人類が恐れている化け物は、実のところそこまでの強さはない。よくよく訓練された人間が馴染んだ武器を手にした状態であれば手こずることなく仕留めることが出来るだろう。相手の動きがひどく複雑というわけでもなく、一撃必殺の武装を持っているわけでもない。冷静に、着実に。しかしながら、人の多くは《恐怖心》に打ち勝つことが難しい。しかも個々のトラウマによるものではなく、人間という種族がほとんど全員持ち得る本能に起因するとなれば尚のこと。恐怖は足をすくませ、視野を狭め、いずれ致命的なミスを生み出す。そして、化け物はそのミスを見過ごすほど生ぬるくはない。そうやって、万物のエネルギー源を求めて地下へと降りていった人類の多くは死んでいった。だから、地下迷宮へ足を踏み入れる者が刻まなくてはならぬ言葉はただ一つきり。
 ────恐れるな。
 エラ・リリーはかつてそう言って笑った元同僚の横顔を思い出しながら、浅くなりそうな呼吸を必死に理性で押し留めた。しっかりと意識して酸素を吸い込み、肺の中の空気を吐き出す。幾度かそうしていれば、一度は震えそうになった指先も自然といつもと変わらない様へ。
 一個体であれば恐るるに足らない化け物も、数が増えるとなれば話は別だ。二、三個体なら自らの運の無さを呪いつつやり過ごすことが出来る。しかしながら、それが片手で数えても足らないほどになったならば? 眼前に突きつけられた死への恐怖に、人類は膝をつくしかなくなるだろう。だから、大抵こういった場合には何もかもを振り捨てての撤退が推奨される。音を立てぬよう、静かに、けれど迅速に。彼女とて、平素であればそうしただろう。ここで戦おうなどという人間は無鉄砲を通り越し、愚かである。
 だが、ここには子供がいた。
 化け物の前に放り出されれば、決して生きては帰れないだろう子供。何も理解していないような顔で、ただ首を傾げる。その仕草がやけにスローモーションに見え、エラはほぼ《反射的に》引き金を引いた。
「……ッ……!」
 子供の真後ろ、いっとう背の高い化け物が泥のように崩れ落ちる。ほとんど間髪入れずにその左側の化け物を撃ち殺したところで、もう足が動いていた。女の急激な加速に化け物も一瞬ばかりこちらへ注意をそらしたようで、すべての動きが止まったようだった。子供に一番近い化け物を二体撃ち殺した所為か、先程よりも視界が開けている。開けてはいるが、逃げ道があまりないようだ。舌打ちがもう一度、溢れた。
「動くな、よッ……!」
「っ!?」
 真っ白な布切れを纏うただけの子供の首根っこを掴み、勢い任せに担ぎ上げる。羽のよう、と称するにも子供は少しばかり軽すぎた。怯えに似た呼吸が耳元で淡く囀るのを聞いて、エラは後ろへ大きく跳躍した。
 はら、と燃えるような朱が宙を舞う。
 エラが先程まで居た場所には深々と爪痕が残され、残った化け物はいよいよもってエラと子供を食らうべき餌だと認識したようだ。おそろしいが、それ以上に腹立たしい。あれっぽっちの報酬じゃあ、この戦闘は割に合わないだろう。チャールズはこれを知ってて、エラを寄越したのだろうか? 万が一そうであれば、顔を合わせたらすぐに追加報酬をぶん取る必要があるな──。そこまで考え、不思議と恐怖がないことに笑みが溢れる。まるで、飢えた獣のようないびつな笑みだった。
 体勢を整えながら引き金を引く。三体目が地に伏し、それを構わないと言わんばかりに化け物は四方から襲い来る。エラは肩で子供を俵のように背負った状態で回避行動に専念し、少しずつ後退してゆく。先程爪先のかすった頬がチリチリと痛むが、気にしている余裕などとうにない。攻撃の緩んだところで弾丸を打ち込み、少しずつ数を削いで、敵が十を切ったところで背を向けて全速力で駆け出した。
「っ……!?」
「おい、頼むから落ちてくれるなよ……! アタシはアンタを回収してる暇なんてないからね!」
 子供が一生懸命に頷く気配がして、エラはスピードをあげた。時には廃墟の小路を使用して振りまくようにし、探索ついでに叩き込んだ迷宮の姿を思い描く。目指すは入り口の扉だ。近道をするために廃墟を通り抜けていこうと思い、飛び越えようとした先の気配を感じて慌てて瓦礫に身を潜めた。幸い、後ろから追ってきていた群れもすぐ前方でうろつく化け物も、両方、こちらに気がついた気配はない。
 一度足を止めてしまえば、極限状態だった身体が酸素を求める。なるべく音を立てぬように息を整えながら、エラは次の一手を模索した。大きな音を立てればせっかく此方の姿を見失った群れが聞きつけてしまう。あれは戦闘態勢の際は音に敏感だ。かといって迂回すれば化け物と鉢合わせする可能性が高くなる。この目の前の廃墟を通り抜けてゆけば、もう扉は目と鼻の先なのに。
 おとなしく担がれていた子供が、ふと動く。もぞもぞと何かを聞きつけたような仕草に、エラは慌てて子供を抱え直す。むずがるような年齢でもないだろうに、この状況下で一体何なのだ。
「静かにして……死にたくないだろ、お互いに」
 子供のまっしろな瞳が、エラの空色と交わる。唯一の色彩たる淡い桃色した唇が、何かを紡ごうとして、空気ばかりを生み出す。表情も抜け落ちているせいか、子供が何を意図しているのかさっぱり分からないエラは苛立ちに眉を寄せた。死と隣合わせであるが、存外、苛立つ余裕はあるらしい。いっそ気絶させてしまおうか、とエラが半分本気で考え始めた時だった。
「……ん」
 子供の指先が、瓦礫の向こう、前方でうろつく化け物のいるあたりを指差す。視線の動きだけでそちらを伺って、意外さに目を瞬かせた。先程までいたはずの化け物の姿が、既になくなっていたのである。殺されたにしては音がなかった、一体何が──……否、そんな暇はなかったのだった。女は荷物でも担ぐように子供を抱え直し、また走り出す。正しく意見を受け取ってもらった子供は二度ほど頷いて、また荷物の役割に徹する。
 元傭兵エラ・リリーと真っ白な子供は、かくして出会うのだった。
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