数時間ぶりに吸い込んだ地上の酸素はひやりと肺を満たし、女に生の実感を確かに与えた。全ての扉をきっちりと閉ざしたことを確認して、はじめて俵のように抱き上げた子供を──下ろそうとして、その両脚が裸足であることに気が付き、また抱き上げ直す。肩に担いだままでは人身売買でもしてきたのかと疑われそうであったから、片腕で抱きかかえておいた。その真っ白な子供はやはり軽く、中身が入っていないんじゃあないかとエラはやや不安に思う。
子供はあたりを恐る恐る見渡して、エラの半分ほどしかない手のひらで両目を覆った。五の通り、来た道を戻りながらエラは子供の幼い仕草を見下ろす。
「…………んん」
「眩しいのかい?ああ、まあ、アンタみたいな子には眩しいかもしれないね」
「……ん」
「はあ、仕方ないね。目が潰れても困るし、貸してやるよ。落としたら承知しないから」
空いた手で黒いキャップを取り、小さな頭に被せる。突然生じた日陰に子供は目を丸くして、鮮やかな赤と幾分見やすくなった周囲とを見比べた。明るいといえど、陽はゆるやかに落ちて、あと少しもすれば宵の時刻となるだろう。街灯もない通りでは宵の時刻に出歩く人間はほとんどいない。此処を住処にする人間も、だ。彼らとて何が起こるか分からないから大人しく朝を待つのだ、子供を連れたエラも暗くなる前にこの通りを出てしまいたかった。
自然と歩みは早くなる。大人しい子供もエラの僅かな焦燥を感じ取ったのか、また置物のように黙り込む。泣き叫ばれて注目を浴びるよりはずっと良いが、これはこれで存外扱いにくいだろう。これなら、孤児院で育った知り合いの子供たちのほうが活発というもの。否、あれらは活発というよりかは《たくましい》のだけれど。十分な栄養を与えられていない肉体に、少なすぎる言葉数。太陽に当たったことがないような淡雪の肌に、人らしからぬ白の髪。そして何より、子供はあの地下都市に居た。化け物の前にただひとり、佇んでいた。一体、何者なのだろうか。もしくは、この子供は自分が何者であるかただしく理解しているのだろうか。
四の通りも抜けたころ、すっかり日は落ちていた。チャールズの教会は三の通りにあるから、あと十分ほどもあればたどり着く。たどり着くのだが、《何事もなく無事に》とはならない様子。数メートル先、右の小路で待ち構える見知らぬ男らを視界にいれ、息を吐き出した。その変わった出自と目立つ容姿とで有名なエラ・リリーであるが、まったく絡まれないというわけでもない。寧ろ、名が知れている故に絡まれることのほうが圧倒的に多い。まして、今日は訳有りを堂々と背負っている状態だ。
「……チッ、面倒くせえ……」
「……?」
「適当に撒くか、殺すかか……くそったれだな、今日は本当に」
穏便に男らを撒くか、一思いに全員殺してしまうか。天秤が後者に傾きはじめ、女は目の動きだけで子供を隠しておけそうな場所を探す。残る距離は二メートル。滲む殺意を知らしめるように大股気味に歩み、あと一つの小路を越えれば男らとすれ違う──といったところで、「まあまあ、ちょっと落ち着けって、なァ、エラ・リリー」と割り入る声があった。
男らとエラとのちょうど間に位置する小路の暗闇からゆったりと出てきたのは、ショート丈のグレー・モッズコートを着込んだ青年。身体のラインがわかりにくいコート越しでも鍛え抜かれた筋肉がわかる、大男。短く整えられた黒髪は塗りつぶされた夜空と同じ色をして、切れ長の金眼はさながら瞬く星のよう。色彩ばかりはうつくしいが、実際の顔立ちは獣のようにぎらつき、男らしい。そんな大男が親しげにエラへ声をかけ、隣に並んで歩き出す。
「F.A(エフエー)、どういうつもり?」
「地下潜ってきたばっかりで気が立ってンのはわかるけどよ、アイツにその子を見せるのが先だろ? 傭兵さん」
「……元、をつけろ。アイツから何を言われた?」
「ただの迎えの依頼だっての。帰りが遅いからって」
「死体の確認じゃあなくてか? アタシの死体確認がてら、その辺りに散らばった鉱物でも回収してこい、だとか」
「まさか! お前が死ぬような依頼だったら、この街の奴らは誰もそれをこなせないだろうが」
「はいはい」
エラと一戦交えるつもりだった男らも、エラと大男が相手となれば話は別らしく、恨みがましい視線を向けたまま手を出すことはない。”文明の墓場”と呼ばれるこの街に限って言えば、エラよりもF.Aと呼ばれた大男のほうがずっと有名だった。彼はもう十年以上、この街を拠点としてあらゆる地下都市へ潜り続けているからである。だれかは命知らず、と彼を呼ぶ。F.Aはだからどうした、と笑う。また違うだれかは勇敢な男、と彼を呼ぶ。F.Aは最も臆病な者こそが地下都市では生き残るのだ、と眉を寄せる。そういう、男だった。
「に、しても……エラ・リリーが子守なんて、明日は槍でも降るかもな」
「ぶっ飛ばすぞ」
「やれるもんならやってみろ。……と、違うルートで行くぞ。そっちはまずい」
「あ? ……ああ、どっかのお偉いさんでも遊んでんのかい」
「そんなところ。……つうか、そいつ大人しいな。寝てるわけじゃないンだろ?」
男が子供を覗き込もうとすると、子供は怯えたように顔をエラの首筋へ埋めた。ぬるい体温が伝わり、エラは少しばかり眉を寄せる。が、それきりで、子供に対しては何も言わない。ただ、大男の微妙にショックを受けたような横顔を見上げて鼻を鳴らしただけ。
「嫌われてンだよ、F.A」
「……店じゃ、最高にモテてんだけどな……」
「そういうところだよ、ばーか」
物言わぬ子供を宥めるよう、エラはどこか手慣れた動きでその華奢すぎる背を支えて抱え直す。F.Aの驚きに揺れた瞳も、夜のほの暗さに紛れて分からぬまま。