昨日自宅のアパートに帰ってきて寝る前から嫌な予感はしたっす。
 少し熱っぽいな、とか。
 喉の調子が悪いな、とか。
 簡単な風邪薬は飲んだっすけど、それが効いた様子はないっすね。
 嫌な夢を見て、汗だくで起きると、夢見よりも悪い体調に驚いた。
 身体中がだるくて、頭の中が反響するようにぐわんぐわんして、耳の奧がキーーンって鳴っている。
 体温計で測る必要もないっす。
 高熱が出ていて、動くことすらしんどい。
 ホールハンズを枕元に置く癖もなくて、取りに行くのもしんどいっす。
 飲み物、食べ物……空腹は天敵なのに……ダメっすね……。
 取りに行かなきゃと思う割に、身体が言うことを聞かないっす。
 食事という生命維持も自分にとっては大切なものなのに、それを上回るダルさ、睡眠への誘導。
 気がつくと目蓋が落ちてくる。
(……いま、何時っすか……?
 今日、マヨちゃんと外で遊ぶ約束があったのに……せっかくのオフが重なった日なのに……)
 机の上でホールハンズが振動しているような気がしたが、あらゆる欲求を上回る睡眠欲が僕の意識を深く沈めた。
 どれくらい寝てたっすかね。
 目蓋を開けるとすぐに違和感に気がついた。
 自分の家なのに、人の気配がある。
「……誰」
「あっ、椎名さん。
 大丈夫ですかぁ……?
 すみませぇん。勝手に入るのも……と思いましたが、返事がないので……合鍵でぇ」
「……マヨ…ちゃん?」
 熱で潤む視界の中で、見慣れた紫色の髪が揺れる。
「まだ熱は下がっていないようなので、椎名さんは寝ていてくださぁい。
 私のことはお気になさらず。
 なにが必要なものがあれば、持ってきますが……」
「……水。
 あと、何か…食べ物が欲しい…っす」
 頭が働かないっす。
 ちゃんとお礼言ったり、そういうことしなきゃと思うのに、頭も働かなければ舌もまともに動かない。
 とりあえずどうしてもの欲求を口にすると、マヨちゃんは「わかりましたぁ」と急いで枕元を離れていった。
(……約束すっぽかしたこととか怒ってもいいはずっす)
 たぶん待ち合わせに来ず、連絡もつかない僕のことを心配して見に来てくれた。
 今更状況を思い出し後悔している僕の元に、マヨイはペットボトルに入った水とコップ、ゼリー飲料を持ってきてくれた。
「……先程、買ってきておいてよかったです。
 食欲がないかもしれませんが、とりあえずこれを……」
 じゅっと一気にゼリー飲料を吸い尽くしてしまった。
 甘みが喉を潤し、空腹で蠢く胃袋は久しぶりの消化できるものに歓喜している。
「……さんきゅー、マヨちゃん」
「食欲はありますか……?
 食べれるならば、もう少し何か作ってきますが……」
「ある…っす。
 ごめん…っ」
「謝らないないでください。
 それよりも、私が気づいて本当によかったです。
 夏風邪は治りにくいと聞きますし、なによりも一人暮らしでご病気をされると心細いでしょう」
「……うん」
 迷惑をかけているという前提を放り投げて、マヨちゃんからの優しさを受け止めて、不意に泣きそうになった。
 絶対、病気だからっす。
「勝手に冷蔵庫の中を使わせていただきますねぇ。
 出来たら起こしますので、椎名さんは寝ていてください」
 また慌ただしくマヨイが枕元を離れていく。
 熱で身体の奧から熱くて、ぼうっとするのにさっきもらったあったかい気持ちが嬉しくて、噛み締めていたらいつのまにかまた意識が落ちていた。
 目が開いた。
 寝たからか、さっきよりは少し元気になったような気がするっす。
 起きてすぐいい匂いがすることに気がついた。
 和風の出汁の匂いっす。
 ねぎか何かが入って……なんっすかね?
 優しい匂い。
 ずっと、ずっと昔に嗅いだことのある、いい匂い。
「あっ、椎名さん。
 起きてらっしゃったんですね。
 ちょうど今出来上がったところです。
 卵雑炊なんですが、食べれますかぁ?」
 上半身をなんとか起こして、マヨちゃんが持って来た盆を受け取ると、添えられていたレンゲで雑炊をすくって、ふぅふぅと息を吹きかけた。
 白い湯気が吐く息で揺れる。
 これはずっと昔から、それこそ何度も見たことがある光景っす。
 熱でぼんやりする頭が、滅多に思い出さないような古い記憶の扉を開ける。
「……いただきます」
 一言そう言って、まだ熱い雑炊を少し口に含んだ。
(……あっ……これ……っ!!)
 味覚が、もう無くしたと思っていた古い記憶を鮮明に思い出させる。
 あまりにも同じ味だったから。
 風邪をひいて寝込む自分の隣で、心配そうに一口目を見守る、あれは……。
「……お口に合いましたか?
 以前、椎名さんが作ってくださった雑炊が美味しくて、こんな味だったと思い、作ってみましたが……。
 普段から料理をされている椎名さんにお出しするのは……少し……緊張しますね」
「……美味しいっす」
 もう一度レンゲで雑炊をすくって、口に運ぶ。
 もうさっきみたいな過去は思い出さなかったけど、そのかわりに作ってくれたマヨちゃんの心配そうな顔に、元気を貰えたっす。
「……一番好きな味っす。
 美味しい……ありがと、マヨちゃん。
 こんなの出されたら、すぐ風邪なんて治っちゃうっすね」
 強がりでも何でもなく本当にそう思った。
 いままで意識したことなかったのに、無意識で作っていた味のルーツを思い出して、それが自分を介してマヨちゃんに伝わってるっていう事実が、なんか……うまく言えないっすけど、あったかくて……嬉しいと思ったっす。
「食べれる分だけ食べて、よく寝てくださいね。
 ずっとついていますから」
「……うん」
 出された分は全部食べ終わっていて、胃袋が満たされると身体はすぐに睡眠を要求した。
 久しぶりにどこまでも、満ち足りて幸せな夢をみたけれど、夢の内容次に起きた時には忘れていた。
カット
Latest / 56:10
カットモードOFF