめ合う時、触れ合う時に、監督生の目の中で生まれ始めた欲は、暗い炎のような熱を伴って膨らみ始めた。彼は、気付いている。だから彼女がこうして一人、真夜中のハーツラビュル寮に忍び込むなんて真似をする日の昼間、こんな話をしたのだ。
「うちの寮は23時以降、外出禁止だろ。当然他寮の生徒も退出しなきゃならない。そのあたり、リドルが目を光らせてるからな。施錠もされる。だけど最近、一箇所だけ、鍵の調子が悪いのを見つけたんだ」
形の良い唇がその扉の場所を告げるのを、監督生は恨めしげに見つめていた。このすまし顔のひどい男が、もはや心底憎たらしかった。
「どうしてそんな話を」
さあ、とトレイは口元に微笑みさえ浮かべた。「どうしてだろうな」そう言って、監督生と目を合わせなかった。分厚い手だけはしっかりと、彼女の指に絡みついていたのに。
そして今、監督生はトレイの寝室に忍び込んでいる。彼が告げた寮の扉に、鍵はかかっていなかった。目の前にはすっかり眠りにつく恋した男がいる。眼鏡を取った素顔は形よく整っていて、監督生は引き寄せられるようにベッドの上、眠る彼の上に跨った。男女二人分の重みを受け止め、軋むスプリングすら胸に突き刺してくる。この男が好きで、憎くて、恨めしくて、そしてなにより惨めで、いやらしくなっていく自分が恐ろしくてたまらない。こんな事をしでかしてしまうだなんて。自分の状況が信じられなくて、たまらず涙が溢れていく。彼は、その涙を拭ってくれやしない。私が望まない限りは。
「いいから。俺のせいにして
お腹の奥、底の底にまで響いていく声が、そっと目を開けていた彼のものだなんてとっくに気付いていた。
「全部俺が悪い。これは全部、俺のせいだよ」
そうよ。全部、全部あなたが悪いの。そう思えば、胸の中で渦巻いていた薄暗い心が、濁流のように言葉となって溢れてしまう。
「先輩に触りたい。触られたい。こんな風じゃなかったのに、私、先輩が、先輩のせいで」
俺のせいだと答えた声が、互いの口の中に消えていく。制服のブレザーがベッドの下に落ちていくのを皮切りに、一枚、また一枚、剥がれるように落ちていく服を視界の端で見つめる。彼が待ち焦がれたように笑っているのに気付いていて、仄暗く喜んでいる。私はすっかり、あなたに作り替えられてしまったの。
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安寧の泥
初公開日: 2020年08月27日
最終更新日: 2020年08月28日
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コメント
twst夢 ♣️、致しはしないけどそこに至るまでの話 キーボードの機嫌治った!!!やる!!!