天国 ジェイド
どういうわけか、生涯を添い遂げる誓いをしてもなお、ジェイドの寿命は彼女同様にはならないらしい、と気付いた時。二人がしたことは、海にごく近い静かな土地に、小さな家を建てることだった。町から離れた、近くに民家の一つもない辺鄙な所だ。買い物ひとつ行くのにだって車を数時間は運転せねばねらず、不便極まりない住処ではあったが、彼と彼女にとっては何者も立ち入ることのない二人だけ世界だった。
家を建てるにあたって、二人にはある約束があった。それは、人間である彼女と、人魚である彼、二人ともがありのままの姿で暮らせる場所にしよう、という、ささやかなものだった。
例えば、こんなことがあった。この家の一階には、海に突き出す形のバルコニーがある。晴れた日は小さなテーブルとイスを二人分運び込み、ジェイドが得意な紅茶を入れて、二人、潮騒に耳を傾けながらカップを口に運ぶ。またある時は、家中のカーテンやベッドシーツをすっかり取り込んでしまっての洗濯大会だ。彼女の顔が見えなくなるほど腕いっぱいに抱えた布の山を、長身の彼がしばらく微笑んでその様子を見ていると、不満げな彼女にえいやと長い足を小突くように蹴られてしまう。そうして初めて、あなたをずっと見ていたくて、などと笑いながら呆気なくひょいと彼女の腕から荷物を奪い取ると、二人、バルコニーにかけた物干し竿にシーツを干し始めるのだ。この場所は昼間、太陽がたくさん降り注ぐ場所に位置してるので、二人は大層気に入っていた。
一方で、二人気に入りのバルコニーには、ある仕掛けがあった。床の部分がガラスで出来ているのだ。このガラスの床はバルコニーから部屋の中、リビング、キッチン、そしてダイニングまで通り道のように繋がっており、板張りの床の間にラインが引かれたように続いていた。このお陰で、二人は家の中にいても海の中で遊ぶ魚たちの姿を見ることが出来たし、ジェイドがぱくぱくと何やら人魚の言葉を喋れば、運が良ければイルカや海亀までもがこのガラス床に遊びに来て二人に挨拶をしていた。ジェイドが彼女に分からない人魚の言葉をなおも話し続けるので、「なんて言ったの?」彼女がそう尋ねれば、「愛する人と暮らすのは、良いものだと」彼は微笑んでそう答えていた。
このガラス床の恩恵に預かっていたのはなにも魚たちだけではなく、ジェイドもまた戻りたい時に人魚の姿に戻り、海の世界で羽を伸ばしていた。ある時は、夕食後のリビングで。ふと気付いた時、彼の服がバルコニーの側で投げっぱなしになっていれば、それは人魚の姿に戻って海にいる時だ。開け放されたバルコニーからは夜の風が海より運ばれて、レースのカーテンが部屋の中で揺らめいている。開けっ放しは寒いのよね、なんて言いながら彼女はバルコニーを閉めてしまって、彼が入れておいてくれた紅茶をカップに注ぐとリビングに戻ってしまう。そうして隣が空っぽのソファに座って海の中を透かしてくれるガラスの床に目を向けると、巨大な蛇のような長い尾鰭が視線を誘うようにうねりながらちらつくのだ。片手でカップに口付けながら、もう片方の手でコンコン、とガラス床を叩いてやれば、この世で一番愛しい人が透明な壁一枚越しに海の中から顔を見せてくれる。二人、ありのままの姿で見つめ合う。言葉など交わせずとも、その目がじっと愛おしんでくれるので、陸の上で同じ姿、同じ生活を営む『普通』の夫婦とはあまりにかけ離れていようとも、これが二人にとっての普通で、二人の生活だった。
しばらくそうして見つめあっていたり、ジェイドがやってきた小魚たちを弄んだりしていると、ついと彼の長い指が上を指差して姿が消えることがある。そうしたら彼女はすっかりリビングに備え付けておくのが癖になったバスローブと彼の幼馴染みであるタコの人魚お手製の薬を手に、バルコニーへ迎えにあがるのだ。飛沫をあげて海面に顔を出した彼は、未だ人魚の姿のまま。バルコニーの柵に手をかけると、器用に上半身を乗り出してくる。その唇に軽いキスを落とせば、「もっと情熱的な方はくれないんですか」と惚けてくるものだから、「今のあなたに、私の体温は熱いでしょ」急かすように薬とバスローブを渡す。くすくす笑いながらローブに袖を通して、薬を煽れば、青白い肌は熱を持つ人間の血色の良い赤みの指したものとなり、未知への恐れと好奇心を刺激させられる長い尾鰭は二股に分かれ、徐々に足へと変わっていく。ひょいとバルコニーの柵を跨いで家の中に入ってきた彼は、髪から、体から水を滴らせたまま彼女を抱きしめて熱い唇に口付ける。人魚の唇ほどではないものの、海の中で冷えきった彼の唇が、深くなっていくごとに燃えるように熱くなるのが彼女は好きだった。「体を拭いてよ」唇を離したわずかな合間、こう物申した時の彼女は絶対に折れない。一度、衝動のまま濡れ鼠の体で家の中、二階のベッドに雪崩れ込んだ時は、翌朝懇々と叱られ倒しだったからだ。差し出されたバスタオルを受け取ったジェイドは笑顔を取り繕ったままガシガシと乱雑に、可能な限り手早く髪と体を拭いてしまうと、膝裏に腕を回して彼女を抱き上げた。きゃあ、と笑いながら小さな悲鳴をあげると首に腕を回し、キスをくれる彼女もまた期待してくれていたのだと分かる。そうして二人は真夜中、笑いながらシーツの海での遊泳を楽しむことがあった。
こうして二人は愛し、慈しみあって、10年、20年、さらに長い時間が過ぎ、この家にはジェイドだけが残った。
別れの時、彼女は皺の深い目尻に涙を浮かべ、「あなたを一人に」そう呟いた。ジェイドは静かに首を横に振り、「この家が」そう返し、二人の時間は永遠のものとなった。
一人になってからも、ジェイドのやることは変わらない。得意な紅茶を入れ、天気が良い日にはバルコニーへテーブルと二脚の椅子出す。時には家中のシーツとカーテンを取り込んで洗濯を。その気になれば変身薬を解いて、海の中で人魚に戻った。そこに、家の中から、あのガラスの床の向こうから、言葉なく目で愛してると伝えてくれた人はいない。だが、心は穏やかだった。たとえこのガラス一枚向こうに誰もいなくとも、不思議とジェイドにはあの日の彼女の姿を見つめることが出来た。
そうして更に気が遠くなるほどの年月が流れた、ある日のこと。
ジェイド・リーチは、今日が『その日』であることに気が付いた。
いつものように紅茶を入れ、二人分の食事を用意して、いつも通りの
生活を送ったまま夜になると、ジェイドは朝日が登るまでの間、あのバルコニーで過ごすことに決めた。小さなテーブルに二脚のイス、空が白む頃には二人分のカップに入れた紅茶はすっかり冷めきってしまっていた。
「300年を生きる人魚は、生涯の誓いと共に人間から魂を分けてもらえる。そうして、人間と同じ100年の寿命の代わりに、天国へ行ける。だけど僕らは誓いの果てに、どうしてだか、そうはなれなかった。だから、僕は未来で、泡になって永遠に海を漂い続けるしかない。あなたと同じ、天国に行けないまま。そう告げてなお、あなたは僕と100年を生きてくれましたね」
今になって、本当に強い人だったと思う。この家に住む時、僕らは約束をした。ここを、ありのままの姿で過ごせる場所にしよう。そして、いつか必ずくる別れの日まで、めいっぱい楽しんで暮らそうと。彼女は約束を果たしてくれた。200年の時を僕ひとり残していってしまうことを分かって、この家で100年の時間を鮮やかに生ききってくれた。その約束を、今度は自分が果たせる番だと思うと、心の底から嬉しかった。
「なにも考えられずとも、なにも感じられずとも。紡いだ時間は、永遠ですから」
朝の日の光を受け、男の体は一瞬、透明な海の色となり、水飛沫をあげて弾けた。包むための体を失った服は濡れたまま重力に従ってバルコニーのあのガラス床に落ちていく。その服から滴った水は泡となり、バルコニーを伝って海へ吸い込まれていくと、長い、長い旅路に向けて何処かへと揺られていった。バルコニーは開け放されたまま、レースのカーテンが潮風を受けてたなびいている。その向こう、二人の約束の家の中には、もはや誰の姿もない。